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2019-03-31

2019年3月30日 東北角貂山古道 - 牡丹山 - 十三層遺址 金瓜石の黄金遺跡を訪ねる

金瓜石の街を見下ろして下る、基隆山は頂上に雲をかぶっている
今月初めに九份の黄金関連の遺跡を訪ね、ゴールドラッシュ盛衰の史跡を自分の目で見た。今回は、ゴールドラッシュ地域の残り半分、金瓜石の遺跡を訪ねた。この二つをカバーすることによって、台湾の北東部での黄金に関する歴史遺跡をカバーした。自分としても、いままで何度も訪れている場所を、黄金というキーワードでまとめて歩いたことになる。
@金瓜石(黃金)神社跡
今回のルートは、雙溪區牡丹側の鉱脈の発見に絡んだ伝説のある貂山古道から登り、最近また草刈がされて登りやすくなった牡丹山を往復、その後金鉱関係の集落があった百二崁古道,露天掘り鉱区のあとである地質公園をへて金瓜石へ下る。黄金神社を見たあと、黄金博物館から旧トロッコ道を進み六坑斜坡索道をへて十三層銅精錬場遺跡へ下った。すべてが、黄金の採掘や精錬、そしてそれに関連した人々の生活に関係した場所だ。

南から北へ峠を越えて歩く
歩行高度表
基隆山を南北に通る線で分け、西九份と東金瓜石に採掘権を分けた
F812バス@雙溪駅前
台北は前日の晩に雨がかなり強く降っていた。しかし、天気予報では降雨率は10%だ。天気予報のレーダー図を見ると、雨雲は去るように見える。そこで予定通りに出発する。自強号特急で向かう。7時18分、時刻表通りに雙溪駅に到着。今日のメンバーは12名だ。天気が良くないので、参加者は事前に表明していた人数よりは少ない。8時5分まで待ちやってきたF812番新巴士で終点の十三層大樹バス停に行く。十数分の乗車で終点に到着。牡丹駅から歩いてくることもできるが、その場合は1時間以上かかる。
古道入口
コンクリ階段の古道
地面は濡れているが、雨は降っていない。8時25分、行程の説明をして歩き始める。去年秋に燦光寮古道を歩いた以来だ。数分で分岐に来る。貂山古道は左のコンクリ舗装道だ。昨年も訪れているが、その時は雨であった。空は暗いが、雨が降っていないのは幸いだ。つづら折れの道で高度を稼いでいく。8時45分、古道探幽の文字が刻まれた石碑がある登山口にくる。民國88年(1999年)の日付になっている。すでに20年だ。小休憩する。

無緣之墓
濃霧の向こうに峠
貂山古道はほとんどの部分が、コンクリ舗装で階段もコンクリ製である。9時に無緣之墓にくる。明治35年(1902年)の日付が刻まれた墓石は、ほかには記載はない。言伝えによれば四つの話があるが、すべて1898年にこの谷で発見された金脈に関するものだ。死亡した許婚の消息を訪ねて訪れた日本女性が、風雨にあい命を落としたことを弔ったという話や、派遣されてやってきた日本鉱山技師が、現地の女性と知り合い結婚を親に承諾を得るため日本に帰国中に女性が死亡し、それを弔うため、また二人の技師がこの地でやってきたが、苦労がたたってそのうちの一人が死亡、その死んだ場所がまさに金脈であり、運命のはかなさを嘆いて立てたという話など、である。すでに100年以上が過ぎ、どれが本当なのかは知る由もない。この地のゴールドフィーバーがもたらした悲劇ではある。

峠の土地公、後の小高い場所に新しい仏像
広く草が刈られた稜線道
沢沿いの道をさらに登っていく。霧が濃くなる。沢音が小さくなり、山腹をまいて高度を上げる。9時28分、鞍部につく。車が停まっている。おそらく登山者のものだろう。右にある土地公の上に、仏像が立てられている。以前はなかったものだ。牡丹山へ向けて、歩き始める。樹梅坪と呼ばれるこの辺りは、山が削られて平らになっている。露天掘りで山の形が変わってしまっている。上部にある送電鉄塔のための保線路を登る。急坂で高度を稼ぐ。鉄塔のすぐ近くから稜線道が始まる。草がかなりの幅で刈られている。最近、藍天隊による手入れが行われたからだ。数年前に訪れた時もちょうど手入れされた後だった。9時49分、牡丹山山頂(標高660m)につく。草は広く刈られているが、濃霧のなかで展望はない。

@牡丹山山頂
鞍部の道標
百二崁古道の茂風集落跡を行く
土地公
蜘蛛網の水玉、遠くは基隆山
往路を下り、鞍部へ戻る。小休憩のあと、百二崁古道を下る。数分で、茂風の集落跡にくる。ここも、前回の小粗坑集落あとと同じで金を求める人たちがやってきてできた集落だ。金鉱事務所もあったということだが、今は廃墟である。ほかの集落跡に比べると規模は小さい。海に面したこの地は、谷あいで水があるが、海に面していて季節風の影響が大きく、居住には条件が厳しいと思われる。石壁だけが残る居住区を抜けてさらに下ると、土地公の祠がある。土地公の左壁には、「民旺土生金」とある。数十年前は確かのその通りだった。短い百二崁古道は、20分ほどで下り切り102号道路を少し歩いて、10時47分地質公園の入り口に着く。トイレもある入口駐車場で休憩をとる。

地質公園入口、背後の建物はトイレ
露天掘り跡地
地質公園に向けて道を登っていく。小石が敷き詰めらた道は、以前は鉱石などを運搬する作業道だ。つづら折れで高度を上げる。低い雲が背後の山の頂を覆っているが、霧が晴れてきて、基隆山や金瓜石、その先の海が見える。ここから望む茶壺山は、まさに柄のない急須だ。11時16分、地質公園のコアである、露天掘り跡にくる。今は、黒々とした岩が露出する谷は、数十年前は露天掘りが行われていたところだ。トレールランナーが何人も過ぎていく。台湾も最近はトレールランニングが流行りだした。

地質公園近くから見る基隆山から茶壺山へのパノラマ
階段道を黄金神社へ下る
道をさらに進む。戰備道から降りてくる道と合流し、左に急な階段を下っていく。11時34分、金瓜石神社跡に着く。食事休憩を取る。基隆山の頂上を通る南北の線を境に、1896年に西側は藤田組、東側は田中組に鉱掘権が与えられた。西側の藤田組は、その後顏ファミリーの台陽公司に引き継がれていくが、その権利をまた貸しすることで金が採掘された。一方東の金瓜石は、日本でも鉱業に携わっていた田中組は、自ら採掘を行った。朝に通り過ぎた貂山古道では、日本人技師に絡む無緣之墓があるが、まさに田中組が自分で採掘するために呼んだことが関係している。

神社のやしろがあった場所から地質公園方向を望む
神社から黄金博物館とそれから延びる旧トロッコ道を見下ろす
神社から灯篭が残る旧参道を下る
田中長兵衛の田中組は鉱区の権利を入手した後、採掘を始めるが1898年に事業の安全と発展を願い神社を設ける。田中組の鉱山事業は、順調に発展する。1904年に主要な(金瓜石)本山鉱区で銅鉱も発見され、その後水湳洞に銅精錬場も設けられ、金銀だけでなく銅生産も拡大する。しかし、第一次大戦後の不況で運営に問題をきたす。後宮信太郎の日本礦業株式會社(現在の日鉱金属の前身)が1933年に引き継ぎ、経営を行う。次第に過日の繁栄を取り戻し1938年の最盛期には日本のみならずアジア一の金山として栄え、金瓜石には八万人の住人がいたという。金瓜石(黄金)神社は1936年に拡張され、現在の広さになった。戦後社は壊され、今は台座、鳥居や柱、灯篭しか残っていない。当時は、毎年山神祭りが盛大に行われたそうだ。

旧トロッコ道から金瓜石を望む
ケーブルカー上部から下部を望む
レールが残るすれ違い部
金瓜石神社はいまでも、多くの遊楽客が足を運ぶ。12時10分、神社から降りて黃金博物館に行く。少しの休憩後、昔鉱石などを積んだトロッコが往来していた平らな道を行き、勸濟堂の上部から先の駐車場へ向かう。駐車場の終わりには、六坑斜坡索道(ケーブルカー)の上部建物の廃墟が残っている。日本礦業による操業は、戦後これら資産を接収した国民政府が引き継ぎ、台灣金屬礦業公司(台金公司)が設立され運営されていく。過日の活気を取り戻すが、次第に鉱石産出量が減少し、最終的には1987年に操業を停止する。ケーブルカーは、そうした長い年月にわたり人や貨物を運んできた。現在はところどころレールが残っている直線的な急坂だ。

茶壺山を上に望む、右に廃墟
トロッコ車輪がころがっている
前回歩いたときに比べると、草が多く茂っている。滑らないように注意し下ること11,2分、下の駅があった石積の部分に着く。全員がおり切るのを待ち、階段を下って右に折れる。左に行くと映画で一躍有名になった、無言之丘に続く。右は十三層銅精錬所への道だ。右にレンガの建物がある。中にはトロッコの車輪が転がっている。さらに道を進む。分岐があり、右はトンネルへ左は山腹の道だ。前回はトンネルを抜けたが、今回は左に進む。精錬所から有害な煙を流すための山肌を張っていく煙突が右側から降りてくる。すでに壊れてしまった煙突の下を行き、つづら折れに道を下る。すると、出口にはフェンスが張られ門は閉じられている。最近、この辺りは有害地帯として、フェンスで囲われてしまった。そこで、苦労してフェンスの外に出る。

基隆山を対岸に見る、手前のピークは無言之丘
壊れた煙突
山腹をはって登る三本の煙突、茶壺山が見える
フェンスが出来ている
道を右に少し登り、十三層銅精錬所にくる。驚いたことに、以前は問題なく入れたこの建物も、フェンスで囲われ立入ができない。先ほど道が分かれたトンネルも、入り口がふさがれている。登山者は、この辺りは自由に歩けなくなってしまった。十三層銅精錬所は、日本礦業が引き継いだ後に建てた新しい精錬所で、そのすぐ下まで鉄道が敷かれた。今は瑞芳から深澳まで再開されている。道なりに長仁社區へ下っていく。集落内にある長仁山へ立ち寄る。頂上からは、左に十三層銅精錬所遺跡、基隆山が近い。海は濁った陰陽海だ。少し休憩する。

長仁山から望む、十三層遺跡、基隆山とそのふもとに水湳洞
陰陽海、沖には基隆嶼が浮かぶ
20分ほどで基隆駅行の791番バスがやってくるので、濱海公路へ向かう。地図上の一番近い道は、進むと囲いがあって途切れてしまった。そこで少し遠回りして降りる。14時2分、船塢バス停に着き、数分でバスがやってきた。14時45分、基隆駅前に到着し、これまた都合よく待つこと数分で区間電車が発車した。

濱海公路のバス停に着く
前回九份の黄金遺跡巡りと、今回の金瓜石黄金遺跡巡りで、主要な100年にわたる黄金にまつわる歴史史跡を歩いた。二回とも参加したメンバーは、大まかな像がつかめたのではと期待している。日本からのビジターも、二回のルートを巡ることで、単なる九份老街観光で終わらず意義深い旅ができると思う。山歩きの経験があれば、難しいことはない。歩行距離約10㎞、累計登坂670m、5時間半の歩きである。


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