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2020-11-30

2020年11月23日~29日 新康橫斷縱走 雲上に浮かぶ台湾南東部の孤峰シンカン山を登る

布拉克桑山への途上から見る新康山、その左は連理山(左)と新仙山

三年前に歩いた日本時代開削の八通關古道抱崖山屋
から仰ぎ見た朝陽を浴びて聳えるシンカン山、二年前に北から南へと縦走した台湾中央山脈南二段稜線上から常に左前方に雲海に浮かぶ厳つい孤峰のシンカン山、それぞれ筆者に深い印象を刻んだ。そのシンカン山に登った。1931年まだ抗日活動を続ける原住民ブヌン族ラホアレ一味を恐れながら、(搭芬)尖山に単独登攀した鹿野忠雄は「雄渾無比の危峰シンカン山(11,157尺)は、ここから見てもまた東の空の王者であり…」と記している。

朝陽に赤く光る新康山(2017/7抱崖山屋より)
南二段達芬尖山への途上で見る雲上の新康山(2018/12)
シンカン山は、日本時代は新關山、その後新康山の字があてられている。その語源はシンカン山の谷間に居住していたブヌン族原住民の高山という意味である。標高3331mで花蓮縣とその境界線上で分かつ台東縣の第二高峰でもある。西に新仙山や連理山のピークを起こす稜線線で中央山脈の三叉山につながるが、その地質は中央山脈の水成岩とは異なり大理石などを主とする構成という。初登頂は、1930年4月に総督府殖産局山林課の吉井隆成一行が、八通關越道路の石洞から登っている。

西から東へ縦走
七日間の歩行高度
台湾東南部に位置する目的地
その位置からして、登山ルートは南二段の三叉山から東に尾根を追って登攀し、大きく下って八通關古道の登山口に降りるのが一般ルートだ。この稜線縦走中、一旦百岳に数えられる布拉克桑山(標高3025m)を南に往復する。以前は、南二段縦走路である向陽遊樂區登山口から入っていた。昨今の嘉明湖人気で、向陽山屋や嘉明湖山屋などなかなか確保できず、その代替路線として多くの登山者に歩かれるようになった、戒茂斯山経由の道で嘉明湖に登り、そこから東に新康山に向かった。我々は七日をかけて歩いた。時間的に余裕があり、一日は行動中に雨に降られたが、肝心な場所では素晴らしい好天に恵まれ充実した縦走ができた。

布新營地でくつろぐ全メンバー
三叉山付近から望む布拉克桑山(2018/6)

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第一日 11月23日(月) 玉里 - 戒茂斯登山口 - 戒茂斯山 - 新武呂溪 - 足球場營地 [晴れのち雨]

南側の南橫公路登山口から北へ歩く

一度沢に降りまた登る

玉里駅に到着
昨日22日は、台北から列車で花蓮縣玉里にやってきた。知本行きの太魯閣號特急は、台北から三時間足らずで、16時前に到着。駅のすぐ前の民宿に荷物を置き、メンバー七名はみんなで街へ散歩と夕食を兼ねて出かける。台湾東部の街は、人口密度が低いためか西側の街に比べ何か寂しさを感じる。翌朝が早いので、20時ぐらいまでには就寝した。


今朝は4時半に出発だ。昨晩に雨音を聞いていたが、道が雨でぬれており細雨がまだ降っている。民宿の隣はコンビニで握り飯などを購入し、シャトルサービス車に乗車する。台9線を南橫公路へ向けて走り、そのうち谷を登っていく。車上ではうとうとしていたが、気づくとすでにかなり登ってきており、夜も明けてきた。車窓からは山々が高く、空は青い。天気が良くなっている。天気予報では、行動予定一週間のうち二日目と後半2,3日はあまりすぐれない。

南橫公路156.5Kの登山口で下車し準備
6時14分、戒茂斯山登山口着く。ここは向陽遊樂區に行く前に通過するところだ。このルートは以前からあるが、殆ど使われていなかった。ところが、この二,三年年ほど嘉明湖の人気が高まり、その一方途中の嘉明湖山屋などがなかなか確保できないため、こちらのコースが注目を浴び、多く歩かれるようになった。筆者は、向陽遊樂區登山口を経由しての登山はすでに、三回ほどあるのでこのルートの選定である。

まだ新しい登山口の小屋
戒茂斯山前鋒
登山口は、目立たないが小さな表示がついている。入口は急坂だが、尾根に上がると木製の小屋ができている。まだ新しいが、このルートを使い嘉明湖への登山旅行を行っている業者が立てたものか。尾根上の道を登ること30分足らず、7時少し前戒茂斯山前峰(標高2,065m)に着く。登山口が1900mぐらいだから、約160mの高度を稼いだ。いつの縦走でもそうだが、第一日目は食料などの荷物が一番多く、登りなので苦労する。

樹木の切れ目から西側を望む
雑木林の中を戒茂斯山へ登る
広葉樹がメインの森は、下草が少なく、すっきりしている。朝の光がそれを強めているのか。森が切れた左には、ちょうど同じくらいの高さに向陽遊樂區の建物が山腹に見え、その背後には高く關山嶺山から塔關山への稜線崩壊面がそびえる。その稜線をさらに左に追っていくと、おおきな山塊がある。關山だ。尾根上の道はしばらく緩いが、そのうちまた勾配がきつくなる。途中一度休憩をとり、8時44分右へ戒茂斯山山頂への道が分岐する。空身で緩い坂道を数分進み、8時52分戒茂斯山山頂(標高2501m)に到着する。森に囲まれた中級山は、展望はない。

@戒茂斯山山頂

まず新武呂溪の支流を渡る
往路を戻り分岐から荷物を担いで、下り始める、今日のルートは、一旦新武呂溪に下り、また坂道を足球場營地へと登り返す。せっかく600m登ってきた高度を下げるのは、致し方がない。勾配が緩くなり、沢音が聞こえてくる。9時58分、新武呂溪の支流わきにおりる(標高約2200m)。渡渉し左岸を少し行く。今度は新武呂溪本流を渡渉する。その地点で食事休憩を少し長めにとる。沢の水は透き通り、明るい感じの谷だ。

森の中に多くの業者のテント
テント地をあとに登り始める
今日の露営地は、水場がない。この沢の水をもっていかなければならない。夕飯と明日の行動用の水、約3リットルほど補給し、10時37分出発する。道はすぐに多くのテントが張られている野営地を抜けていく。登山旅行業者が設営したものだ。椅子やテーブルもある。今日は時間的なこともあるので人気がないが、週末などはかなり多くの登山者が訪れるのだろう。

松葉絨毯の道を登る
周囲は霧が出てきた
山道は、緩やかな尾根上を登っていく。台湾アカマツ林は、木々がまばらでとても明るい感じだ。地面には松葉が敷き詰められている。下山して来る登山者とすれ違う。途中50分ほどの長い休憩も含め、沢から二時間半ほど登ってくる。それまで見えていた青空は霧がとって換わる。13時26分、森の間に開けた草地が広がる。排球場營地だ。さらに10分ほど緩やかな道を行くと、また広い草地がある。ここが本日の宿泊地足球場營地(標高約2770m)だ。名前が示すように、森の中にこのような開けたところがあるのが、このルートの特徴であり魅力だ。

排球場營地
足球場營地
森の中にテント設営
少し雨がぱらつきだした。急いでテントを取り出したてる。テントに落ち着くと雨脚が少し強くなってくる。17時過ぎに夕飯を作り食べる。雨はすぐに止む気配がない。テントに落ちる雫を聞きながら就寝する。今日の行動は、休憩込みで7時間10分、距離6.2㎞、登坂1204m、下降334mだ。コース定数は27となる。




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第二日 11月24日(火) 足球場營地 - 妹池 - 嘉明湖 - 布新營地 [晴れのち雨]

嘉明湖を経て布新營地へ
歩行高度表

道脇には雨でたまった池
4時半に起床し、外に出る。雲の間に月が見える。雨は幸い止んだ。6時に出発する。間もなく木々がまばらな森は明るくなる。緩やかな坂の道を進む。昨日の雨で二、三か所小池を見る。朝陽が差し込む。6時55分、前方に開けた草地が現れる。ゴルフでもできそうな場所で、高爾夫球場と名付けられている。手持ちの地図が示す道はこの場所を通らないが、踏み跡はこちらが遥かに明瞭で、おそらく今はここを通過する道が通常となっているようだ。道端に屏東科技大學の名の入ったタグが取り付けられている。林務局の依頼で嘉明湖登山道の調査をしているということだ。

森の中の「ゴルフ場」
サルオガセが垂れ下がる
ブドウの房のように多くのサルオガセが垂れ下がる樹枝に青空が透ける。この地は霧が多いのだろう。しばらく急な坂を登り、尾根上に上がる。7時17分、左から道を合わせる。以前の道だろう。7時半休憩をとり、さらに緩い坂の稜線道を行く。8時12分、森が切れて草原に出る。進むにつれ、たおやかな丘陵の向こうに向陽山から三叉山の稜線が次第に姿を現す。稜線上には雲が激しく流れている。

屏東科技大學のタグ

緩い尾根道を進む
草原に出る
妹池とテント
涸沢を渡り急登が始まる
草原の道は少し下り、右に妹池のくぼみを見る。おそらく昨日の雨でできた水溜まりの周囲には多くのテントが立てらている。ここもおそらく業者によるもので、多くの嘉明湖への登山者に対応しているようだ。妹池を右下に見て山腹を巻き、9時過ぎ涸沢に降りる。沢には水がない。しばらく急坂が続く。標高差250mの登りは重荷を担いだ身に辛い。

急坂を登る、背後に妹池のテントが見える

@嘉明湖
縦走路分岐
40分ほどの急登が終わり、緩やかな広い稜線上を行く。霧が湧き出し周囲の景色が見え隠れする。10時8分、右下に嘉明湖を見る。筆者にとって今回は四度目の訪問となる。風が強く寒いので尾根の反対側岩陰で休憩をとる。40分ほどの休みの後、三叉山下の縦走路分岐へ登る。右にヘリポートを見て、11時10分分岐に着く。今回縦走中、ここが最高点だ(標高約3380m)。メンバーのうち三名は初めてなので、三叉山へ空身で往復する。30分足らずで戻り、分岐を右に縦走路を歩きだす。

霧の中の新康山と南二段の分岐
小雨もぱらつく稜線道
霧がますます濃くなる。山腹を巻いて進み、12時2分、南二段縦走路との分岐に着く。道標には、新康山12.4Kとある。二年前は、この道を北からやってきてこの分岐を通り過ぎた。雨が降り出したので、雨具をつける。だだっ広い草原は、霧が出てくるとランドマークがないため、方向が分かりにくくなる。ただ、道筋ははっきりしているので問題ない。12時半に休憩をとり、その少し先で12.6Kのキロポストを見る。

霧の中の広い草原の道
布拉克桑山へ分岐
13時11.6Kを見ると、道は稜線の右側少し下がった山腹を進む。雨脚が少し強くなってくる。13時23分、布拉克桑山への分岐に来る。右に取り、本日のキャンプ地を目指す。10分ほどで、広い草原の布新營地(三叉山下營地,標高約3110m)が現れる。雨で窪みには水たまりができている。どこでもテントは張れそうだが、雨のことを考え少し高いところに設営する。テントに入り落ち着く。今日は1時間ほど雨に降られたが、無事にキャンプ地に到着した。

雨の中で設営

テントの中でお酒を飲んでくつろぐ。雨は降ったりやんだりが続く。17時過ぎに夕食をとる。19時には就寝する。明日の天気が心配だ。今日の行動時間は休憩を含み約7時間半、距離9.5Km、登坂874m、下降574m、コース定数25だ。




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第三日 11月25日(水) 布新營地 - 布拉克桑山 - 布新營地 [快晴]

露営地から布拉克桑山を往復
歩行高度表

テントをそのままに出発
5時に起床しテントを出ると、満天の星だ。朝方少し寒さを感じたが、それは天気が回復したためだ。空が次第に白んでくる6時少し過ぎに軽装で出発だ。今日は、百岳にカウントされる布拉克桑山への往復だけだ。テントはそのままに南方向に歩きだす。布拉克桑山は標高3025mでキャンプ地(標高約3110m)より低い。ただし、片道約8㎞、一旦鞍部に下り登り返しが必要だ。またその間に小さな上り下りがあり、単純な標高差に比べ実際にはそれほど楽勝ではない。


朝陽の中の新康山
天気が回復したので、みんな元気いっぱいだ。キャンプ地から少し登ると、東側からちょうど雲海上に太陽が昇ってくる。雲が尾根を越えていく雲瀑も見える。太陽が昇ると、周囲はたちまち赤に染まる。稜線の左に新康山の大きなシルエット、右に次第に赤に染まるたおやかな三叉山、感動の一刻だ。

赤く染まる三叉山
ヤタケは雨でぬれている
昨日の雨で、ヤタケは濡れている。我々はもちろん上下とも雨具をつけての進行だ。森から草原へ、また草原から森へと基本緩い下りの道が続く。40分ほど歩くると、稜線の右側を行く道からは、向陽山やその左(南)に關山やそれに続く南一段の峰々が長く伸びる。その稜線の向こうに、北大武山がその頭を突き出し存在を主張している。

向陽山と關山(左)
南一段の山々、稜線上に北大武山が山頂をのぞかせる
草原を下っていく
約4Kmぐらいまでは、基本下りなので小さな登り返しはあるが、どんどん進む。草原部分では、雨でできた小池を何カ所か見る。途中一度休憩をとる。8時少し前、森の中に広がる大きな窪み部分を通過する。この辺りの道は比較的平らだ。森に入り、右に池を見て間もなく道は大きく最低鞍部に向けて下る。今は良いが、下りは登り返しになるので辛いだろう。アカマツ林の落ち葉絨毯道を下り、8時半に最低鞍部前で休憩をとる。

森の中の池脇を行く
アカマツ林を鞍部へ下る
山頂への登り
約2830mの最低鞍部を過ぎると、山頂への登りが始まる。布拉克桑山山頂までの標高差は約170m、最後の頑張りだ。勾配は次第にきつくなる。途中で樹木が切れ、左に新康上がゴツゴツした質量をもってして、スカイラインを画す。明後日あの山をの登るが、かなり急坂を登らなければならないだろう。その右方には谷に雲海を埋め、海岸山脈の峰々がある。少し勾配が緩くなって間もなく、9時42分布拉克桑山山頂(標高3025m)に登りつく。出発から約3時間40分だ。山頂は樹木に囲まれ、展望はほとんどない。山名は、ブヌン族のブラクサンに漢字をあてたもので、日本語読みで無楽散山や部落散山などのいう漢字山名もある。記録のある初登頂は1930年4月に総督府殖産局山林課の吉井隆成一行が、向陽山方向から登頂したとある。

@布拉克桑山山頂
山頂から下る
山頂でゆっくり40分ほど過ごし、10時20分過ぎ往路を下り始める。11時過ぎに最低鞍部を通過、長い登り返しの始まりだ。下りは良いが、登り返しの落差100数十メートルは勾配もきつく辛い。ひたすら足をすすめ、11時38分平らな部分に登り着く。11時43分、朝に見た森の中の池を通過する。その少し先で、広い森の中の草原窪みを通過。太陽が昇りあまねく照らすので、余計に広く感じる。

広い森の中の窪み
三叉山が近くなってきた、露営地は遠くない

布新營地に戻った
一旦少し下り、緩い坂の帰り道を進む。草原では陽光が強く、暑いぐらいだ。12時過ぎ、草原部分で休憩をとる。筋雲が紺碧の空に映える。草原から森、森から草原へと、道はぬっていく。前方には三叉山が近づいてくる。最後に一度休憩をとり、13時42分キャンプ地へ戻る。往復で約7時間40分ほど、予定時間内だ。

テントを移動し、装備を乾す
水場で水を補給
昨日は、雨を考慮して位置を決めたが地面が平らでなかったり不便なのでテントを移動する。広いうえに我々以外にはだれもいないので、場所は思うがままだ。テントを移動した後は、昨日の雨でぬれた衣服やシュラフを乾す。15時過ぎ、テント場近くにある水場へ水くみに降りる。数分で水場に降りるが、水は流れていない。沢沿いに下れば流水があるだろうが、昨日は流れていたと思われる場所には水があり、それを汲む。昨日のテント近くの水溜まりの水よりはましだろう。

ヘリコプターが上空を飛ぶ、訓練か救助か




太陽が沈み寒くなるまで、テントわきでゆっくり時間を過ごす。17時前に食事を用意し、食べる。17時を回ると、さすがに寒くなる。明日の好天を願い、19時には就寝する。今日の活動は、休憩込み7時間40分、距離約16㎞、登坂982m、下降988m、コース定数29だ。




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第四日 11月26日(木) 布新營地 - 連理山西峰 - 桃源營地 - 連理山 [快晴]

稜線を東へ進む

稜線上は上り下りが続く

夜明け前に縦走路分岐へ登る
昨晩は月も出て天気が良かった。風もあまりなく穏やかな晩だが、気温は低く朝起きると霜がある。天気も良いので、今日はできれば新仙山前營地まで行きたいが、様子を見ることにする。そのため、できるだけ早く出発するべく3時半に起床、5時少し前に出発する。十数分坂を登り、稜線縦走路の分岐に着く。ここでメンバーの一人Cさんが、左に向陽山経由で下山するため分かれる。ここからメンバーは六名だ。

黎明の空に明けの明星と新康山のシルエット
玉山が朝陽に姿を現す
まだ暗い内右に登っていく。すぐに10.6Kのキロポストを見る。5時26分、稜線に上がる。明けの明星がまだ空に輝き、赤くなり始めた雲海地平線の中に新康山のシルエットが浮かぶ。5時40分、休憩をとり光のドラマを眺める。実に雄大な営みだ。稜線道を下り始める。空は次第に明るくなり、6時11分東の雲海上に太陽が顔を表す。たちまち周囲は明るくなる。北の空にある玉山は、曙光を受けてその姿を現す。前方の巨漢新康山は単なるシルエットから、山襞のある山体を示す。左遠く馬博橫斷の山々も明瞭になる。

夜明けの新康山,手前は連理山西峰
片側が切れ落ちた稜線を下る
尾根は幅が狭まり、右は切れ落ちる。三叉山から東に伸びてくる新康橫斷の稜線は、その緩やかな三叉山ごとくの温厚さを捨て去り、自己の特徴を主張する。右近くに、昨日歩いた布拉克桑山への長い尾根が分岐して伸びる。登山道上には霜が降りている。6時26分、9.6Kキロポストを見るヤタケも昨日の好天で乾ききらなった場所は、葉には霜が降りて白い。6時48分、休憩をとる。

道に降りた霜
馬博橫斷の峰々

小野営地
低く見えていた連理山西峰が次第に高くなる。また登り返すのかと思うと恨めしい。道は森の中に入り下る。7時26分8.6Kを通過し、7時55分小さなキャンプ地を過ぎる。道は連理山西峰山頂(標高3161m)に上らず、山腹を巻いていく。それでも鞍部から高度差は150mある。巻き道の樹木が切れた場所から、前方に高く連理山とその背後に新康山が更に高い。8時22分、7.6Kを通過。この縦走路のヤタケは枯れているところは少ないが、それほど密生していないのが助かる。
稜線道から新康山とその前の連理山を見る
巻き道を行く
通話可能ポイントの表示板
8時39分、携帯電話が通じるポイントのサインを見る。スマホを取り出し、早速天気予報を確認。今日は問題がないようだ。ただ、金曜日からまた天気が変わる予報は変わっていない。9時22分、明るい感じの台湾ツガ林で休憩をとる。ちょうど6.6Kキロポストがある。

台湾ツガの森で休憩


アカマツ林を下る
休憩後十数分進むと、急坂が始まる。10時9分、台湾アカマツの下り坂が終わったところに、飛行機の残骸が転がっている。第二次大戦終戦直後の1945年9月に、フィリピンなどのアメリカ人およびオーストラリア人戦争捕虜を本国に帰還させるための米軍機が、この地に衝突し乗員全員25名が罹難した。その後、救出のためまだ日本の管理下で警察官や原住民などの捜索隊が出動したが、天候などの理由で二重遭難をしたものである。その後第二次救助隊も出動したが、これまた台風などのため、第一次と二次救助隊都合26名が死亡した。最終的には10月に第三次の救助隊により、現場で遺体を埋葬したという。所謂三叉山空難事件だ。連合軍側にしてもまた日本側にしても、戦争が終わり故郷に帰れず他郷で散ったのは、悲しいことである。残骸はかなりの範囲で広がったようだ。すでに75年を経ているが、アルミ部品などはまだ光沢がある。

墜落機の部品

石瀑
10時30分過ぎ、桃源營地前の登り返しをする前に休憩をとる。上りが始まると、すぐに岩が転がる石瀑を過ぎる。下りが始まりアカマツ林を下りきると、11時11分桃源營地(連理山前營地,標高約2750m)に着く。ここは連理山との鞍部で、北側斜面にもいくつかのテントを張れる場所がある。時間はまだ昼前だが、疲れを見せているメンバーもいる。メンバーと話し合い、さらに進むことにする。この先は水場がない。そこでまず北側の斜面を10数分水場へと下る。岩の斜面から水が流れている水場は、十分に水がある。各人補給し鞍部へ登り返す。

桃源營地
岩から水が滴る水場
岩が多く現れる連理山への道
休憩後、12時半3リットルの水を入れて重くなったザックを担ぎ連理山を登り始める。標高3136mの山頂まで約380mの落差だ。登り始めて間もなく4.6Kを過ぎる。坂は急だ。岩が多く現れ、登っていくのはつらい。背後に日差しを受け、ことさらだ。登るにつれ、振り返るたびに連理山西峰やその背後の峰々が低くなってくるのが、唯一の慰めだ。13時49分、大きな岩のオーバーハング岩屋を過ぎる。その上10分ほどで森に入る。14時27分、人工に岩を積んだ壁のようなものがある。以前聞いた話では、ブヌン族原住民が鹿などの狩猟の際に追い込んで、この壁に隠れていた者が発砲し仕留めたものという。

登るにつれ、背後の山が低くなる
オーバーハングの岩屋の脇を登る

ブヌン族の狩猟用石積
連理山山頂に着いた
また岩が露出した坂を登る。14時50分、連理山山頂に到着する。休憩をとる。今までの登りの状態でさらに新仙山前營地へと進むと、おそらくさらに2時間以上の時間がかかり、夕暮れまでにはつかない。もともと時間がかかった場合は、途中にあるキャンプ地で泊まることを考えていた。水があるので、平らで適切な場所があれば設営できる。休憩後少し進むと、ちょっと窮屈だが平らでテントが張れる場所がある。そこで今日は行動を終了し設営する。17時過ぎ食事をとる。月が出てきて、梢の影がテントに映る。風もあまりなく助かる。
狭い場所で設営
今日の行動時間は、休憩や水補給などをいれて約10時間、距離7.6km、登坂977m、下降934mだった。コース定数は29になる。これで全行程の半分を過ぎた。残りは明日の山場、新康山でそれ以後は下降と八通関古道歩きなので、気が楽になる。


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第五日 11月27日(金) 連理山 - 新仙山前營地 - 新康山 - 新仙山前營地[快晴後夕方から小雨]

新仙山前營地へ着いた後新康山を往復
歩行高度
まだ暗い台湾ツガの森を下る
月光が落とす梢の影を見て寝付いた翌日は、起きると外は星空だ。4時起床、5時半に出発する。まだ暗い中、道を探すこともある。特に倒木やヤタケが多いところは、道筋を見失いやすい。6時を回ると、森にも光が入り少し明るくなってくる。台湾ツガの原生林を下り、6時40分2.6Kキロポストを見る。さらに15分ほど下り、倒木の一本橋を渡る。その少し先から、登り返しが始まる。

森の向こうに新仙山のシルエット

倒木を渡る

新仙山前營地はすぐだ
登り道は一部急な場所もあるが、おおむね勾配はそれほどきつくない。7時20分、前方の谷が開け新仙山前營地に着く。朝の元気な時で、約2時間を要している。もし昨日の状態では、三時間ほど要したかもしれない。ザックを下ろし設営する。西向きに開けたキャンプ場はそこそこ広い。

先にテントを建てる
新仙山の分岐、背後にテント
設営後小休憩と準備をして、8時20分軽装で新康山へ出発する。新仙山へ少し登る。分岐周辺は新仙山營地で、テントが四張立っている。おそらく新康山へ向かっているのだろう。分岐からすぐ上の新仙山山頂(標高3127m)に登る。天気は良いが、樹木で遠くは望めない。山頂からすぐに急坂で鞍部へ下り始める。最低鞍部までの標高差は150mほどだが、岩が多く現れ時間を要する。

@新仙山山頂

大きな落差の岩場を下る
新仙山から下ること約20分、9時少し過ぎに落差の大きな岩場に上部に着く。落差は10数メートルはあるだろう。一人づつ下る。下ったところで、新康山登頂を終えたグループとすれ違う。目の前には、新康山が大きくのしかかってくる。9時半最低鞍部(標高約2750m)を通り過ぎ、しばらく登って休憩する。
新康山が高い
急坂が続く
一昨日布拉克桑山への途上で見て思ったように、新康山への登りは急だ。ほとんど途切れることのない急坂が続く。ひたすら登るしかない。10時8分、大岩が森の中に現れる。岩を回り込み、また上に現れた岩を巻くように右方向へ登っていく。10時15分、上り坂の途中で休憩をとる。標高は3200mを越え、残り落差は100m強だ。

大岩が現れる

最後の登りを頑張る
急坂は相変わらずだ。10時38分、大岩の部分を通り過ぎ、10時41分新康山山頂(標高3331m)に登りつく。空は青く、実に爽快だ。山頂は小高い感じだが周囲の樹木も高く、展望はところどころ邪魔される。山頂では電波が届くので、早速スマホを取り出し天気予報を確認する。昨日と比べると状況は良くなっている。今日も明日も降雨確率が低い。メンバー四名はすぐ先の天宮堡壘に行きたいというので、山頂で一時間ほど待つ。

新康山山頂の筆者

急坂を下る
岩壁を登り返す
四名が戻り全員で12時過ぎに下山を開始する。急坂は登りはたいへんだが、下りは速い。40分足らずで最低鞍部に降り、その先少し登り返して休憩をとる。こちら側も登りは楽でない。岩壁を登り返し、さらに進むが途中の小さな下りと登りがうっとうしい。13時40分少し休憩をとり、13時54分新仙山山頂に登りつく。分岐に降りると、当然だがテントは撤収されている。左に道をとり、14時10分に新仙山前營地に戻る。

新仙山に戻った
西陽が当たる新仙山前營地
朝は、日陰だったテント場は、西向きなので陽光があふれている。そのうち霧が出てきたので、テントに入る。16時半過ぎ食事をとり、18時前には就寝する。日暮れ前に協作の一人がテント場を通過していく。就寝した後、雨がぱらつきだしたなか、大勢のパーティーがテントわきを行く。すでに暗く、昨日自分たちもそのまま歩いていたら、同じような時刻に着くことになっていただろう。



今日は、休憩込み行動時間8時間40分、距離4.5㎞、登坂639m、下降712mである。コース定数は22となる。今までのうち、新康山の登りは急であったが一番楽であったということだ。

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第六日 11月28日(土) 新仙山前營地 - 八通關古道新康山登山口 - 抱崖山屋[曇後午後小雨]

北へ尾根を下り八通関古道の抱崖山屋へ

下りメインの歩き
明るくなってからの撤収
今日は山を下るだけの行程だ。そこで5時起床、6時半出発だ。昨日の雨は止んでいるが、霧が濃い。昨日見た天気予報に比べると状況はよくない。しかし、今日は下るだけで登るピークもない。雨さえ降らなければ御の字だ。

新仙山分岐には昨日遅くのパーティテントが
原生林の底は苔が生える
予定通り6時半に新仙山分岐に向けて少し登り始める。昨日の雨で、ヤタケは濡れている。6時42分、分岐を通過する。テント場は張られたテントで満杯だ。分岐は左にとり、高度差約1300mの坂を下り始める。台湾ツガの林は、昨日の雨で地上の苔が緑を増し、薄い霧と相まって実に良い感じだ。まさに原生林の趣だ。

間もなくヤタケが森の底を埋める

坂が緩くなる
木々にはサルオガセがかかる
林の中を急坂が行く。苔はそのうちヤタケにとってかわられる。下ること約半時間、坂は緩くなり、幅の広い尾根上を進む。7時45分、休憩をとる(標高約2840m)。周囲の樹木には多くのサルオガセがかかっている。ここも霧が多い湿潤な場所なのだろう。サルオガセがぶら下がる、モミの一種類である台湾ツガは、遠くから眺めるとまるでクリスマスツリーのようだ。手前の蜘蛛の巣に巻かれたニイタカヘビノボラズは、この時期でもまだ紅葉せず青い。南部であることや高度が低いせいか。

アカマツが現れる
尾根を離れて右に下る
新仙山から北に下る尾根上の緩い道はさらに続く。ヤタケもほどんどなく、森の底はすっきりしている。そのうち森は台湾アカマツが現れてくる。8時36分、わずか登り返し道が右に折れる場所で休憩をとる。標高は2620m台だ。ここから道は尾根を離れ、右に山腹を急坂で下り始める。広葉樹も現れ、落ち葉が道を覆う。坂は急だが、殆ど下草もなく歩きやすい。9時半、休憩をとる。標高は2400mを切り、ほぼこの下り道の半分を過ぎた。



急坂で高度を下げる

ベニヒ大木の脇を下る
急坂は続く。そのうちベニヒ(紅檜)の大木が目に付くようになる。道はつづら折れで下っていく。斜面は急だが、このような道は歩きやすい。ベニヒもなくないり、広葉樹メインの中をくだる。10時10分、左に人の手が入ったようは場所を見ると、道の状態はさらに良くなる。10時27分、坂を下り切り八通關古道上の登山口に着く。三年前ここを通り過ぎた時、まだ知らぬ新康山はどうなのかと思いやったことを回顧する。登山口脇で休憩する。ここは沙敦駐在所跡のすぐわきでもある。

下り坂も残りわずか

登山口の筆者
今回はメンバー中に日本人も一人いる。みんなに古道の歴史について説明する。その後沙敦駐在所跡の台地に上がる。ほとんど何も残っていないが、欠けた碍子が転がっている。11時過ぎ、目的地の抱崖山屋へ向けて歩き出す。100年を経た古道は、戦後手入れされずに長く放置された。2000年代の初め玉山國家公園管理處は、壊れた吊橋の代わりに新しい吊橋を建てたり、その他小さな鉄の橋を架け、また山小屋を設けて整備した。その後、大きな台風によりがけ崩れなど被害を受けて、一時期また封鎖された。昨年に古道は開放され、歩けるようになった。筆者は、三年前封鎖されているときに、古道調査のために委託された大学の調査隊に参加させてもらい、全線を歩いた。今、このようにして再び歩くことができて、実に感慨無量だ。

草に蔽われた沙敦(サトン)駐在所の跡地、右に石の基礎
まだ状態の良いセクション
100年を経たとは言え、古道は今までの山道に比べたらはるかに歩きやすい。日本時代には、3,4日で100㎞を越える全線を歩いたという記録もある。当時はいかに道が整備されていたかが、うかがえる。今では、崖崩れ部分や落ちてきた岩が転がっているところなどもある。それはいかしかたがない。それでも、古道が管理され歩けることは、実に意義深い。

沙敦隧道前の筆者

石洞吊橋

殉職記念碑

そんなことを思いながら10数分あるくと、古道唯一のトンネルを抜け、石洞吊橋を渡る。橋から見下ろす谷底はとても深い。11時39分、右に後藤又五郎などの殉職記念碑を見る。記念碑の前には酒瓶と見立てた空瓶がおいてある。その先間もなく櫻橋を渡る。この橋も建て替られた吊橋だ。11時55分、沢を挟んだ対岸に抱崖山屋が見える。道は山襞を回り込み、古道登山口まで28Kのキロポストを見て、大石の転がる沢を越える。その先すぐ伊霍霍爾溪を抱崖吊橋で渡り、12時3分山小屋に着く。今日の歩きはこれで終了だ。休憩込み活動時間は、5時間半、距離 6.4㎞、登坂93m、下降1492mだ。コース定数は14となる。全行程中一番楽な一日だ。

櫻橋
大岩が押し出されて古道を覆う
抱崖吊橋
標高1675mにある抱崖山屋は、抱崖駐在所の跡地に建てられたものだ。抱崖とはブヌン族の言葉ホガイを日本語読み感じであてたものだ。台湾の山岳地名は、ストレートに日本字名をあてたものもあるが、このように本来の原住民語を日本語読みの漢字をあてたものもある。北海道の地名がアイヌの言葉に漢字をあてたのと同じようなやり方だ。

抱崖山屋
ゆっくり午後の時間を過ごす
午後は、小屋わきのシートがはられた食事場所でゆっくり過ごす。メンバーは、残っている食料などを持ち寄り、一緒に食する。明日は古道歩きだけだ。そのうち雨が降り出すが、気持ちは実に気楽に、時間が過ぎていく。夕方17時過ぎには小屋の指定された位置で休む。そのうち朝新康山を訪れ下山してきた、例のパーティがやってきてしばらくさわがしくなる。大きな鼾が始まったなか、筆者もそのうち眠りに着いた。



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最終日 11月30日(日) 抱崖山屋 - 瓦拉米山屋 - 古道登山口[曇]

八通關古道を一路登山口へ 27.8Km
下りメインの歩き
図師・河合殉死記念碑
いよいよ最後の日が来た。心ははやるが、抱崖山屋から登山口までは27.8㎞ある。幸い古道なので、道の状態はよい。特に瓦拉米山屋から先は多くの登山者が歩き、その先佳心駐在所跡地からは一般観光客も歩けるので、まったく問題ない。4時前に起床、5時前に歩きはじめる。夜明けまではまだ一時間以上あるが、古道では心配はない。昨日夕方到着したパーティーはまだ寝ている。雨は止んでいるので、助かる。

渡渉機のある沢を渡る
高巻き部分を行く
歩きだしてすぐ、右に圖師八蔵/河合正一の殉死記念碑を見る。ここにはビール瓶が三本並んでいる。5時34分石洞駐在所跡を通過。説明板がなければ、暗くてここが跡地かわからない。5時54分、26Kキロポストを見る。少し明るくなってきた6時6分、沢を渡る。ここには増水時に使うワイヤー式の渡渉機があるが、実際に使ったことがあるのか。

谷間は明るくなってきた
大石押し出しセクションを越える
古道は、山ひだをぬっていく。小規模のがけ崩れはちょっと登りまた古道に降りる。丸太を合わせた橋も越す。大水で押し出された大石を乗り越えていく部分もある。駐在所がある時代は、常に担当部分の古道を見回り手直しをしていたが、数十年放置された後では、止むをえない。古道が再び通れるようになったことに、まず感謝したい。すっかり明るくなり、6時41分24Kを通過。今のところ、平均時速は2㎞ちょっとだ。

24Kキロポスト
鉄製梯子
鉄製梯子が現れ、しばらくがけ崩れの部分を通過していく。6時52分、ロープがある急坂を過ぎる。7時5分、十里駐在所跡に着く。休憩をとる。古道本来の東起点玉里から十里の位置にあるので、この名前である。枝尾根の末端に築かれた駐在所は、四方を4,5メートルはあろうかと思われる石壁で囲まれ、ちょっとしたお城の石垣のようだ。台地に上がるととても広い。今は樹木が生えているが、当時は駐在所建物も含め立派なものがあったと思われる。遺物はすでに持っていかれてしまったのが、サクラビールなどのビール瓶だけがある。


十里駐在所跡
古道の基礎
十里駐在所跡で20分ほど過ごし、古道を進む。7時40分22Kを過ぎ、間もなく路面を水平に保つため、石で基礎を作り土もりして高くしたセクションを歩く。そこそこの長さがあるが、今でもしっかりしている。日本時代の隘勇線や警備道の開削に前面で指揮し、次々と未開の山岳に道を造っていき、部下から山の親分と親しまれた梅澤柾の工事が実に的確なものだったかを示している。梅澤は、八通關越道路開削工事の1920年にまだ隘勇線分遣所だった緑駐在所の場所で流行感冒をこじらせ、その後花蓮の病院で亡くなっている。享年42歳の工兵は、八通關越道路の開通を見ることなく、その一生を日本が台湾の山野を管理していくための道の開削にささげた。開通後に建立された道路開削殉死者碑の筆頭に名前が刻まれた。

深いラクラク渓は底が見えない
岩壁を切り取り通した古道
10数年たった鉄橋もメンテが必要
深い拉庫拉庫(ラクラク)溪の谷を挟んだ向こうには、馬博橫斷の東端の山並みが高く、その上には青空ものぞく。この谷の深さと山の高さは、日本ではお目にかかれない。7時58分卡雷卡斯(カネカス)駐在所跡を通過する。この駐在所は、八通關警備道が開通した後、まだ服さない原住民の襲撃に対応するために1922年造られたもので、三年ほどで廃棄されている。8時25分、20Kを通過。抱崖瓦拉米間の半ばを過ぎた。全体では約4分の一を過ぎたことになる。

山陰駐在所跡
山陰橋
小沢を越す。そこからホースがずっと道に沿ってのびていく。8時31分山陰駐在所跡が現れる。ホースはそこまでひかれている。跡地にはシートが張られ仮住まいとなっている。何かの作業のためだろう。そこで水が必要だ。三年前はここで昼食をとったことを覚えている。数分進むと、山陰橋を渡る。

トトクン駐在所跡近くの道標と説明板
8時52分、熊注意の表示を見る。古道周辺は、台湾で一番熊の多い生息地だ。大学の調査研究も古道東側の一帯で進行している。そのすぐ先で多土滾(トトクン)駐在所跡の説明板を見る。尾根が張り出したその突端で、展望がよくここは重要なポイントだったようだ。道が尾根を回り込んだところが開け、すぐ右にヘリポートがある。電話が通じるという表示もある。休憩をとる。

鉄パイプ製橋を渡る
ギャップを越える
9時12分、18Kを過ぎる。標高は1500mを切る。道脇には人造の杉林も現れ始める。太い鉄製パイプの橋を二カ所渡り、9時34分路盤がすっかり水に流されてしまったギャップを木製梯子で過ぎる。霧が出てきて対岸などは見えない。さらに数分進むと、道の左杉林の中に野尻光一巡査などの殉職碑がある。そのすぐ先で緑駐在所跡を横切る。さらに三か所鉄製橋を過ぎ、10時16分霧の中の瓦拉米山屋に到着する。今日の行程の約半分を歩いた。

野尻等六名殉職記念碑
大水で壊された鉄製橋
瓦拉米山屋前の杉林を行く
瓦拉米山屋は、標高約1060mでもともとの蕨駐在所の跡に建てられたものだ。ワラビは日本語の植物名もあるが、一説にはブヌン族語の「ついてこい」という意味の「ワラビ」を日本語読みの蕨をあてたという。この地は玉里から約30㎞、距離的にも一日の行程でこの駐在所時は外部者が泊まれる招待所や雑貨店的な酒保があった。古道中重要な位置だった。瓦拉米は日本語の蕨をさらに中国語読みの漢字をあてたもので、本来の意味はまず思いつかない。

瓦拉米山屋
瓦拉米吊橋
道には欄干が造られている
25分ほどの休憩後、さらに古道残り半分を歩きはじめる。ここから先は、常に登山者が歩いているので、道の状態は一ランク上がる。11時3分、13Kを通過。しばらくまばらな広葉樹の中を行き、明るい感じだ。12Kを過ぎて間もなく、瓦拉米吊橋を渡る。さらに進み11時45分黃麻第二吊橋を渡る。この吊橋の支柱はコンクリ製だ。11時49分、10Kを通過。残りもだいぶ減ってきた。キロポスト自体も、瓦拉米山屋からは500m刻みだ。道脇の説明板も、動植物の物も現れ、より大衆的なものになっている。11時55分、黃麻第一吊橋を渡り、道が上り始める。ずっと休みなしなので、少しつらい。12時12分、喀西帕南(カシバナ)事件碑の前のベンチで休憩をとる。

カシバナ事件記念碑とその前のベンチ
カシバナ事件殉職者之碑
カシバナ事件とは、八通関警備道ができる前の1915年に起きた、周辺ブヌン族部落民による駐在所襲撃殺害事件である。理蕃政策による太魯閣戦争も終了した時点で、銃砲の没収が強力に推し進められ、原住民がそれに反抗したことが原因だ。カシバナ駐在所は、本来さらに奥の大分駐在所と同じく、早い時期に設置されていた。日本人警官10名、ブヌン族2名が犠牲となった。この事件は、大分事件などラクラク渓の部落民との衝突に対応するために開くことになった八通関古道設置の遠因でもある。記念碑はその後昭和五(1930)年にここに建立されたものだ。

黄麻駐在所跡
枝にサル
12時半、佳心駐在所跡に向け歩きはじめる。12時41分、黃麻駐在所跡を通過。黃麻はブヌン族の耕地を意味するコーマに漢字をあてたものだ。歩く道の左側でガサガサ音がする。サルが樹木に登っている。13時11分、サメの頭のように見える大岩脇を通過。頭には姑婆芋が生えてしまっているので、よく見ないとサメとは気づかないかもしれない。13時27分、5Kを過ぎて数分歩き、佳心駐在所跡につき休憩をとる。ここは電話が通じる。出迎えのシャトルサービスの車と連絡を取る。

サメ石
佳心駐在所跡(右の台地上にあった)
ラクラク渓を見下ろす
2Kキロポスト
最後のセクションは5Km足らずだ。この地点までは、玉山公園の入園許可がいらないので、一般観光客が歩いてくる。多くのハイカーとすれ違う。左のラクラク渓の谷は深く、ここでもそこそこの景観がある。崖崩れの部分には新しい道がしっかりつけられている。14時39分2Kを通過、そのさき5分ほどで山風(二號)橋のたもとに着く。その前のベンチで休憩をとり、日本時代から残る吊橋をゆっくり見る。

日本時代からの山風橋
吊橋は、日本時代はよく鉄線橋と呼ばれた。それは8番線を束ねて主索線としているからだ。山風橋は、この鉄線が残っている。今は補強の太いケーブルが追加されているが、もともとの鉄線も現役だ。本来木造であった橋が、1932年にコンクリートと鉄線で架け替えられたものだ。数十年の風雨を経て、なおもまだしっかりその役目を果たしている。

架け替えられた山風一號橋
登山口に着いた
15時5分、1Kを見てすぐ山風一號橋がある。最近再度建て替えられ、昨今の吊橋フィーバーに見合うようなものになっている。観光客もここまではやってきている。15時15分、山風駐在所跡を通り過ぎ、15時20分台30線の起点にもなる古道登山口に着く。車はすでに登山口脇で待っていた。七日間の山旅はこれで終わりだ。嬉しくもあり、また後ろ髪をひかれる感もある。活動時間は、休憩込みで約10時間20分、距離27.8Km、登坂849、下降2077m。コース定数は37だ。

歩き終えたメンバー

荷物を載せ玉里に向かう。30分ほどで玉里に付き、民宿の風呂で一週間の垢を落とす。その後近くの食事店で夕食をとり、19時発の自強號にて台北へ帰京した。三時間半の乗車で22時半に台北に到着した。






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七日間の山旅は、水をもちあげたときの最大で17,8kgを担いでの縦走だ。筆者が若いころの半世紀前は、装備も今と違い大きく重く、一人当たり30kg近くを担いていた。それに比べればはるかに軽量化されている。もしこれがなければ、筆者の年齢体力では無理な山旅だろう。

玉里の猫

一般にはこのルートは六日で歩き終えるようだ。急いで五日で終了する人もいるようだ。体力の問題もそうだが、若い人は仕事があり時間的な制限がある。それに比べると我々の七日間というのは贅沢なのかもしれない。おかげで、それぞれのキャンプ地には午後2時ぐらいには到着し、天気が良い時はゆっくり高山での時間を楽しむことができた。途中の風景をゆっくりと鑑賞することもできた。


玉里のマスコット

費用的には、台北-玉里の特急料金は片道630元、それに車は玉里から南橫公路の戒茂斯山登山口が一台3000元、八通関古道登山口から玉里は1000元である。パーティが何人かで異なるが六人とすれば、一人当たり交通費は1300元、山岳保険費用は約400元だ。民宿は一泊500元、山小屋やテント場は今は費用は無料である。現状のレートで計算して8200円というところだ。



南部の山は、冬でも雪が降ることはなく、天気も比較的安定しているので登ることができる。しかし、やはり冬は冬なので高山の花々はない。ヤタケも黄色くなっている。朝晩は気温も一桁台になり、そこそこ寒い。今年は、6月、9月と高山縦走を行った。そしてこの新康橫斷だ。まだ、残っている高山ルートもこれから精力的に歩いていきたい。