走で常に北側に連なっていた馬博拉斯橫斷の峰々が今回の登山対象である。実は、去年秋もこの縦走路を歩くことを試み、東側玉里の中平林道を35K工寮跡まで歩いた。しかし天候が良くなく、そこで諦めて往路を下山した。今回は、西側東埔から登りはじめ、逆方向に玉里へ抜けた。多くの登山者は、西から東へ抜けるコースをとっている。
|
八通關山から望む 馬博拉斯山 (左)と秀姑巒山、最左に駒盆山 |
標高3000mを越える山を抱える台湾島の山脈は、北から雪山山脈、中央山脈、そして玉山山脈がある。中央山脈は、宜蘭蘭陽平野の南から立ち上がり台湾島南端まで伸び、実に全長500㎞、幅80㎞に及ぶ。台湾の背骨ともいえる。基本台湾島を南北に走る山脈は、途中でその方向を変え、東西に走る部分がある。馬博拉斯橫斷は、まさに横断という名前が示すようにその東西に走る部分を通過し、中央山脈を横断するルートである。中央山脈を南北に縦走するルートに対し、横断するルートは、ほかにも上記の新康橫斷やいわゆる南三段縦走もある。そのうちで、当横断ルートは、中央山脈中最高峰秀姑巒山〔標高3805m,台灣第六位)と二番目の馬博拉斯山(標高3785m、第七位)を越えていく。
|
九日間の軌跡 |
コロナ疫病のために、台湾の登山活動も制限を受けている。今年5月に感染が拡大し警戒レベル三級になり、多くの登山活動が休止した。その後、感染減少に伴い、レベルが下がり制限が緩和されてきているが、山小屋やキャンプ地は、その収容数が半減されている。本縦走も、管理している玉山國家公園へ入園許可を申請したが、その制限のためになかなか許可が下りず、出発前一週間前になってやっと入手できた。それは、今回9日間の活動中、出会ったほかのパーティが二組しかなかったことでも実感できる。
|
台湾中央山脈を横断する |
活動期間半ばで、11月としては40年ぶりに訪れたという強力な寒波に見舞われ、寒さに震えた。また後半に冷たい雨にも出会い、手袋がぬれて指先がかじかむ思いもした。同日に玉山や雪山では冠雪があったという。標高がそこまで高くなかったので、雪にはならなかったのは幸いだった。10月雙十節連休時に襲来した台風のために、山岳では大量の雨が降り、大水のために最終日の沢沿いルートは、その被害を受け道筋も大きく変わっていた。途中でも、その大雨の爪痕を見た。そうした、困難もあったがパーティ全員で力を合わせ、安全に下山できたことは何よりだ。本来高山登山とは、こうしたものだ。晴れの日ばかりではない。それを十分に、でも身の安全の範囲で体験させてくれことに、感謝すべきだろう。
|
八通關山山頂のメンバー |
本ルートの入口は、台湾南投縣東埔である。ここから八通關古道を進み、中央金礦山屋から古道を離れ中央山脈に登る。八通關古道は、
先月初旬に玉山登頂の際に通過したばかりなので、身近に感じた。主稜線を北へ秀姑巒山と馬博拉斯山を越える。馬博拉斯山山屋から、一日を費やし駒盆山を往復し、その後東へと方向を変えた主稜線を馬利加南山へと進む。主稜線は、馬利加南山からまた方向を変え北へと進む。橫斷縦走路は、支稜をさらに馬西山と喀西帕南山を越え、太平谷の谷間に降り、そこから続く中平廃棄林道をへて花蓮縣玉里へ下山した。
=========================
第一日 11月6日(土曜日)晴天 台北 - 台中 - 水里 - 東埔 - 八通關古道 樂樂山屋
|
古道は山腹に取りつく |
|
岩を削って造った古道 |
15時8分、古道を登り始める。ここでも多くの下山してくるハイカーとすれ違う。八通關古道を歩くのは、上り下りをそれぞれカウントすると、今回で5回目となる。さすがに道のどこがどのような様子かはわかってくる。15時22分、父子斷崖を通過。陳有蘭溪が狭まり、道は岩壁に切り開かれた中腹を進む。木々が少なく、陽光に照らされ、汗ばむ。15時47分、今は閉鎖されている樂樂溫泉への分岐を通過。樂樂は日本語読みでラクラク、ブヌン族の温泉の意味だ。16時、3.5K地点の木陰で休憩をとる。
|
樂樂山屋に到着 |
歩行距離6.5㎞を3時間(休憩込み)かけて歩いた。高度上昇583m、下降51m、コース定数は13となる。
========================
第二日 11月7日(日曜日)晴天 樂樂山屋 - 對高駐在所遺址 - 觀高坪 - 八通關
|
八通關古道を樂樂山屋から觀高を経て八通關へ |
|
夜明け前の樂樂山屋 |
4時半に起床する。昨日コンビニで買っておいた握り飯などで朝食をすます。山小屋は結局誰も宿泊していない。結果的に、テントを張らずに小屋に泊っても問題はなかった。まだ夜が明けきらない6時少し前に出発する。道はすぐに高巻き道で急坂になる。八通關古道の大水窟西側の部分は、比較的高巻きが少ないが、それでも皆無ではない。粘板岩や千枚岩などの水成岩で構成された台湾の高山山脈は、日本統治時代から脆弱な地層に開いた道のがけ崩れが発生しやすい。
|
下巻き道の脇に階段用板が置いてある |
|
八通關山主峰(左)と西峰
|
8時40分、下巻き部分入口に来る。道脇には、新しい階段用の板が積み重ねてある。下りきり、急坂を登り返して古道に戻る。幾重にも重なる山襞を回り込んで進む。突如朝陽の中に八通關山主峰と西峰のツインピークが聳え立つ。そのうち右に玉山北北峰の岩峰も青空を背景に現れる。また、深山に入ってきたのを実感する。9時2分、12.5Kを通過し、すぐ右に一張りだけテントが張れそうな平らな場所があるところで、休憩をとる。
|
道脇の平らな場所で休憩 |
|
道の上に土砂 |
|
13Kのヒノキ |
所どころ、道に土砂がのっている場所がしばしば現れる。9時27分、ヒノキ大木がある13Kサインをみて間もなく、道はニイタカアカマツ(二葉松)の林を抜け、崩れ部分もなく良い道になっていく。八通關道路が開鑿されたころとあまり違わないだろう。谷を挟んだ対岸に、
玉山北峰山頂が高い。気持ちの良い道に思わず足も進む。ニイタカシャジン(玉山沙參)がまだ青紫の花をつけている。10時8分、日差しあふれる觀高坪が現れる。テントが一つ張ってある。休憩をとる。
|
アカマツの下を行く |
|
道脇のニイタカシャジン |
觀高坪の小高い場所に上がる。東には、二日後に登る秀姑巒山から馬博拉斯山への稜線がくっきり空を画す。反対西側は、玉山北峰から北北峰、そしてそこから緩やかに下る尾根が連なっている。それらはみな、富士山よりも高い台湾の高峰群だ。20分ほどの休憩後、出発する。数分で、旧道と左へ進む高巻き道との分岐を過ぎる。今回も旧道を経て八通關へ向かう。
|
金門峒斷崖とその上に玉山北峰、左に主峰と東峰 |
|
大崩れで道が下る |
警告板の分岐から20分ほどは、程度は少し落ちるものの、何の問題もないよい道だ。11時11分、初めの大崩れ部分に来る。大きく水に流され崩れた沢に下り、登り返す。振り返れば、崩れた谷の向こうに群大山も姿を現す。全員がギャップを登り切りさらに数分進む。階段が現れ、11時32分、登り詰めたところで休憩をとる。
|
大崩れ部分、遠くに郡大山 |
|
小さな崩れ部分を通過 |
|
ひっくり返った橋の脇を登る |
崩れた場所があるものの、問題なく数分進む。11時56分、またギャップに来る。本来の鉄橋がひっくり返った姿を晒し、いかにも大変なように見える。そのわきにロープが架かっている急坂を登り、通り過ぎる。急坂が現れ登っていく。登り切り、その先に三番目の大崩れが現れる。ザレがざらざらを流れていく箇所を過ぎる。振り返れば、視野が換わり郡大山の奥に西巒大山へと連なる山々、郡大溪の谷間、そしてその東には、三日後に訪れる予定の駒盆山も望める。
|
最後の大崩れ部分を登る |
|
大崩れ上部から遠望する、左は郡大山 |
|
八通關草原へ下る |
更に崩れた場所を通り過ぎ、間もなく森に入って、12時32分高巻き道との分岐に着く。ここにも警告板がある。現在はすでに玉山公園管理外になる旧道は、正式なメンテが行われない。今後大きな災害があれば、通行は不能になるかもしれない。分岐のある小高い場所から下れば、今日のキャンプ地八通關は目と鼻の先だ。12時42分、八通關0K起点を過ぎ、2,3分でキャンプ地の台地に着く。太陽は燦燦と照らし、実に気分が良い。
|
霧が出てきた |
道のり10.2㎞、累計登坂1200m、下降53m、休憩込み行動時間6時間50分。コース定数は27となる。標高約1660mの樂樂山屋から約28000mの八通關まで半日の歩きで、がけ崩れ分を除き、ゆっくりとした登りでそれほどの苦労は感じなかった。道が良かった日本時代は、東埔から八通關まで一日で来ることも、まったく問題なかった。
========================
第三日 11月8日(月曜日)晴天 八通關 - 八通關山往返 - 中央金礦山屋 - 白洋金礦山屋
|
八通關から途中八通關山を往復白洋金礦山屋へ |
|
八通關から右へ古道を進む |
夜中にキョンという鳴き声と、大きな動物が歩き回る気配を感じた。おそらく水鹿がテント近くまでやってきたのだろう。4時に起床し、5時半に出発する。日の出前の陽光が雲を茜色に染める。昨日通り過ぎた分岐へ戻る。そこから八通關山のすそ野をまいていく、平らな道を進み始める。まもなく高巻きの標識を見て、左に登りが始まる。幸いこの高巻きは大したことなく、数分で沢わきの本道に戻る。
|
塔芬尖山 |
|
玉山東峰 |
|
松葉を踏んで前進 |
6時28分、八通關から1.5K地点付近で衣服調整も含めて休憩する。少し進み、開けた場所から鈍い尖峰の
搭芬尖山が、荖濃溪の谷の向こうに見える。そしてさらに右に稜線を伸ばし、雲峰まで見える。振り返り見上げれば、玉山東峰の岩峰がひときわ高い。平らな道は軽快に前進する。右の谷はだんだん深くなっていく。6時52分,2.5Kを過ぎて間もなく、少し壊れた丸太橋を過ぎる。もともとの丸太橋は鉄製の新しい橋にかなり取り換えられているが、ここはまだ。左の山壁から流れる沢は次々と現れ、水場には苦労しない。
|
南二段の雲峰の右に關山 |
|
岩壁の八通關山が現れた |
7時52分、荒々しい岩壁に守られた八通關山山頂がアカマツの枝先に姿を現し、間もなく八通關山西峰からとの分岐点を過ぎる。8時15分、尾根上に上がる。展望は開け、西側には玉山山脈が連なる。北側には、陳有蘭溪の谷間が長く続ている。同富近くの赤いアーチ橋まで見える。実に天気が良い。尾根上を東に進み、少しの岩場を通過すると、山頂だ。時刻は8時34分、登山口から約1時間半だ。
|
岩場を下る |
|
玉山を前面にみて稜線を下る |
9時17分、気づかずに40分もいた山頂を後にする。再び訪れる可能性は少ないが、悔いはない。急な坂は、下りは速い。9時33分、西峰への分岐を通過。この時期でもまだ花を残すコダマギクを見る。10時に登山口に降り着く。下りは43分であった。小休憩後、10時15分再び重いザックを担ぎ歩き始める。10時45分、4.5Kにあるバナイコ(巴奈伊克)駐在所跡を通過する。古い山小屋は大分壊れているが、その前下の平らな場所に設営することもできる。水はすぐわきにある橋の元の沢から汲める。
|
崖崩れを過ぎると中央金礦山屋はすぐだ |
|
中央金礦山屋 |
|
長い登りを行く |
12時7分、歩き始める。標高約2850mの中央金礦山屋から、今日の目的地白洋金礦山屋までは、500mほどの標高差を登らなければならない。今までの平らな道とは違い、苦労の始まりだ。単に登りだけでなく、水が流れるジメジメした枯木が塞ぐ場所など、さらに苦労を強いられる。天気が良く、陽光が森の中を照らすのが救いだ。13時10分、7Kを過ぎると、厄介な鎖場やロープのセクションが終わり、しばし緩やかな道となる。その先で休憩をとる。
|
小沢を越える |
|
急坂を登る |
|
山腹を行く、背後に玉山と八通關山 |
少し急な坂を登りつめ、また緩やかな道が山腹をぬっていく。山襞に沿って行き、樹木が少なく日差しに晒されて、ここも前半と違う要素で苦労する。登るにつれ、高度が上がったので、谷間の向こうには玉山連峰や、先ほどのぼった八通關山も見え始める。14時6分、8.5Kを過ぎその少し先で休憩をとる。
|
土地公 |
|
白洋金礦山屋 |
陽があたっているうちは、まだ温かい。みんな小屋前に濡れたものを干す。16時半過ぎに夕食をとる。17時少し過ぎに、太陽が玉山の稜線に沈む。夕陽が、大空の雲を赤く染める。電波を届く場所で確認した天気予報では、寒波がやってくるという。三日間は素晴らしい天気だったが、これからどうなるか。19時までには就寝する。
|
小屋裏の水場と廃棄金鉱坑道入口 |
|
玉山の稜線に陽が沈む |
距離10.8㎞を休憩込みで9時間半で歩いた。登坂は1128m、下降578mである。コース定数は32だ。前半は楽だったが、後半白洋金礦山屋への登りは少し骨だった。
========================
第四日 11月9日(火曜日)曇天 白洋金礦山屋 - 秀姑巒山 - 馬博拉斯山屋
|
秀姑坪を行く、玉山には笠雲がかかる、左は大水窟山 |
|
雲海が谷を埋める、右に新康山 |
頭上の雲層は厚く、東側の谷間には雲海が白く埋める。時々、雲が風にあおられ、谷間の雲海と上層雲との間を白いベールでつなぐ。雲海の対岸には、四日後に歩く馬西山から喀西帕南山へと続く山並みが浮かんでいる。高い中央山脈主稜線に遮られ見えなかった東の山々が姿を現す。雲海の南岸には、新康山がその将棋の駒のような頭で存在を示している。
|
山腹を下り気味に進む |
|
ビャクシンの森を行く |
山道は、大きな山容の秀姑巒山の東側を下り気味にへつって進む。所々露岩のトラバースを過ぎる。そのうち、道は方向を変えた山腹を登り始める。道脇にはキオン(黃苑)の黄色い花が目を引く。ビャクシンの森は、低い灌木となり、9時34分右に山腹を進む道を分ける分岐(標高約3610m)に来る。道しるべは秀姑坪へは1㎞、山頂へは0.7㎞と示す。
|
キオンの花が残っている |
|
風を避けて灌木間で休憩 |
高度が上がり、上層を覆う雲の中に入ってきたようで、周囲は霧が濃くなる。すでに森林限界を超え、ビャクシンは地上を這う。岩が多くなり、8時24分濃霧の中で山頂へと続く尾根に上がったことを知る。晴れていれば、山頂は目と鼻の先だろう。さらに数分、強い風の中を進み、8時30分山頂の標識を見る。
|
山腹巻き道との分岐 |
|
秀姑巒山山頂 |
風を避け、ビャクシンの脇で休む。メンバーは元気に写真を写している。そのうち、突然霧が切れて青空が見える。急いで周囲の風景を観察撮影し、集合写真を写す。玉山はほぼ雲に隠されている。その頭には笠雲が出ている。馬博拉斯山は姿を現しては、すぐに隠れる。ここからの展望は、残念ながら期待できない。前回に続いて、十分な展望ができないのは残念だ。しかし、濃霧が一時でも切れて、青空がのぞいたことに感謝すべきなのかもしれない。
|
最低鞍部を通過 |
|
石瀑を登る、まだまだ高い |
|
馬博拉斯山屋への分岐 |
更に登る。13時5分、馬博拉斯山への分岐(標高約3730m)に着く。馬博拉斯山は遠くないが、明日駒盆山への往復の際に通過する。今日は右に、山小屋へ下る。高度が上がったので、また雲の中。周囲は霧で遠望はない。13時18分、山小屋まで0.4㎞の標識を見る。霧のビャクシンの森は幻想的だ。13時30分、馬博拉斯山屋(標高3570m)に着く。二日過ごす、山の砦だ。
|
山小屋へ下る |
|
馬博拉斯山屋 |
扉を開けて中に入ると、協作が一人いる。一階部分は前客がシュラフや荷物を広げている。駒盆山に行っているそうだ。わわわれは一部二階に上がる。休んでいると、16時過ぎに三人パーティが戻ってくる。小屋はひと時にぎやかになる。17時過ぎに小屋の外の展望できる場所に行く。新康山が雲海の向こうに浮かぶ。左には、馬西山と布干山が前方の山稜の向こうに並んでいる。上には、ぶ厚い雲層。寒波が入ってきている現象か。寒さを感じ小屋に戻る。明日は長丁場だ、食事後18時に点灯した灯火を消し、19時までには就寝する。
|
小屋の近くから眺める、上層雲が厚い |
|
左に馬西山や布干山、右は新康山 |
行程5.6㎞と、距離は短い。登坂731m、下降500mとこれも少ない。所要時間はそれでも7時間50分を費やした。コース定数は23である。寒波が到来しはじめ、寒く風が強かった。
========================
第五日 11月10日(水曜日)曇天 馬博拉斯山屋 - 馬博拉斯山 - 駒盆山 - 馬博拉斯山 - 馬博拉斯山屋
|
馬博拉斯山を越えて駒盆山を往復 |
|
濃霧の中小屋を未明に出発 |
山旅も今日が折り返し点だ。朝4時に起床、5時に軽装で出発する。小屋の外は濃霧だ。まだ日の出までには時間がある。ヘッドランプを頼りに、昨日下ってきた道を登る。半時間ほどで、秀姑巒山への分岐を通過、馬博拉斯山山頂へ向かう。6時濃霧の中の山頂に到着。周囲は明るくなり始める。風が強く、すぐに下り始める。周囲の低いシャクナゲ(玉山杜鵑)などの樹木は、霧の水気でぬれている。出発時から雨ズボンを穿いてきている。強風から守るためにも大切だ。
|
霧の中の馬博拉斯山山頂 |
|
濃霧の道を下る |
ほぼ尾根沿いに下る。灌木のあるところは良いが、それが切れると風を感じる。今日はこのまま下って行って、大丈夫だろうか。不安が頭をもたげる。6時50分、風のない場所で休憩をとる。さらに下っていく。7時半、携帯が繋がるところに来る。山頂でも標識がありつながるはずだが、霧が濃いためだろう、ほぼダメだった。早速気象情報を確認する。寒波でこのような霧だが、全体が大きく崩れる様子はない。レーダー反射図でも雨雲は近くにない。そこで、予定通りにへ行くことを決める。もし風雨が強くなるような様子では、帰りに大変な苦労になる恐れがあるので、状況が悪ければ中止も考えた。
|
携帯電波アクセス可能地点で天気予報を確認 |
|
草原を下る |
二日前には八通關山からくっきり見えていた尾根を、今は濃霧の中を進む。そのうち草原の中を下っていく。8時、高度は3250mまで下がり、雲層からでて遠方が見えるようになる。つまり今日の気象は、寒波がもたらした冷たい空気が3300mぐらい以上に雲をつくっている、ということだろう。さらに20分ほど草原を下る。前方に目的地の駒盆山とその右手前に駒盆山中峰が緩やかな頭を並べている。目的地が見えると、気持ちは楽になる。
|
駒盆山南峰を越え進む |
|
また霧の中の登りになる |
天気が良いと、気分も軽い。12時50分、駒盆山南峰(標高3435m)の脇を過ぎる。道は山頂を通らない。馬博拉斯山への急坂が始まる。先ほどまでは良く見えていた山頂は、雲が去来し始める。ニイタカトドマツ林を過ぎ、低い灌木の坂道となる。風が次第に強まり、灌木のないところでは歩きづらい。気温は0度に近いようなので、体感温度はおそらく零下だ。14時に風の当たらないところで休憩をとる。
|
馬博拉斯山山頂のメンバー |
18時半、シュラフからでて夕食を準備し食べる。体が温まり、20時までには就寝する。往復13.3㎞、累計登坂1322m、下降1320m、所要時間は10時間20分であるコース定数はいみじくも37である。
|
霧のビャクシン林を過ぎれば小屋はすぐだ |
馬博拉斯は、カタカナでマボラス、本来ブヌン族の老人を意味する言葉だ。そしてこのマボラスは、本来秀姑巒山のことである。秀姑巒山は冬白く雪をかぶり、老人を連想させることからだそうだ。馬博拉斯山は、ブヌン族の山名はウラモンである。なぜこのような名づけ違いがい起きたのか、それは日本時代に作成された蕃地地図に誤記されたことによる。既にこの呼び名が一般的になり、その後訂正されることなく今日に至っている。
=======================
第六日 11月11日(木曜日)晴天 馬博拉斯山屋 - 烏拉孟斷崖 - 馬利亞文路山 - 馬利加南山 - 馬利加南東峰山屋
|
ウラモン断崖、マリガナン山を越えて馬利加南東峰山屋へ |
|
厚い氷 |
昨晩は、山小屋の中でもはく息が白く、とても寒かった。4時には目が覚める。雨水のタンクから出る水を受けるバケツには厚い氷が張っている。昨晩は零下になったようだ。寒いわけだ。気温は低いが、空は快晴。昨日の苦労や疲れが吹っ飛ぶ。6時過ぎには準備ができ、出発する。
|
朝陽のビャクシンの森 |
|
ニイタカトドマツの森から出る |
ビャクシンの森をぬけると、これから進む尾根筋が現れる。前方には、岩のコブが盛り上がった馬利加南山が逆光気味の中、他を抑えてひときわ高い。ビャクシンの森や灌木帯をどんどん下り、6時50分ウラモン(烏拉孟)断崖の入口に来る。ブヌン族の馬博拉斯山を示す山名ウラモンは、この断崖に残っている。かなり大きな範囲で崩落が進み、両側が切れ落ち、本縦走路中の難所である。核心部にはロープが何本もかけられている。
|
ウラモン断崖入口 |
|
逆光の中難所へ踏み出す |
昭和12〔1937)年夏に、千々岩助太郎一行が大水窟山から中央山脈を北上、丹大山へ縦走している。その際に、ウラモン断崖を通過している。千々岩の「思い出の山々」の中で次のように記している。「...9時50分山地名オフハラの断崖に到着。地形図3,488m峰(山地名マリアブ・ブンヌル)の西側の崖であるがこのコース中の最大の悪場である。...ざらざらの粘板岩に足場を刻みながら進む。」千々岩自身は、ここで滑落してしまった。幸いにすぐ止まり大事には至らなかった。上記ではオフハラの断崖と呼んでいるが、今日のウラモンである。
|
前半部を進む |
|
何本ものロープが架かる核心部 |
確かにザラザラのザレが一面に広がる悪場だ。常に浸食を受け、形は変わっているのだろう。前の部分を越し最低部の核心地まで下り、急な坂を上り返す。最近は多くの登山者が歩いているので、踏み跡はしっかりし、自分で足場を蹴りだす必要はない。今日は天気もよく、心配も少ない。
|
核心部通過中のメンバー |
|
烏拉孟斷崖全景 |
|
ウラモン断崖終了点 |
全員が通過し、ニイタカトドマツの森を挟んで、まだ悪場はつづく。7時38分、烏拉孟斷崖出口の表示を見る。最も困難なセクションはこれで終わりだ。馬利亞文路山へ向けて登る。途中尾根左側がパックリ口を開け、ウリバンホル(烏利班霍爾)溪へ切れ落ちている。ここでも、大規模な崩壊が進行中だ。谷の向こうには、東群大山の山並みが屏風のように立ち並ぶ。
|
刺柏の密生する坂を下る |
|
岩塔を登る |
40分ほどゆっくり過ごし、10時38分いよいよ馬利加南山へ向かう。馬利加南山は近いようで遠い。一度3270mの鞍部へ下り、それから3577mの山頂へ、約300mほどの高度差を登り返すのだ。下りの途中でも小ピークを越す。鞍部を過ぎ、今日の行程中一番長い登坂を始める。11時15分、4Kを過ぎる。今日の行程の中間点だ。ニイタカトドマツやビャクシンの林を過ぎていく。11時38分、前方に尖った岩峰が近づいてくる。そしてその岩峰にはロープが取り付けてある。どうやらあれを登る必要があるようだ。さらに3,4分で岩峰基部に着く。遠くから見るほど困難なく岩峰の上(標高約3340m)に立つ。馬利加南山は大分近づいた。12時19分、休憩をとる。日差しは強く、暑いぐらいだ。
|
馬利加南山山頂 |
|
マリガナン山山頂の筆者 |
鹿野忠雄は1931年9月に、マリガナン山に登っている。こう記す「ここは海抜一一、七七〇尺(三、五六九米)、その高距のみから言っても、日本領土内有数の高峰であり、...その東端を飾って突如として聳え立つ偉容は秀姑巒山脈の一峰として決して愧じるものではない。...山頂の展望とその感銘は想像を裏切らなかった。そこには我々を立ちどころ夢の世界に溶け込ます悠遠と寂寞の状が四辺を取り巻いていた。...」 台湾島の南北を500㎞に貫く中央山脈の臍の位置にある当山、我々は入山六日目にして初めて到達した。
|
新康山山列 |
|
南三段の山々 |
|
馬西山(左),喀西帕南山(中),布干山 |
秀姑巒山はすでに遠い。雲海に浮かぶ新康山は、ここから見ると将棋の駒の肩がとれて、さらに鋭角だ。遠く關山のかなたも雲海だ。南三段の峰々のさらに遠く、
干卓萬の連峰や幾重にも続く峰々。東南にはこれから訪れる馬西山や喀西帕南山、その手前に布干山の草原をいただいた山頂、そしてそれに連なる稜線。高い雄大な峰々、深い幽谷、これが台湾の山岳だ!これをこの好天のもとに眺められることに、感謝の気持ちであふれる。
|
馬利加南山東峰山屋 |
この小屋は水は雨水タンクに十分あり問題ないが、太陽発電の灯火は点灯しない。故障のようだ。この小屋も我々だけだ。18時半過ぎに夕食をとり、1時間後には床についた。距離7.7㎞、登坂500m、下降815m。天気も良く、休憩を多めにとったこともあり、この距離に対し9時間半を費やしている。コース定数は24だ。
========================
第七日 11月12日(金曜日)曇り 馬利加南東峰山屋 - 塔比拉斷崖 - 馬布谷山屋
|
塔比拉斷崖 |
|
塔比拉斷崖第二セクション |
|
ロープの急坂 |
今日のルートは、下りメインで、所々の登り返しがある。といっても、距離が短いので、楽だ。7時7分、馬布谷山屋4.8Kを過ぎる。道は森の中を行く部分が多い。霧が濃いので、開けたところでも遠景はない。7時20分、休憩をとる。
|
ロープの坂が続いて現れる |
|
アカマツ林の中の2.8K |
ロープの岩場急坂を下り、アカマツ林に入る。道は尾根の左右をぬって進む。時々尾根上を行く。8時5分、周囲を樹木に囲まれた草原のキャンプ地を過ぎる。9時、2.8Kを見る。もう今日の行程の半分だ。道には風で落とされたのか多くの松ぼっくりを見る。アカマツだけでなく小さなタイワンツガの物と、紫色のニイタカトドマツの物もある。ここは混合林だ。最後の登り返しを登る。9時44分、1.8Kを過ぎる。ガスが去来し、遠景はない。今日も二日前と同じよう、高層の雲が3200、3300メートル以上を覆い隠しているようだ
|
馬西山が瞬時現れる |
|
折れた枝が多い |
道脇には、まだ折れて間もない枝や、そこそこ太さの幹が転がっている。おそらく10月の台風のために吹き倒されたり折れたりしたものだろう。まだ成熟してない松ぼっくりを持った枝もある。10時16分、谷間に入ったところで、休憩をとる。下っていくと、樹木を通して奥に馬西山が高い。明日はあれを登るのだ。10時50分、アカマツ林から出て、草原に降りる。進むにつれ、草原の幅は広がり、そのうち小屋が草原の端に見える。草原の真ん中には沢があるが、水はない。11時、馬布谷山屋(標高2980m)に着く。馬布谷は、馬西山と布干山との間にできた窪地で、その二つの山名をとっての命名だ。
歩行距離5.5㎞、登坂268m、下降597m、所要時間5時間である。コース定数は14だ。
========================
第八日 11月13日(土曜日)雨のち曇 馬布谷山屋 - 馬西山 - 喀西帕南山 - 太平谷 - 中平林道43K工寮 - 林道41K
|
縦走路を離れ林道へ |
|
松茸ご飯で腹ごしらえ |
3時半に起床。昨日心配した天気は、いよいよ雨になった。晩秋の3000m峰で降られる雨は、嬉しくないがこの現実は変えられない。雨の中の長丁場、しっかりと朝食をとる。雨の中では写真を撮るのおっくうだ。食料が減ってだいぶ空いたザックにカメラバックをしまう。まだ暗い中、雨具に身を固め5時半に小屋を出発する。
|
馬西山山頂への分岐 |
|
広い山頂は展望なし |
小屋から標高3448mの馬西山まで、標高差約450mの登りとなる。昨日水をもとめて下っていった涸れ沢を渡り、急坂にとりつく。ヘッドランプ頼りの登りは、足元だけ見て歩くので、ある意味、あまり考えずに意外に高度を稼ぐ。さらに雨なので、ひたすら歩くだけだ。6時9分、急坂が終わり、あたりは明るくなる。初めの休憩をとる。緩くなった坂道を進み、6時45分、馬西山山頂への道の分岐に着く。空身で山頂へ向かう。30分足らずで山頂に着く。晴れていれば広い視野があるはずの、だだっ広い草原の山頂は、霧が去来する冷雨だ。写真をとり、すぐに分岐へ折り返す。
|
馬西山山頂のメンバー |
|
喀西帕南山への分岐 |
手袋は水にぬれ、絞ると水が滴る。引き続きはめる。ザックを担いで歩き始める。道は森を出るところもあるが、おおむねあまり風を感じずに済む。9時20分、休みをとり行動食を口にする。9時55分、分岐が現れる。右は喀西帕南山山腹を巻いていく道、左は山頂への道だ。登っていくほうが体も冷えないし、そのまま重装備で左の道を登っていく。30分ほどで山頂への分岐に着き、そのまま2,3分進んで喀西帕南山山頂(標高3276m)を踏む。霧で全く景色はなく、すぐに引き返す。下りは、一部岩場をこえると、緩やかな道になり、11時18分巻き道との分岐鞍部(標高3120m)に降りる。これで山頂登りは終わりだ。
|
更に下る |
|
涸れ沢を行く |
少し進むと、道は涸れ沢に降りる。涸れ沢の中を少し行き、そのわきに上がりまた進む。枝にはサルオガセが垂れ下がり、岩には緑の苔がみっしりと張り付いている。ちょっと幻想的な世界だ。今まで中級山でも見ているが、ここは雨の直後のせいか、みずみずしい。12時50分、おそらく水に洗われてしまったのだろう、文字が全く消えたキロポストを見る。おそらく太平谷1.3Kだろう。そのすぐ先で、沢が合流し水が現れる。ここで水を補給する。今日はどこまで下って野営するか決めていないが、どこでもできるよう、水を持っていく。
|
やっと林道だ |
|
43K工寮 |
今日の宿泊は、できるだけ蛭の被害を少なくできることを選ぶ。35Kは蛭の巣窟なので、その前の適切なところで設営するつもりで、林道を進む。少し登り気味の林道は、状態は悪くない。距離的に2キロ足らず進んだところ(標高約2600m)で設営を決める。山襞の鼻の部分で飛び出し、比較的乾き草もない。蛭は草に取りついていて、近くを通る獲物にジャンプする。ここは上はアカマツだが、風が吹き蛭はおそらくいないだろう。少し勾配があるが、そこそこ表面は平らでテント三張りは問題ない。時間的にも16時近く、これ以上進んでも地図上で見る限り、あまり良いところはない。
|
林道を進む |
|
41K設営地 |
設営を終え、山中最後の夕食をとる。みんなはすでに明日下山後の食事などを、思い思いに語っている。夕食を終え、18時過ぎには床に就く。明日の天気は大丈夫なようだ。歩行距離11.1㎞、登坂709m、下降1076m、所要時間10時間45分。コース定数は30となる。
========================
第九日 11月14日(日曜日) 曇り 中平林道41K - 35K工寮 - 玉林橋(遺失) - 19K登山口
|
林道19Kへ下山 |
|
木々の向こうに里の灯火 |
いよいよ下山だ。3時に起床、食事は簡単に済ませ4時半に出発する。まだ暗いが、林道なのでヘッドランプがあれば、まったく問題ない。キャンプ地から道は下りはじめ、想像したように野営に適切な場所は皆無だ。昨晩は蛭は、まったく問題なかった。下り気味の道は速い。右遠くに玉里の灯火が見える。今日は文明の世界に戻るのだ。
|
近道入口 |
|
近道から林道に降りる |
5時45分ごろになると、森を通した空が白み始める。林道から近道で下の林道に降り。その先また2,3か所近道を通る。6時を回り、木々を通して山が赤く染まる。6時26分、道際に黄色い廃棄された発電機を見る。その少し先で沢を渡り、初めての休憩をとる。これからは、蛭が多い場所を通過する。そこでメンバーの一人が持ってきた蛭避け用のサロンパスをみんなの体にスプレーする。
|
林道が終わり山道を下る |
|
ロープの岩場 |
坂道はどんどん下る。途中ロープのセクションは慎重に降りる。去年見た紅檜の巨木も健在だ。8時38分坂を下り切り、玉林橋の谷にでる。玉林橋というが、林道のこの部分はとおの昔に全部流され、今は橋どころか林道がどうなっていたのかすらわからないほど、大きく変わっている。それに加え10月の大雨で、これまた大変な変化が起きている。ちょうどその大雨に出会い、軽装で馬博橫斷ルートをトレールランしてきた4名は、ここで渡ることもできず、35Kに引き返し待機したという。もともと物を持たないトレールランなので、食事も衣料装備も少なく、かなり難儀したようだ。最終的には救助を依頼し、地元の救助隊が出動、4日後に下山した。
|
右の大崩れの脇を上がる |
|
マーカーのところから空身で偵察に行く |
メンバーがさらに下のほうにも踏み跡があるという。しかし、それはルートではないようだ。そこで、マーカーとケルンがある入口から登り様子を探る。どうもこの可能性が強い。メンバー二人が、偵察確認にこれを登る。果たしてこの入口が正しかった。登っていくと、以前よりかなり大きく流されたザレの斜面をトラバースする。そして林道めがけて登っていく。11時11分、林道に上がる。
--------------------------
|
玉里のマスコット |
念願の馬博拉斯橫斷縦走は、これで完了した。三年前から計画し、天候のため出発前に中止、また去年は実際に行ったが、悪天で退却であった。そうしたことから、完了したときの喜び、達成感もまたひとしおである。九日間の累計は、距離81.6㎞、登坂6582m、下降6488m、コース定数222となる。
寒波や冷雨に見舞われ、天気は半々というところだが、肝心な部分はしっかりと堪能できた。自然は思う通りには天気を与えてくれない。全員無事に終了し、尚且つ思い出多い山旅ができたことに感謝する。自分の年齢を考えれば、再び行く可能性は低い。しかし、自分で荷物を担ぎ仲間を連れて歩いたことは、決して忘れることはないだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿