観音山へは6月に行ったが、これで今年2度目となる。前と同じコースでは面白くないので、今回は八里から先に牛港稜山を越え、そのあと硬漢嶺を往復した後、占山(尖山)までの尾根を縦走して下山した。距離と登り降りは前回より、かなり多くなっている。
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観音山は台北の北西に位置する(クリックで拡大) |
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北西側の八里からスタート |
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田園風景の向こうには快速道路高架橋 |
観音山は海に近い独立した山なので天気がよければ台北のどこからでも見える。独立しているといっても、単一ピークではなく、いくつかのピークがあり標高472mの牛港稜山は、他の山並みとは離れてそびえている。主体は標高616mの硬漢嶺を最高峰として、南東側に尾根が延びておりそこから派生する山もある。占山はこの尾根の最後尾にあり、標高は382mである。この中間の尾根上には5つの小ピークがあり、前後はかなり急な登り降りがあるので、単に硬漢嶺から下るというわけには行かない。特に硬漢嶺登山道の分岐から、第3ピークの前で凌雲寺からの登山道と合流するまでの間は、かなり急な岩の露出した道の部分もあり、比較的整備され気楽な山登りができる観音山の中では、異色である。八里からの牛港稜山登山道も、岩場はないが石段のしっかりした観音山登山道の中では土の道であり、これもある程度山に慣れている人向きだろう。
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廖添丁洞入口 |
今回は、八里からのスタートなので、八里まで高速道路と64号快速道路経由の929番バスで向かう。MRT三和国中から乗車したが、ちょうど出勤時間にあたり、乗ってから高速にあがるまで20分以上を要した。高速にあがってしまえば混む方向とは逆であり、三重の数百メートルの混雑を行くのと同じ時間で八里に着いた。途中右には陽明山の山並みが、左にはこれから登る観音山がはっきり見えた。
うちを7時に出発、三和国中には7時半にはついていたが、バスの便数が少ないこと、混雑で時間がかかったことなどで、期待したより遅く8時40分にやっとスタートできた。はじめは、64号快速道路の高架橋を右にみて荖阡坑鹿路を歩く。時々バイクやトラックが通るが、交通量は多くない。野菜畑や柚子の畑を見ながら行く。舗装道路とはいえ、車では見過ごしてしまうような田園風景を見ながら歩くのも、山道とはまた違った趣がある。2kmほど歩くと勾配がきつくなり、平行していた快速道路もトンネルに入り、見えなくなる。振り返ると遠くに台北港が見える。歩き始めて40分ぐらいで、左に廖添丁洞への標識の分岐に着いた。ここには右へ牛港稜山歩道への標識もあるが、これは舗装路をずっと行き、観音山ビジターセンターからの道を指しているので、これから歩く土の登山道とは違う。
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石碑と背後の岩場 |
廖添丁洞とは、日本の台湾統治時代初期の義賊廖添丁が捕らえられた洞窟である。100年以上も昔の人物である廖添丁は、日本のねずみ小僧と同じように、豪商を襲い獲た金銭は貧しい人に分け与えたとされている。また、統治時代初期の反日抵抗運動に関与した英雄という扱いもあり、八里には廖添丁廟もある。伝説的な要素もあるので、ある研究では統治者である日本の警察当局は捕まえては脱獄され、警官も殺害する厄介な犯罪人という捕らえ方で、抵抗分子とは考えていなかったということであるが、日本でも実在の人物がその生き様をはるかに膨らまされて、後代が英雄的な評価をしているのと同じで、そうした一般庶民の切なる気持ちが映し出されているのかもしれない。
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廖添丁洞 |
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石段の道 |
牛港稜山登山道は、廖添丁洞への道の途中から分岐していくので、まず廖添丁洞に立ち寄った。石階段の道がとぎれ、岩場になるがそこに民国86年(1997年)に建立された碑文(当時の八里郷長、張恒の署名)があった。そこには上記のような説明があるが、日本は日寇と呼ばれている。ロープの下がっている岩場を登ると、また石段が始まる。この石段の脇に小さな祭壇が造られている穴が、廖添丁洞である。お供え物もおいていある。1909年に27歳で亡くなったが、当時の警察記録では密告し捕獲部隊を案内した親戚の人間が、鍬で殺してしまったそうだ。廖添丁は、体が弱ってこの洞窟で養生していたが、親戚と警察を見て銃を取ったところ弾は出ず、その隙に反撃を食らった。
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山道途中の倒木 |
廖添丁洞からはさらに先に石段が続いているが、これは少しで最高部になりそこからは、下がって先ほどの廖添丁洞歩道入口へ通じる道である。牛港稜山登山道は先に来た道を戻り、その途中から分岐して登っていく。ここの標識は行政機関のものではなく、登山クラブのものであり、登山道もクラブの残したリボンが頼りである。登っていくと、石ひとつが一段となる素朴な石段が始まる。結構長く続くが、これは農作業の利便も含めて造られたものだろう。振り返ると海と、近くに快速道路の高架橋が下方に見える。これを登りきると雑木林や竹林に入り、土の道になる。結構急な道が続く。倒木なども現れるが、そのうちにロープを張った部分も現れる。一気に300mぐらい高度を稼ぐのでそこそこつらい。40分登ると、立派な歩道にでた。これはビジターセンターから登ってくる登山道である。この分岐部分に、今来た登山道は経験のある登山客がグループで通るように、とこのあたりを管轄する交通部観音風景区管理局の警告板があった。
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山道入口の警告板 |
ここからは、立派な道を歩き展望台に着く。谷を挟んで反対側には硬漢嶺が見える。頂上がガスが去来している。左下には台北港が見える。時間は10時40分。八里を出発して2時間である。水を飲んで休憩後下り始める。しばらく行くと、狼煙台跡につく。1895年日本が日清戦争の馬関条約で台湾割譲を受けた後、台湾では反日義勇軍が組織された。義勇軍は各方面から狼煙を合図として台北の日本軍を攻める予定であった。この狼煙台は台北が一望できるところにあり、狼煙台として適地である。戦いの結果は歴史が示しているが、上記の廖添丁洞も含めて、この牛港稜山は台湾統治初期の歴史が残っている。
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狼煙台跡から見る台北 |
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楓櫃斗湖登山道の休憩所 |
狼煙台からビジターセンターへの道は、ちょうど整備中であった。次のルートに進むためには、この道を下るしかないので下っていくと、桟道の工事現場が現れた。橋はないが土台の周辺を注意深く迂回して下った。下ること15分、ビジターセンターに着いた。センターの上の道へ登ると、硬漢嶺へ続く稜線山道につながる、楓櫃斗湖步道が始まる。この道ははじめは舗装路であるが、民家をまくと石段の道になる。6月に凌雲寺から硬漢嶺歩道を歩いたときは、ちょうど整備中であった。道は整備され非常によい、一定間隔で街灯も設けられている。家を出てからまだ食事をしていないので、腹が減ってきて力がでない。ちょうど休憩所があったので、ここで休み食事をとる。
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硬漢嶺頂上近く |
12時に稜線の硬漢嶺歩道に合流。硬漢嶺を見ると、ガスが去来している。とりあえず硬漢嶺へ往復する。十数分で頂上についた。果たして頂上は霧の中、景色は望めない。6月に十分見ているので、今日はよしとしよう。早々に今来た道を下り、占山の分岐を目指す。十数分で分岐についた。時間は12時半過ぎ。この道の入り口には、牛港稜山で見たのと同じような警告板がある。下り始めしばらくは石段の道が続くが、これも切れて土の道になる。これから占山まではピークが5つあるが、そのうちの3つは警告板にある「荒野型山林小径」の途中にあり、前後はかなり急な登り下りがある。特にはじめの第6ピークの下りは、岩場でロープを頼りに下る。第5峰下り口からは左に淡水や西方向に台北の街並みが見える。大屯山も全容がはっきりわかる。硬漢嶺は霧がはれている。第2ピークの先には、目的地の占山が控えている。
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第6ピーク下りから見る大屯山 |
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第5ピークからの第2ピークと占山、台北 |
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第2ピークの下り道 |
第4ピークからの道を下りきると、突然石畳の道に出た。これは凌雲寺から来る占山歩道である。今までの道とは違い、気楽な道だ。第2ピークからはかなり急な道を下る。ただ、手すりのあるしっかりした石段や木製階段で、気を使わずに下れる。鞍部へ大きく下った後、送電線の鉄塔の下を過ぎ、占山への登りとなる。高度差は5,60mだが、さすがに今までの疲れが出てきたのか、結構つらい。登りきると、あずま屋がある。登山客がラジオをつけて休んでいた。時間は2時ちょっと回ったところ、硬漢嶺歩道分岐から1時間半の歩きだった。ここで2度目の食事休憩とする。
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占山 |
占山からの下りも結構急な階段の道で高度を下げる。高度150mぐらい下ると、道も緩やかになり舗装路に出る。ここからは、観音山バス停まで県道を歩いていく。途中分岐には道標示もあり、わかりやすい。下る途中、右には鷹仔尖や歩いてきた占山と縦走路のピークが続いている。3時にバス停に到着、今日の行程はこれで終わりである。凌雲寺から下ってくる棕20番バスは間もなくやってきた。帰り道は速い、蘆洲からMRT経由で4時にはうちに着いた。
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観音山バス停付近 |
今回のルートは、それぞれ別々に歩くようなものをつなげたので、やはりきついところもあった。これで観音山の主なルートは歩いたことになる。もちろんまだ行っていないところもあり、季節を換えていくこともいいだろう。距離は12キロ強、時間は6時間15分であった。
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