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2019-03-04

2019年3月2日 瑞芳 九份黃金遺跡を巡る歴史探訪の山旅

九份輕便路にある顏雲年の功徳を謳う頌德公園の石碑
九份とその周辺の山はいままでかなりの回数訪れている。今回は、金山採掘にかかわる歴史の道や遺跡を訪れ、当時を思うという趣旨で歩いた。参加の20名は、台湾のメンバーが主だが、ちょうど日本から訪れた友人を含め、ゆっくりと巡った。単に自然に親しみ体を動かすだけでなく、人文歷史にも触れる、自分としては新しい試みの山行でもある。

瑞芳駅から出発、山をめぐって小粗坑古道をくだる
歩行高度表
訪れた場所は、金山として栄えたころの主要交通ルートである琉瑯古道を経て、九份の繁栄を作り出した顔ファミリーの主要人物顏雲年の頌德公園へ、観光客がひしめきあう九份老街からゴールドラッシュの始まりであった小金瓜露頭に登り、金鉱夫などの住居あとである小粗坑聚落遺址を訪れた。それぞれの場所で、参加メンバーに歴史背景を説明をした。参加者には喜んでもらったようで、筆者としてもうれしい。終日霧が濃く、雨は降らなかったが展望がほとんどなかったのは、少し残念だった。

瑞芳駅前で出発前のメンバー
今日は8時半に瑞芳駅に集合だ。筆者は電車で向かう。ホームから駅舎に向かう。同じ電車で到着したメンバー以外に、すでに数名待っていた。8時38分、駅前から歩き始める。瑞芳は、今日歩く九份黄金遺跡に絡む場所だ。九份の繁栄をもたらす黄金の採掘において、重要な役割を果たした顏ファミリーの発展が始まった土地である。もともと瑞芳で石炭採掘をしていた顔家は、日本が1895年台湾を接収しその後金鉱全体を管理する中で、次男顏雲年(1874年~1923年)が瑞芳の警察でつとめ通訳巡査として働き始めた。このつてで日本側のキーマンとの交流が始まり、のちに九份の採掘権益を入手する糸口となった。

瑞侯公路の道路工事、右の小粗坑山は霧の中で見えない
苧子潭古道は左の廟わきから始まる
九份へのバスや車が往来する街道(102号道路)を、鉄道沿いに歩いていく。20分ほどで、車道は陸橋で鉄道を越えるが、歩行者はその橋の下で線路をくぐって反対側にでる。すぐ右に道をとり、瑞侯公路を苧子潭へ向かう。道路わきの壁で土留工事をしている。その時上部の作業者が落とした落石が、下で作業をしている人員の頭を直撃した。かぶっていたヘルメットは吹き飛ばされた。手で顔を覆っているので、おそらくけがをしたのだろう。ヘルメットがなければ、重症であったかもしれない。9時10分、苧子潭古道が始まるお手洗いわきで少し休む。

自然工法で手入れされた苧子潭古道の石段
員山子分洪道がすぐ下をトンネルで行く
苧子潭古道の土地公祠
苧子潭古道は、ここから琉瑯古道へと結ぶ。淡蘭古道北線の一部という位置づけで、最近の新北市による淡蘭古道整備の対象となっている。歩き始めてすぐに、自然工法による石段や水はけ溝などを見かける。山腹を登っていくと、右下に員山子分洪道の入り口が見える。基隆河の下流での氾濫を防ぐため、海へと河の水を流す分流トンネルである。そのすぐ上には、土地公の石祠がある。道は方向を左に換え、少し下り気味にゆく。9時35分、花崗岩の石段が続く琉瑯古道に出る。

花崗岩石段の琉瑯古道、前方に切通し
琉瑯古道から海側を望む、九份観光のバスが駐車してる
琉瑯古道は、いまでは石段が敷かれているが、もともとはトロッコの線路道である。顔ファミリーの台陽会社が子会社として瑞芳輕鐵株式會社を作り、1931年に金瓜石まで続くトロッコ軽便鉄道を敷いた。金山で繁栄する九份の人口増加で、その増える交通量に対応するためだ。坂道の部分は、上部流籠頭に設置した機械でトロッコを引っ張りあげる仕組みである。そのため、この部分はトンネルや切通を造り、直線になっている。トンネルをくぐり、階段道を進んでいく。道脇のツツジは満開だ。10時に今は開けた公園になっている流籠頭に着く。晴れていれば海も山も望めるよい展望台だが、今日は濃霧で景色はない。休憩を取る。

好天気の時の流籠頭 (2016年12月撮影)
墓のわきを行く
流籠頭からは、道は平らに山腹を縫って進む。トロッコ時代は、ここは人力で押していったところだ。道脇にはお墓がいくつもある。立派なものもあれば、小さい穴にもともとは骨壺だけが入っていたものもある。九份で成功した者、失意のなか亡くなった者、ゴールドラッシュの喜怒哀楽がここに見てとれる。10分足らずで、古道は終わり輕便路の車道になる。ここももともとはトロッコの線路があったが、撤収されて久しい。トンネルをくぐり、角を曲がると頌德公園が現れる。

琉瑯古道から輕便路に入る
頌德公園は顔雲年の九份に対する功徳を謳った,1917年に建立した石碑のある公園だ。九份金瓜石の金鉱は、日本統治政府が接収したあと、基隆山山頂を通る南北の線を境に、東側は田中組、西側は藤田組に採掘権を与えた。東側は金瓜石であり、日本国内でも鉱業を営む田中組が直接採掘をしたが、西側九份は採掘権をまた貸しする方法で行った。藤田組は、その後1914年にその権利を顔ファミリーに移譲、その後は台陽会社によって運営される。それぞれ借り受けた土地で金を掘り当てれば自分のものなので、必死で採掘した。1930年代の不夜城九份は、第二の香港とも言われるほど繁栄し、金払いがよい顧客にたいし、商店は真っ先に最上品を並べた。

霧が一瞬薄れて基隆山が対面に見える
観光客であふれる老街商店
輕便路から右に基山路に入る。九份老街のあるこの道は、登るにつれにぎやかになっていく。商店街に入ると、観光客であふれている。少しすすみ、右に折れて階段を登り九彬小学校の前にでる。左に少し下り聖明宮で30分ほどの休憩をとる。メンバーの中には老街へ降りて名物を買う人もいる。

長い階段を欽賢國中へ
11時40分過ぎ、休憩後坂道を登っていく。途中で長い階段を欽賢國中(中学校)へと登る。欽賢は、顔ファミリーの最盛期をもたらした顏欽賢(1902年~1988年)の名前から来ている。彼が、この土地を寄付し中学校ができたからだ。初代の顔雲年は、破傷風のため49歳の若年で没する。雲年の長男顏欽賢は、初めは叔父である顔國年の助けを得ながら、ファミリービジネスに従事する。1937年叔父の死亡後は、家督を引き継ぎ、鉱業のみならず造船、保険、金融、運送、水産など多角的に展開していく。終戦による日本の引き上げ、中国からの国民党政権施政などの大きなうねりを経る。しかし、世の中のエネルギー需要は石炭から石油へ、また金産出量の減少などの趨勢の中、顔ファミリービジネスは縮小していく。

ここから右に小金瓜路頭へのぼる








欽賢國中のわきを通り過ぎ、小金瓜露頭へと続く山道を登る。花崗岩が敷かれた道は、もともとは金鉱石などを運ぶための道であった。日陰の無い道は陽ざしの強い下ではつらいが、今日は霧が濃く展望がないのは残念だ。山道を進むこと10数分で分岐にくる。右に折れて登れば小金瓜露頭だ。九份の黄金フィーバーは、1890年基隆-台北の鉄道建設で橋の架設作業中、基隆河で砂金を見つけたことに始まる。この情報に多くの一獲千金を目論む人間が現れ、基隆河を遡上、その支流である大粗坑溪や小粗坑溪を遡り、この小金瓜露頭で初めて金脈を見つけた。九份繁栄の起こりはここは始まったといえる。

好天気の時の小金瓜露頭(2012年5月撮影)
@小金瓜露頭
今は黒い岩肌を曝した、大きな岩の塊に過ぎない。露頭の周りをまわり、送電鉄塔が立つ大粗坑山の山頂に行く。下って、小粗坑山方向に保線路を歩き始めると、道で休んでいる日本からの登山グループに出くわす。単に九份老街だけでなく、こうした場所に日本人観光(登山)客がやってくるのは歓迎だ。筆者がこのブログを書いている目的もまさにそれだからだ。

小粗坑古道の分岐
天気が良い時の小粗坑古道の峠からの眺め(2013年3月撮影)
小粗坑古道を下る
下り気味に保線路を追っていくこと十数分、小粗坑古道の分岐に来る。そのまま直進すれば先ほどの頌德公園に降りる。左に折れて峠に向かい登る。道端には小さな湯泉草の紫の花がたくさん咲いている。13時、峠のベンチで昼休憩とする。メンバーのうちの何名かは、すぐ近くにある小粗坑山山頂へ往復する。13時半過ぎ、古道を下り始める。緑の苔に覆われた石段は、滑りやすいので注意が必要だ。途中に、金鉱坑道入口跡と思われる穴を過ぎる。
山神廟の祠、サインブックがある
きれいになった山神廟説明板
くだること10数分で山神廟につく。コケに覆われた説明板をメンバーがこすってきれいにする。さらに下っていき、13時56分、左に大粗坑古道へと続く道の分岐にくる。この辺りから小粗坑集落跡で、石積壁が残る。最盛期には200人ほどの住人がいたという小粗坑集落跡は、一つ宗教団体のものと思われる家屋のほかは、みな廃屋だ。屋根もすでに朽ちれ落ちてない。侯硐小学校の分校跡に立ち寄る。1,2年生が通っていた学校だ。3年以降は、ふもとまで毎日通っていた。先生一人で教えていたということだ。

大粗坑古道へ続く道の分岐、奥に廃屋の石積壁
石垣のある古道を入り口に向かい下る
14時23分、古道を入口へ向かい下り始める。石垣が造られずっと続く石段の道は、かなり金がかかっただろう。住人が費用を出し合ったのだろうが、それにしてもこれだけのものを作るのは、それだけ財力があったということだ。十数分下り、まだ焼香されている土地公の祠に立ち寄った後、沢を橋で渡り、14時45分少し開けた場所につく。霧が晴れ下ってきた山が見える。さらに舗装された道を下り、14時52分古道入り口に着く。侯硐駅に向かって歩き始めてまもなく、ちょうどやってきた新北市新巴士コミュニティーバス(無料)に乗車し、瑞芳駅に戻った。

霧が晴れて先ほど登った山が見える
小粗坑古道登山口
世の東西を問わず、過去に栄えそして廃れた場所の歴史は、好奇心をそられる。九份は映画により、見事に観光スポットとして復活したが、黄金の時代はすでに過去のものだ。顔ファミリーは、炭王金霸と称された勢いはない。顏欽賢の長男顏惠民(1928年~1985年)は、日本で教育を受け早稲田大学を卒業した。戦後は日本に戻り、一青和枝と結婚、終生日本で暮らした。二人の娘、一青窈は歌手として、姉の一青妙は作家、歯科医師として知られる。時は流れ、時代は変わる。

今回は休憩をけっこう長くとった。休憩込みで6時間半の約9㎞の行程だった。九份の黄金にまつわる場所は、今回歩いた場所以外にもある。九份は、人でごったがえす老街だけでは、単に夜店に行くのとあまり変わらない。天気が悪くて景色もなければ、なおさらだ。グループ旅行では時間に余裕がないかもしれないが、自分で訪れるのであれば、ぜひ今回のように自らの足であるいて過去の歴史に触れてもらいたい。日本が50年間存在した事実のある、日本の近代史でもあるのだ。

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