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日本「海軍航空士殉職之地」石碑 |
日本の50年にわたる台湾統治時代に、多くの記念碑が各地に建てられた。日本が去った後、これらの記念碑などは、中国大陸からやってきた国民党政府のもと、
山深く簡単に行けない場所などを除いて、多くが壊されたり捨てられたりした。日本統治の過去を表すものを消し去るためだ。それから数十年たち、残っている石碑は歴史遺跡として一般の認識を得るようになっている。今回訪れた石碑は規模も大きなもので、なおかつ日中戦争(支那事変)にかかわるものだが、それが壊されずに来たのはその場所が大きな要因だ。
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保線路の分岐部草原での参加メンバー、背後には水牛の群れ |
新北市貢寮區にある今回訪問した石碑は、昭和12(1937)年11月26日海軍航空機が中国漢口を襲撃するために飛び立ち、帰還したときに天候が悪く山に衝突、乗務員全員が殉職したことを記念するものである。同日に別の飛行機も同じく山に衝突し殉職している。そちらは現在の行政区画でいうと
新北市石門區尖山湖で発生し、石碑が立てられた。この石碑は捨てられていたが、20年ほど前に地元行政が観光目的として整備し石碑を戻した。それに対し睏牛山山頂の下にある同様の目的の石碑が、ほとんど原型をとどめているのは、実は人里から遠いためというよりは、山の中で草木が茂ると訪れるのも大変であったことがその大きな理由だ。高齢の地元民は知っていたが、だれも実際に訪れることはなかった。最近、藍天隊が石碑に続く道を切り開き、また陽の目をみることになった。数十年の年月を経て再び姿を現した日本時代の石碑は、山を愛する台湾人ボランティアによってもたらされたことに、感謝したい。
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大溪から時計回りに回遊 |
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ほぼ海面標高0mからの歩き |
今回の山行は、
六年前に訪れた睏牛山のすぐ下にある石碑を訪問するため、大溪駅から大溪川保線路をへて稜線上に上がり、草刈整理されて歩きやすくなった睏牛山を登った後、石碑を訪ねた。その後、稜線を進んで鹿窟尾山を越え、桃源谷の登山道を進み、そこから
八年前に歩いた石觀音步道を経て下山した。雨がしばらく続いた後なので、放し飼いの水牛が歩く山稜の道は、ドロドロの部分や水が溜まってできた池などがあり、苦労もあった。山稜付近は霧が発生し、視界が良くなかったが、雨は降らず助かった。
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大溪駅に到着 |
台北駅6時18分の区間(各駅停車)電車で大溪駅へ向かう。朝のこの時間は、まだ乗客が多くない。汐止で地上に出ると、山の方向は濃霧で見えない。雙溪や貢寮を過ぎると、空が少し明るくなり、草嶺隧道を抜けると大海原の上空は明るい。天気は回復方向だ。大里駅でほとんどの乗客が下車し、8時2分大溪駅に着く。駅で今日の参加者と合流する。全員で11名だ。
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分岐を右に進む、左は七兄弟山方面へ続く |
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連日の雨で増水した大溪川を渡る |
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分岐部、直進は大溪川古道、右は保線路 |
8時10分、駅から歩き始める。交通量の多い濱海公路を少し行き、左に折れて宜1号県道を進む。踏切を渡り集落の中を登っていく。水道局の建物脇を登り、8時26分分岐に来る。左は
七兄弟山方向だ。右に取り大溪川沿いに進む。数戸の集落を過ぎると、道は谷あいを行く。途中、土地公とそのすぐ先の門を過ぎ、8時48分舗装路の終点に着く。橋で川を左岸にわたる。8時53分、山道の分岐に来る。左は大溪川古道へと続く。少し休憩をとる。
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小沢を越えて進む |
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水量の多い沢を渡渉する |
分岐を右に登り始める。すぐに右に登っていく道があるが、保線路は左の山腹道だ。また左に下っていく道は、橋で沢を越えていく。この道はどこへ行くのか。小沢を二か所越え進む。山腹を行くこと十数分、棚田跡をと思われる場所を過ぎる。9時14分、右に送電鉄塔への道を分岐し、さらに二、三分でまた右に蕃薯寮山への道を分ける。沢方向に下り気味に進み、9時19分水量が多い沢を渡渉する。道は勾配がきつくなってくる。石段や棚田跡が現れ9時半、規模の大きな廃屋に着く。今は送電鉄塔メンテのための道だが、もともとは地元住民が歩いた古道でもある。
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廃屋、奥に広がる |
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残された石臼など |
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廃屋上の棚田跡 |
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山崩れ部分をトラバース |
道は廃屋の手前から登っていく。また棚田跡を通り過ぎ、山崩れ場所を横切る。そのうち尾根に取りつき、急坂を登る。9時56分、頭城-雙溪第42号送電鉄塔下に来る。さらに急坂を登り10時20分過ぎ、稜線上に上がる。主要な登坂はこれで終了だ。稜線上の草原には、数頭の水牛が休んで、こちらを見ている。水牛は、地元の農民が農閑期に放し飼いにしている。我々も休憩をとる。
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稜線はもう遠くない |
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ドロドロの山道 |
休憩後、稜線を西に進む。牛が歩く山道は、赤土が重い牛の蹄で深くほり込まれ、そこに雨水がたまりグチャグチャだ。気を付けないと、深い泥に足をとられる。送電鉄塔の下を過ぎ、小さな草原に出て左に行く道をとる。こちらはあまり歩かれていないようで、少し草深い。ただ、最近歩かれたようで、道筋の草は踏み倒されている。10時58分、森の中に突然池が現れる。水の中に茂る樹木には、マーカーリボンがある。連日の雨で水がたまり、このような池になったようだ。池の脇を行くが、水が深い場所で左に逃げて高巻く。思いがけない苦労だ。11時12分、右からの道と合流する。この道は、海軍機墜落記念碑からの道で、最近切り開かれたものだ。
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長雨でできた池 |
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@睏牛山山頂 |
左に道を追っていく。さらに数分でまた分岐を過ぎる。こちらは、
六年前尪仔嶺から登ってきた道だ。当時は、草に埋もれ鎌で草を刈りながら進んだ。さらに5分ほど、緩やかな道を進み、睏牛山山頂(標高588m)に着く。草は大きく刈り取られ、前回の印象とはずいぶん違う。ガスがでて対岸の七兄弟山は隠れている。瞬間霧が晴れ、山とその向こうに龜山島が姿を現す。
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森の中に突然現れた石碑 |
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石碑脇の筆者 |
往路を戻り、二番目の分岐から左に下る。新たに開かれた道は、まだ踏み跡が浅い。11時50分、森が切れて石碑が現れる。かなり広い開けた場所には、石碑を囲う台座とその中心に高い石碑が立つ。周囲は草が刈られている。ここで昼食休憩をとる。参加メンバーの一人が、麺を料理しみんなに振る舞う。霧で気温が低いので、温かいものはありがたい。
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石碑背面の文面 |
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石碑側面 |
碑文は「海軍航空隊士殉死之地」、背面は七名の殉職者姓名とともに「昭和十二年十一月二十六日昧爽天未ダ暗ク風雨共ニ強シ前夜來長途渡洋爆撃ヲ敢行帰来セル海軍航空隊所属第三十五號機ハ無念此ノ地ニ激突破壊シ搭乗七勇士ハ愛機ト運命ヲ共ニセリ 惟フニ渡洋爆撃ハ支那事變中ノ華ニシテ其ノ企圖ノ卓抜其ノ行ノ壯烈ナル他ニ比ヲ見ズ國民斎シク感激景仰惜シク能ワズ...」と続く。当時の国情世論を反映しているようだ。台北州知事藤田員次郎の筆になる、とある。石碑の日付は事故のちょうど一年後昭和十三年十一月二十六日に、基隆郡教化聨合會長須〇〇〇となっている。前後の碑文を刻んだ石をここへ持ち込み、コンクリで石碑を埋め込んだ塔や周囲の囲いを作り、表面をモルタルで仕上げたようだ。コンクリは、長い年月で風化し一部が欠けているが、それでも数十年の風雨に耐えてきた。
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今年9月に藍天来によってきれいにされた |
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池の脇を行く |
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牛のふんもあるドロドロ道 |
12時半、出発する。こちらもまだ踏み跡が浅い道を下り、数分で池の脇にでる。この池は、雨で臨時にできたものではないようで、深そうだ。そのわきを行き、尪仔嶺からの山道に合流する。右に取り東方向にゆっくりと登っていく。この道も牛が歩くので、ドロドロだ。13時3分、朝のぼってきた稜線上の分岐に着く。牛は去っていていない。
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草原を鹿窟尾山へ登る、背後に水牛が草を食み、左の鉄塔の奥に睏牛山が見える |
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鹿窟尾山から西方向を見る、遠くに三方向山 |
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土地公の鞍部、牛止めの鉄線が左右にある |
草原を鹿窟尾山に向けて登っていく。右に大きな水たまりができている。山頂前の草原には、牛が数頭草を食んでいる。13時11分、鹿窟尾山山頂着く。霧がちょっと晴れて、睏牛山やその右背後の
三方向山などが望める。草原の稜線を下る。数分で下り切り、鞍部の土地公に着く。小休憩をとる。
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石段のハイキングルート、石觀音歩道の分岐鞍部 |
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石畳の石觀音步道 |
ここからは、石段の
桃源谷ハイキングルートである。いままでほかの登山者に出会わなかったが、歩いていくと多くのパーティとすれ違う。我々のドロドロの足元を見て、驚いている。道の状態が悪いのかと、心配して尋ねるハイカーもいる。開けた稜線道だが、ガスがかかって展望はない。稜線上のピークをこえていき、14時15分石觀音寺へ下る歩道分岐に来る。分岐脇には駐車場もあり、車でやってくることもできる。
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前方石觀音山の左肩にお寺の赤い屋根 |
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石觀音寺 |
右に折れ、坂道を下り始める。こちらの石段は濡れて滑りやすい。前方左下には、石觀音山の山腹に建てられた石觀音寺の赤い屋根が判別できる。音楽が聞こえてくるが、どうやらお寺が流しているようだ。距離300mほど下り、一度緩やかになった道は、また急な石段が続く。途中先ほど鞍部の駐車場に車を停め、お寺参りをして戻る家族と行違う。14時35分、お寺の裏に着く。そこにある水道で長靴を洗わせてもらい、境内で休憩をとる。住職がお茶を勧めてくれる。
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お寺の奥にはその名前の由来になる石洞 |
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長い階段道を下る |
15時前、最後の下りにとりかかる。お寺の脇から少し登り返し、山腹の平らな道を進む。土地公がある場所の対岸には、滝が二つかかっている。連日の雨で水量が多いのでかなり壮観だ。その先から急坂が続く。尾根上のコンクリ階段道を下っていき、右に折れて谷間に入る。沢を越え、また山腹を巻いていく。少しの登り下りを通り過ぎ、15時45分登山口に着く。山門をくぐり、濱海公路にでる。右に折れて大溪駅へ歩く。四名はそのまま駅に向かい、残りのメンバーは大溪漁港近くの料理店で食事をとる。食事後18時前、筆者と他一名のメンバーは、濱海公路を行く1811番國光客運バスで、残りのメンバーは電車で台北への帰途に就いた。
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谷間に下り沢を越え、山腹を進む |
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大溪漁港近くの濱海公路から海を臨む、遠くに龜山島 |
天気がもう一つだったが、一番の目的である日本時代の石碑を訪ねることができたのは、良かった。台湾の登山人口が確実に増えているのを感じる。今はススキのシーズンであるので、ことさらそれを求めたハイカーが桃源谷を訪れている。舗装路歩きも結構あったので、都合16㎞ほどの距離を歩いた。登りは累計970mだ。休憩込みで約8時間の行動時間である。今は道もはっきりしているので、困難度はレベル3だ。もし石碑を見るのであれば、また草木に埋もれ忘れ去れないことを願うが、やはり早い時期に訪れたほうが良いだろう。
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