このブログを検索:山名などキーワードを入れてください

2020-03-08

2020年3月7日 復興枕頭山 かつての原住民との戦場の山を歩く

北橫公路から望む枕頭山
子供のころの記憶で、タンスを開けるとぷぅーんと防虫剤のに匂いがする。樟脳の白い塊がある。若い人は樟脳を知らないかもしれない。一世紀前樟脳は実に重要な産物であり、歴史や人の暮らしを変えた。樟脳はクスノキから造られる。伐採したクスノキをチップ状にし、それを窯に入れ高熱で蒸して取り出した抽出物である。防虫剤としての使用は、樟脳の利用法の一部に過ぎない。撮影フィルムとして使用されたセルロイドの原料でもあり、また無煙火薬の原料でもある。勿論クスノキ(薬の木)といわれるぐらいで、薬用にも使われる。強心剤カンフル剤のカンフルは、クスノキの意味のCamphorである。つまりは重要な化学原料であった。その後化学合成技術の進歩で、樟脳は人造合成品にとって代わられる。
@枕頭山山頂
台湾の山岳は、樟脳とは切っても切れない縁がある。100数十年前の台湾の山岳には原生クスノキがたくさん茂っていた。しかし、クスノキが多く茂る山は、すでに原住民のテリトリーである。下手に入って見つかれば、命が危ない。それこそ首狩りされるかもしれない。清朝政府時代から、いかに原住民領域のクスノキを得るかが、重要な課題であった。物品などを与える懐柔方法や、力で原住民を抑えるなど様々な方法がとられていた。1985年台湾を接収した後も、日本の植民政府にとって樟脳は非常に重要な財源である。平地の漢族民の抗日運動が数年で収まってくると、次の課題はいかに原住民の抵抗を抑え、山岳資源を確保するかであった。

時計回りに歩く
歩行高度表
台湾の山を歩くと、日本近代歴史史跡を見ることが多い。今回の枕頭山もそうである。表題に原住民との戦場としたが、原住民は誰と戦ったのか。それは清朝政府の兵士であり、また日本時代の兵士である。今はすぐ隣になる角板山は、もともとこの山の名前であった。1887年清朝政府は、枕頭山山頂に大砲を設置し原住民と四か月に及ぶ大科崁之役と呼ばれる戦いをしてこの地を得る。しかし、その後また原住民に奪われる。ちなみに大科崁は、現在の大溪である。大溪は、淡水港へ通じる漢口溪のほとりで川を使った運送に便利であり、当時の樟脳の集散地や樟脳の生産販売を管理する役所があった場所である。

二つに割れた南角監督所の石碑、白いものは碍子のカケラ
日本統治時代になり、佐久間左馬太総督の五カ年理蕃政策のもとこの地でも泰雅(タイヤル)族原住民との戦いが発生する。1907年、1200名の警察軍隊は40日に及ぶ戦いの末、火力で角板山の部落民を帰順させる(大科崁戰役)。枕頭山の砲台は、大きな働きをした。その後、隘勇線が設けられ、警察が駐在する拠点(南角監督所)ができる。今回の歩きでは、砲台遺跡はおそらく草に埋もれたままのようで、見ることはできなかった。しかし、南角監督所の石碑は枕頭山西峰山頂わきに残っていた。

捷順客運701番電動バス@永寧
大溪で5105番バスに乗り換え
北橫公路を行くバスは最近多くなり、沿線の山に公共交通機関で向かうのも便利になっている。さらに台北から高速道路経由で大溪に向かうバス便もできている。朝7時20分発の大溪行き捷順客運710番バスに乗るべく、MRT永寧駅第四出口近くのバス停に集合する。時間通りにやってきたバスは、台湾ではまだ珍しい電動バスだ。大溪インターチェンジで降りたあと、新住宅地の中を巡り、漢口溪の橋を渡って大溪老街に入る。8時10分、大溪バス停で下車、5分ほどで小烏來行の5105番バスがやってくる。非常によい接続だ。

前方は枕頭山
枕頭山古砲台歷史古道の道標
5105番バスは慈湖を通りすぎ三民の集落を通過する。8時50分過ぎに枕頭山バス停に到着する。バス停の沿道にはたくさんの高山果物販売店や食べ物屋がある。少し先に歩き、店が切れたところから右に道を取る。車で来た都合四人と合流し、全員で16名のパーティとなる。道なりに歩いていく。少し登り、また下っていく。前方にこれから登る枕頭山が座っている。9時18分、枕頭山古砲台歷史古道の看板を見る。左にとり登る。道標に従い進み、9時28分民家脇の登山口に来る。

登山口
急坂の登りが続く
登山道は、ちょうど道の整備工事をしているようだ。停まっている小型シャベルカーの脇を過ぎ少し登ると、傾斜が非常にきつくなる。本来ならば階段があってもよいところだ。これから階段を作るのかもしれない。9時45分、途中坂が少し緩くなったところで休憩をとる。坂道は相変わらずきつい。さらに数分登る。稜線を行く道は、登りが終わり登り下りのある道となる。道幅もある良い道だ。10時過ぎ、枕頭山山頂(標高631m)につく。通信設備と太陽電池パネルがある。本来この近くに砲台があったのだろうが、草に埋もれているのかそれらしいものは見当たらない。くるぶしの上がチクッとするのでズボンのすそを上げてみると、なんと山蛭が血を吸い始めている。乾いた道で草むらも通っていなかったが、蛭がいたのだ。

太陽電池パネルのある枕頭山山頂、左の草むらに砲台が隠れているのか
相思樹の大木がある稜線道
10数分山頂で過ごし、稜線を枕頭山西峰へ向かう。基本は下りだが、少しの登りもあるし、岩が露出した部分もあるが、おおむね稜線道は幅広く歩きやすい。雑木林の中に大きな相思樹がある。竹林を過ぎる。右下方に石門水庫の湖面が望める。水面はかなり下のほうで、貯水量はかなり下がっている。今年は雨が少ない。10時46分、左から幅広の道を合わせると、前方の竹林の中に西峰の三角点を見る。そのすぐ近くには大きな石が転がっている。近づいてみると、二つに割れた南角監督所の石碑であった。この山頂近くは平たく、樹木や竹を切り除けば小屋などを立てることが十分できる。ここが隘勇線の南角監督所跡地だろう。時間は少し早いがここで昼食をとることにする。

石門水庫の水面が見える
竹林の中の枕頭山西峰山頂
竹林の間を下る
11時45分、長い昼食休憩のあとに下り始める。こちらも幅の広い道で、つづら折れで竹林の間を下がっていく。車両も通れそうな道は、その昔大砲などの火器を山の上にあげるために使用されたのか。そのうち道はコンクリ舗装になる。コンクリ舗装の部分は苔も生え、滑りやすい。数分下ると左に道を分ける。地図上に示されている枕頭山碼頭(船着き場)への道だろう。大きな道標が右を差し、それに従い下る。12時下り切り、山腹を行く舗装路に降り立つ。

船着き場への道はふさがれている
遠くに五寮尖(右端)から白石山への稜線が見える
朝に歩いた場所ね戻る
地図ではここから枕頭山碼頭への道が示されている。時間がまだ早いので、降りてみようとするが、私有地なのか道はふさがれている。道の脇には古い鉄製の手すりがある。以前船着き場が使用されていたころは、車が往復していたようだ。船着き場へ行くことができないので、北橫公路へ戻ることにする。おおむね平らな道は、少し登り気味のところもある。途中左に開けた場所からは、遠くに五寮尖から白石山への稜線、右遠くには金平山が見える。12時42分、朝に通過した登山口への分岐を過ぎる。坂を登り下って13時前、北橫公路の枕頭山バス停に戻る。ビールを開け待つこと約40分、13時48分5105番バスがやってきた。

北横公路へ戻る
舗装路から石門ダムと対岸の山々を望む
今は熾烈な戦役が発生したとは思えない、いなかの山である。日本植民政権による原住民の制圧そして帰順、その後の管理政策など、そうしたことが発生した場所であることは、歴史事実だ。台湾の山は、日本の山と比べると原住民の存在が大きな違いだ。そのことを忘れずに山を登っていきたい。地元政府による立派な枕頭山古砲台歷史古道の道しるべだが、それに見合うだけの歴史遺跡の発掘復元や説明看板など今後の対応が望まれる。それがあって初めて歴史古道である。枕頭山は、独立しているので他とつなげてあることが難しい。距離8.2㎞、長い休憩込みで約4時間の活動であった。このルートは半日で十分に歩ける、気軽なハイキングルートだ。誰にでもお薦めである。

0 件のコメント:

コメントを投稿