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2020-10-15

2020年10月11日 李棟山 - 大混山 再び李棟山を別のルートで訪れる

夕陽を浴びる李棟山(雲をかぶる中心のピーク)

新竹縣と桃園市の境界上に位置する李棟山は、6年前に初めて訪れた。1911年から1913年まで、この山の山頂制高点の攻防を巡り、タイヤル族原住民と当時の総統府との間で熾烈な李棟山事件と称される戦いが間をおいて発生した。今回は、李棟山だけでなくそこに至る稜線上に当時の隘勇線の遺構などが残るルートである。当時は総統府側は西の新竹縣尖石鄉側からアプローチで物資もこちら側から供給されたようだ。したがって大混山へと続く尾根もその供給ラインであったと思われる。

北側から出発

歩行高度表
赤線で囲まれた山脈が数回に分けて歩く縦走の対象
前世紀初頭は大嵙崁溪(大嵙崁は大溪の旧名)と呼ばれた大漢溪の流域は、タイヤル族の領域であった。その領域を統治の対象に収めるために、隘勇線が推進される。山稜を行く隘勇線は、この地域では羅浮から南に長く伸びる稜線上に設けられた。今年は、この稜線を回を分けて歩いている。8月に行った魯屯縱走や先月の內鳥嘴山-那結山縦走などは、みなこの稜線にある山を歩いたことになる。今回の山行は、この二つのセクションの間をつなぐ部分をカバーするものである。

李棟山古堡のメンバー

120縣道終点
参加人数が多いので、今回は20人乗りのバスを貸切りで対応する。6時半過ぎに台北駅近くから出発、第三高速で南下關西で降りた後台三線から120縣道に入る。今年になり、何度も通過しているので慣れた道だ。台北出発時には霧雨も降っていたが、ここまで来ると空は晴れて実に絶好の登山日和になる。先月は水田林道へ向かうために左折したところはそのまま直進、8時50分120縣道の終点に着く。


サルスベリの古木
道路は突如として終わり、その先には山荘がある。犬が吠える山荘の前の道を進む。住人がでてきて道がない、という。手持ち地図では道が表示されているが、少し戻り遠回りになる道を進む。こちらは問題なく山道につながる。山脈のこの辺りは単面山という稜線の左右地形が非対称だ。こちら側は、緩やかな斜面が広がる。すこし急な坂で100数十メートルの落差を登り、杉人造林に入る。その先また雑木林になり、面白い形のサルスベリの古木を見る。一人単独登山者が降りてきてすれ違う。內鳥嘴山を回ってきたという、とても速い。途中、二人が退却し登山口に帰る。

緩い斜面を道が登る

石桌
雑木林の道を登る
知らず知らずのうちに高度が上がり10時20分、石桌(標高約1270m)を見る。石が自然に机といすのような風貌に並んでいるので、このような名称だ。焚火跡やごみが残りちょっと残念だ。ここは內鳥嘴山から下がってくる道の分岐でもある。休憩をとる。10数分の休憩後、右に李棟山方向へすすむ。稜線まではまだ距離がある。十数分歩くと、後方が遅れているという。少し平らなところで待つが、道わきにはスズメバチ三匹が餌をあさっている。これはまずいと前方へ移動する。今年はハチに刺された話を良く聞く。後方が追い付き、さらに20分ほどの急坂を登り、11時24分稜線上に上がる。

ロープの急坂もある

石積壁の残る隘勇分遣所遺構
道に残る石段
途中でも風を感じたが、稜線上は風が吹き抜けている。もう秋の気配だろう。稜線にあがっても、忠実に追っていくのではなく、ちょっと下がった山腹をぬっていく。前方のコブは、左(東)側の山腹を巻いて進む。12時27分、隘勇分遣所遺跡(標高約1670m)くる。遺跡といっても人造の石積みが残るだけで、それもちょっとはっきりしない状態だ。ここで昼食休憩をとる。

山稜近くを行く
矢竹の間を登る
13時、さらに李棟山を目指し山道を進む。坂に石段がある。おそらく隘勇線の遺物だろう。1911年の夏に始まった李棟山事件は、一進一退で双方は多大な犠牲を払った。 1911年にいったん李棟山を得るが、翌年の夏台風で政府側の交通通信が途絶えたチャンスを狙いタイヤル族が反撃し、山頂とそれから西に延びる尾根だけを残し再び失う。1913年2800近い警察と軍隊を動員、桃園新竹側だけでなく宜蘭からの応援のもと、佐久間左馬太第五代総督は自ら陣頭指揮をし、8月にタイヤル族各部落武器の没収、投降で終了する。日本から遠く離れた台湾の山の中で、戦役に従軍した日本人警察官、兵士はどのような思いでこの山道を歩いたのだろうか。

急坂を李棟山へ
左の高みに樹木を通して李棟山の山影が見える。稜線の両側はところどころけっこう急に切れている。矢竹の生える尾根上のピークを越え、いったん鞍部に下る。道は右へ李棟山山腹をトラバースして進む。最後に少し登り、13時50分尾根上の分岐に上がる。左に山頂を目指す。急な尾根道は、矢竹やシャクナゲ林を抜けていく。右から道を合わせ、さらに登る。14時8分、李棟山山頂(標高1914m)の古堡と呼ばれる隘勇監督所遺跡に着く。数年前には、反対側から訪れた。壁に周囲を囲まれた山頂の中央に一等三角点があるのは、変わらない。空は秋の青色だ。

古堡(隘勇監督所遺址)入口
広い内部
古堡の高い壁

石積壁が残る
14時40分、山頂を後に下る。登ってきた道を下り、分岐を左に進む。15分ほどで右に石桌方面への道を分岐し、左に折れて尾根上を行く。こちらは歩く登山者が多いので、道もしっかりしている。数分で、左に宇老へ稜線を行く道を分岐する。そのうちに杉人造林の間を下る。石積の壁がある。おそらく隘勇遺跡だ。さらに下り、15時半また石積壁の遺跡がある。この稜線は、1912年のタイヤル族反撃で残った唯一の李棟山砲台への供給路である。したがって、この拠点は重要なものであったのだろう。しばし、休憩をとる。

尾根上の平らな場所にある隘勇遺址
大混山山頂
大石が転がる道
さらに稜線を進み、数分でまた別の遺跡がある。こちらは尾根上の平たい場所で物資などの置き場でもあったのだろうか。坂を下りしばらく起伏の少ない道を行く。16時過ぎ、また石積遺跡を通過する。16時7分、右に大混山への道を分岐する。右に登ること二、三分で山頂(標高1154m)に着く。だいぶ陽が傾いてきた。15分ほどで山頂を後にする。分岐へ戻り、さらに下っていく。大きな石が山道にごろごろして越していかなけらばならず歩きにくい。

竹林の向こうに雲海
連絡道路上の登山口
雑木林の下り坂が続く。16時56分、また遺跡と思われる場所を通過する。その先、竹林に入り、黄金色の陽光が竹の間から差し込む。竹が切れた場所から、谷を埋め尽くす雲海が黄色く染まっている。17時9分、那羅至煤源聯絡道路の登山口に出る。右に少し登り、凌空廊道へ行く。展望台からは、我々が歩いた八五山から李棟山の山並みが一望だ。その左、先月の內鳥嘴山がその山腹に雲を纏い、聳えている。

斜陽光の中の內鳥嘴山と手前の八五山媒源の谷間
數碼天空で歩き終える
もともとは、ここまでバスで迎えに来ることを考えていたが、運転手は連絡道路はバスは入れないと主張。結局我々はさらに2㎞ほど道を下り、17時42分數碼天空まで登ってきたバスに乗車した。途中で、原住民料理の不怕餐廳で食事をとり、21時前に雨のそぼ降る台北に帰りついた。活動時間約8時間40分、距離13.2㎞、上昇1260m、下降1057mだ。コース定数33.1となる。


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