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2017-07-19

八通關越嶺道路 日本統治時代に開いた高山横断の道

玉山連峰(左から南峰、主峰東峰、右は北峰)を右にみて八通關古道西端部分を行く
台湾最高峰玉山主峰(標高3,952m)とその手前に位置する東峰(3,869m)、少し左に南峰(3,844m)、また右に北峰(3,858m)の雄大な山並み見ながらアカマツ林の山腹道を行く。ここは八通關步道のツバキ警察駐在所跡の近く。夏の日差しは強いが、標高3100mを越えたこの地は、暑さを感じない。吹き抜ける風も、汗を乾かしていく。今を去ること80数年前、日本人登山家の先輩、鹿野忠雄や千々岩助太郎などなど、この道を歩き台湾の高山を極めた。高山ハイキングとして、多くの人が歩いた。

アカマツ林の間から玉山を遠望する
歩みを止め、ふと前方を見る。その山ひだの角を曲がると、制服姿の日本人巡査が向こうから歩いてくるような、原住民たちが獲物を担いでくるのでは、と錯覚させる分水嶺東側の道、時間が停止したこの道は、実にロマンにあふれる。

八通關古道は西の東埔から東の玉里を結ぶ
松葉絨毯の道
1895年台湾を接収した日本政府は、植民経営の一環で山地に入っていく。中央山脈の東側、ラクラク渓(拉庫拉庫溪)のブヌン(布農)族が住む谷あいにも進出する。管理のために、蕃地と総称された原住民地域の部落に警察派出所を設け、民間業者に殖産をさせていく。1909年にはアサンライガ部落(阿桑來嘎)など下流地域から始め、その後1911年にはマシサン(馬西桑)、ナナトク(那那托克)など中流域の部落にも駐在所を設けた。1914年タロコ戦争(太魯閣)で強硬に太魯閣族を帰順させた後、この地の原住民に対しても強硬な対応を始める。その中で一番反動の大きかったのが銃砲狩り施策である。狩猟につかう銃砲を駐在所が管理し、必要に応じて弾と一緒に借りだすという制度である。

八通關山(標高3335m)、背後右は大水窟山(標高3642m)
その結果、1915年5月にラクラク渓流域で駐在の日本人警察官が襲撃され、殺害される事件が連続して発生した。この地の管理中心となっていたターフン(大分)やカシバナ(喀西怕南など、合計30名近い日本人が殺害された。この結果、この地の管理責任部署花蓮港廳は、これらの駐在所をすべて閉鎖、いったん引き下がる。

大水窟の峠も近い
大水窟に夜やってくる水鹿の群れ
次の手として、花蓮港廳は東西に分布する布農族の連携を遮断し、有効にこの地を管理するため警備道路を開くことを決める。1918年から現地調査が始まった、中央山脈横断路は日本第二の高峰北岳とほぼ同じ標高3200m大水窟を峠とする、八通關越嶺警備道路の開削である。清朝時代の1875年、当時の清朝台湾政府は兵隊を使用して、中央山脈を東西に結ぶ八通関道を開いた。駐屯地を造り開墾を漢人にも奨励したが、原住民などの対抗であまり使用されることなく打ち捨てられた。日本時代の八通關道路は、西側では一部重なるところもあるが、東側では全く異なり、清朝の道がラクラク渓の北側を行くのに対し、南側を進む。

日本時代の台中州と花蓮港廳との境界に設けられたあずま屋のあった場所から南方向を見る、左奥に大水窟山屋
大水窟駐在所跡から玉里方向を見る、平地まで歩いて三日の道のりだ

ターフンに残る殉難諸士之碑
横断道路には、多くの警察官駐在所を設け、原住民の治安管理を行う。警備道路と呼ばれる由縁である。工事は1919年6月から1921年1月まで行われ、150余キロの歩道が開通する。工事はほとんど手作業で行われ、岩壁なども鑿で切り開かれている。工事中は、原住民からの襲撃妨害を防ぐために、警備が行われたが、それでも襲撃などを受け、25名の死傷者8名の重症者を出している。上記の反抗事件と合わせ、そうした事件発生の場所に殉死した警察官などを記念した碑が全部で17か所に今でも残っている。

日露戦争の戦勝品ロシア製大砲がまだ残る、数十年前の建物も健在
十三里(トミリ)駐在所跡の石積
管理のための駐在所は、その時の必要に応じて増減しているが中央山脈分水嶺の大水窟を境に東側花蓮港廳管内で最大40か所、西側台中洲管内で8か所、合計約50か所近くが敷設された。平均ほぼ3キロごとに一か所の割合である。見晴らしきく山の上には大砲も据えられた。ターフン近くの山の上にあるワバノ(華巴諾)駐在所には、日露戦争で戦勝したロシア製大砲も据えられた。原住民部落をにらんだこうした大砲は、原住民の帰順にも役立ったようだ。100年経った今も、この大砲はそのまま建物とともに残っている。

まだ建物も残るワバノ駐在所跡
手掘りの石洞トンネル
八通關道路開通後まもなく、屈強な原住民に対して粛清も行わたが、その後主要な駐在所には診療所、蕃童教育所などが設けられ、また酒保と呼ばれた雑貨屋が開かれた。部落の集団平地移住なども行われていく。ターフンには、尋常小学校も設けられ、日本人警察官の家族子供が進学できるようになった。

ターフンに残る日本時代のビール瓶、銘柄は大日本、サクラビール等々
原住民の帰順や教育が進むにつれ、物騒なラクラク渓も落ち着いてくる。一部の原住民ラホアレは、群大社の布農族と一緒に、中央山脈の西側の谷間に逃げ、最後まで抵抗したが、八通關步道周辺は1930年代には反抗もなくなり、警備や産業のためだけでなく、観光目的にも使用され始める。高山横断ハイキングや、中央山脈高山や玉山(当時は新高山)などの登山のために使用される。駐在所には招待所が設けられ、今でいう山小屋のように食事や宿泊のサービスを提供した。日本人登山家たちは、こうした駐在所を利用して山に登っている。

戦後日本は、台湾を立ち去り、ラクラク渓周辺の部落民も民国政府のもとでも集団で平地に移住していく。八通關步道は、その使命を終え朽ちていくように見えた。歩道は、荷物運搬や兵器移動を考慮に入れて造られているので、急な勾配がなく山の山腹を縫っていく。そのため一部では、崖崩れで道が喪失している。尾根上を進むのとは違い、急峻な山の山腹で、なおかつ脆弱な地質では、止むをえない。八通關步道は、西側でも東側でも大きく崖崩れが発生し、道が全くなくなっている場所もある。また、100年近く前に作られた鉄線吊橋も、危うくなっていた。

新旧吊橋が並ぶエシラ(意西拉)橋
ターフン吊橋からみるハハビの土砂崩れ
今から十数年前、玉山國家公園はこうした壊れた道や橋を整備し、八通關步道を解放した。開通後約100年を経て山が大きく崩れまったく道がなくなってしまったところは、西側では觀高と八通關の間、東側ではトーカツ(土葛),ルルン(魯倫)、ハハビ(哈哈比)の近くで大きく崩れ、いずれも別の高巻道や山越えの道が設けられている。しかし、大きな台風などでまた道が大きく損傷を受けた場所もあり、再度閉鎖した。今では、正式にこの道を通ることは、残念ながらできない。

朝日の中の新康山(標高3331m)
日本人側も台湾原住民側も、大きな犠牲を払い完成した八通關道路は、その初期の役割はすでに存在しない。歴史上の遺跡である。この道を歩くのは、生活の目的ではなく、自然を求め、あるいは歴史を体験するために歩く、リクリエーションとしての目的だ。封鎖された道は、このまま自然に戻っていくのか。それでよいのか。

カシバナ事件殉職者之碑










答えは否だ。自分は日本人として先人がこうした歴史を歩んできたということを、身近に感じながら雄大な台湾の自然を体験できた。台湾人にしても、原住民であればその祖先が生活した場所、漢人にしても自分の土地で起きたことを、実際に体験できる古道である。そのまま、朽ち果てるにはあまりももったいない。台湾の歴史であると同時に、これは日本近代史の一部なのだ。どうすれば、この道を残すことができるのか。簡単ではないが、いずれは高山トレッキングなどの活動を通じ、また道路保守にかかる費用は山小屋経営や通行料などを徴収し、当てたらどうか。

日本時代からそのまま残る山風橋(この部分は開放)
そのためには、この道を多くの日本人に知ってもらいたい。日本国内では存在しえない、しかし日本人が切り開いた世界でも珍しい山の道を、ぜひ一人でも多くの人に歩いてもらいたい。そうして台湾の当局にもこの道を維持保存することの意義を確認してもらいたいと切に思う。最後に数十年前5歳の時に父親の仕事の関係でターフンに家族で移住し、ターフン尋常小学校に通っていた日本人稲垣さんを訪問したMIT台灣誌のビデオを紹介したい。ターフンは自分の故郷と思い、数年前に亡くなった。
https://www.youtube.com/watch?v=rQ7hId2L9YY


8 件のコメント:

  1. 大作をありがとうございます。
    1週間以上の長旅だとは思いますが、無事の帰還おめでとうございます。
    今回は趣を変えて歴史をたどるトレッキングですね。
    大変勉強になります。
    ありがとうございました。

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    1. 返事が大変遅くなりました。
      コメントをありがとうございます。
      台湾は、日本とのかかわりのある古道がいくつかあります。
      今月初めには、南部の浸水營古道へ行きました。記録を上げましたのでよければご覧ください。

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  2. 貴重な写真満載の記事ですね。こういった歴史を記録していくことの大切さを痛感しました。最後に記されている稲垣さんにはお会いする事はできませんでしたが、書き留められた文章を何篇か拝読したことがあります。それと、ロシア製の大砲、ぜひ見てみたいです。

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    1. コメントありがとうございます。
      稲垣さんについてご存知でしたか。私は、ビデオで拝見しただけです。
      ロシアの大砲は、じつはこれだけではないようです。もしわかれば、また記録したいと思います。

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  3. 沈葆楨表示:?????

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  4. 拝見いたしました。
    建物がまだ残っていることに、驚きました。
    自分の目でも一度確認したいものです。

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  5. 您好!非常感謝您詳細的介紹八通關古道和大分的歷史,我是大分布農族郡大社的後裔,近年來我們家族每年會去大分祭祖,第一次上大分時,看到慶幸沒有被林務局破壞的100年ワバノ駐在所木造建築物和ロシア大砲,很震驚!很感動內心卻又百感交集,聽說當年這個大砲是為了威嚇群居在對面大分山的布農族人而設立的。身為後裔的我們,除了聽到族人耆老口述大分歷史及當時的日本與族人的生活點滴外,也想從當年有在大分生活過,或知道大分的日本人講述當時的大分,或者日本後裔可以跟族人後裔做個文化交流,可惜稲垣啓ニ先生去世了,大概只有他有記載大分的生活記錄。
    八通關古道目前的確持續在崩壞當中,也是我們族人最擔憂的事。

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    1. Tantan先生:你好!

      不好意思回信那麼的晚。我很希望如此有歷史意義的古道不要慢慢被遺忘回大自然。我覺得有些人願意冒險進入古道,國家公園不該限制入山.進入的山友則當然要準備妥當,要自己負責其後果。透過爬山活動我也認識幾位布農族朋友,希望有機會與你相會。

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