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2019-03-21

2019年3月16~17日 霞喀羅古道 / 霞喀羅大山 / 布奴加里山 日本時代の警備道を歩き、中級山二座を登る

白石駐在所(修復すみ)
四年前に訪れた新竹縣五峰鄉との尖石鄉に跨る霞喀羅古道を再び訪れた。前回の訪問時は、がけ崩れのため不通となっていたが、昨年12月に修復を完了した古道が全線再度開かれた。今回は、まだ歩いていなかった石鹿側から入り、峠を越えて前回途中まで歩いた白石吊橋からの部分を養老へ歩いた。途中、霞喀羅大山(石鹿大山)と布奴加里山を登った。全線20キロ強の古道は、付近の山に登らなければ一日で歩くことはできるが、今回はほぼ中間の白石駐在所の跡地で設営し二日で歩いた。

石鹿登山口にて全メンバー
前回の養老側を歩いた時も簡単に記したが、この古道は日本統治時代の産物である。現在は台湾中央政府の林務局の管理下にある。歩道となっている部分は、日本時代に造られた五峰(当時の呼称は十八兒)から秀巒(控溪)までの60㎞に及ぶシャカロ・サカヤチン警備道の一部で、一番山深い部分である。警備道は、日本時代に生蕃と呼ばれた山岳に住む原住民を制圧管理するための軍事用道路である。

西側から峠を越え東側へ
二つのピークは霞喀羅大山(左)と布奴加里山
明治28年  (1895年)に台湾を接収した日本政府は、殖民政策を進めるにつき、山岳部の原住民との接触が始まる。初期の懐柔政策から第五代台湾総督、佐久間左馬太(在任1906年~1915年)の武力による理蕃政策へと、原住民への対応が変わる。従来原住民の部族間での首狩りなどを含む各テリトリー間の争いはあったが、外部との接触は必要物資の交換だけでほぼ自給自足独立状態だった。そこへ樟脳や茶葉などの農作物や森林資源などの開発を進める活動がやってきた。当然衝突が起きる。

古道は新竹縣五峰鄉と尖石鄉にまたがる
この地では、霞喀羅大山を分水嶺とする西側霞喀羅溪及び東側薩克亞金溪の流域に住む泰雅族(タイヤル族)部落との間で大正6年(1917年)と大正9年に霞喀羅事件が発生する。この事件を通じ、総督府はもともと原住民の部落間往来の山道を、軍事目的に耐える警備道に広げていく。警備道には駐在所を設置し、原住民の管理を強化する。警備道を経て設置され、原住民部落に標的を向けた大砲は、帰順を促すに充分であった。昭和時代には原住民との衝突がなくなり、通行の安全の確保ができた後は、単に警備目的だけはなく、登山などの目的にも利用される。峠近くの田村台駐在所には酒保と呼ばれる購買部もでき、駐在所は現代の山小屋のような機能も果たした。

布奴加里山の山道で見かけた水晶蘭
戦後日本は去ったが、国民政府は駐在所を警察派出所として利用していった。原住民も次第に山を下って移住し、派出所も閉鎖される。今回設営場として利用した白石(サカヤチン)駐在所は、もともと大正11年(1922年)に設置され、戦後も引き続き警官が1989年まで駐在していた。戦後も長く派出所があったことが幸いして、古道はメンテが行われていたので、他の日本時代警備道に比べると状態はよい。現在は林務局が国家歩道として管理を引き継いでいる。

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第一日 3月16日(土) 台北 - 石鹿古道入口 - 霞喀羅大山 - 白石駐在所(宿)

石鹿登山口から途中霞喀羅大山へ登り、白石駐在所跡へ
霞喀羅大山登山後峠を越える
張學良が軟禁された清泉の建物
今回は多くの参加希望があり、筆者も含めて12名の山行である。台北の二か所からシャトルサービスの車で出発する。第三高速道路から竹東を経由し、約1時間半で上坪のコンビニに着き、他の一台と合流する。122号県道南清公路をさらに南に進む。途中清泉に入る直前、大霸尖山の登山口觀霧への道を右に分岐し、上坪溪近くへ下る。清泉は、日本時代は井上と呼ばれた。沢を橋で渡ると、すぐ張學良の軟禁されていた住宅がある。井上温泉療養所で、今もその原型が保たれている。張學良は、例の国共合作に一役かった西安事件の首謀者である。

石鹿近くより霞喀羅大山を望む
石鹿登山口
道はすぐに登り始める。今は幅員が広げられ舗装されているが、ここはもともとはシャカロ警備道である。面托油山から西高橋山へと続く山並みの山腹を縫っていく。日本時代は瀬戸、シャカロなどの駐在所があった。霞喀羅溪の深い谷の奥にある山は、霞喀羅大山から続く峰々だろうが、雲をかぶって頂は見えない。石鹿の集落を通り過ぎ、道は前面舗装から、車輪ののる部分だけが舗装された二本のコンクリが続く道となる。途中、樹木の伐採が行われている場所は、泥がかぶり我々の車は難儀する。9時55分、石鹿登山口に着く。台北から約3時間であった。

人工杉林わきを行く
1Kキロポスト
支度をして、10時5分歩き始める。道の状態はとてもよい。幅員も十分ある。勾配は緩く、あまり気にならない。銃器を運ぶ必要も含めて開かれた警備道である、計画段階から急な勾配は避けている。人工杉林を過ぎる。石段を登り、10時20分1Kキロポストを見る。古道には0.5K毎にキロポストがつけられている。そのすぐ先で、左にトイレがある。また、西高橋山への登山口がわきにある。

手洗い場のある平らな場所
杉が生える田村台駐在所跡
つづら折りの坂道を登る
二、三分歩くと、1922年に設置された田村台駐在所跡に来る。今は石積の台地は樹木が茂っているが、規模が大きく四門の大砲が下方にあった原住民部落をにらんでいた。ここから現在の觀霧へ続く鹿場連峰警備道が1925年に開かれた。現在は根本古道と呼ばれているが、霞喀羅古道と違い戦後は見捨てられた警備道であるため、今では土砂崩れなどで歩くのはかなりの苦労が必要だ。酒保という食料品、酒やたばこなどを販売する商店もあり、沿線の警察官が剣道試合をここで行うなど警備道上の主要な駐在所であった。登山者もここで宿泊ができた。

がけ崩れわきを行く
遠くにピンクの桜が見える
切通しを越す
2Kを過ぎると、道は勾配が少し強くなる。10時50分、少し休憩したあと、引き続き登っていく。大木の過ぎ、道は狭い尾根の上を行く。右が土砂崩れの場所を過ぎ、標高約2000mの高点を越す。霧が濃くなり、紅色の桜がぼんやり見える。11時23分、切通しの稜線上の峠を過ぎる。道が下りはじめ、3Kを見るとすぐ右に霞喀羅大山の登山口がある。ザックをおろし、登頂するために必要なものだけを準備する。

古道わきの霞喀羅大山登山口
盗伐の跡
濃霧の森を霞喀羅大山へ
11時33分、急な坂を霞喀羅大山に向けて登り始める。数分で尾根上に出る。扁柏の巨木がある。少し進むと、小さく切られたヒノキの塊が置いてある。盗伐によるものだろう。山老鼠と称される、無許可盗伐があとを絶たない。濃霧の森を登っていく。坂はけっこうきつい。ところどころ茂る矢竹の間を行くと、ズボンが濡れる。12時10分、山頂へ3分への赤い道標を見る。左へ佐藤山への道を分ける。文字通り、3分ほどで霞喀羅大山山頂(標高2234m)に着く。山頂で10分ほど過ごし、往路を下る。12時50分、登山口にもどり昼食休憩を取る。

霞喀羅大山山頂のメンバー
倒れた古道わきの電柱
13時10分、古道を歩き始める。道は、霞喀羅大山から北へ霞山へと続く尾根の西側山腹をゆっくり登っていく。倒れた電柱など、昔の名残がある。新しく造られた木製橋を過ぎる。濃い霧のなか、幻想的な古道で距離を稼いでいく。13時45分、過去に松本駐在所があった峠部分に来る。標高約2050mで、古道の最高点である。今では駐在所があったことすらわかない。左に霞山へと続く細い稜線道が分岐する。

古道の峠、松本駐在所跡、左に霞山への山道
古道わきの大木
古道はここから基本下りとなる。先ほどの濃霧は稜線を越えてこれないのか、こちら側は霧はそれほど濃くない。心もち明るく感じる。5分ほど下ると、また電柱が道に倒れている。14時5分、6Kを過ぎてまもなく、右に石積の壁を見る。楢山駐在所(のちに青山駐在所と改名)の遺跡だ。高台になる駐在所跡の入り口を過ぎ、開けた場所で休憩を取る。大きな倒木がある。開けた場所にはもともと医務所や菜園があったということだ。駐在所跡に登ってみるが、樹木や草木に覆われ建物はすでにない。電柱が一本立っている。

楢山駐在所跡の説明板
切欠けのあるヒノキの大木
14時30分、古道を再び歩き始める。14時39分、7Kの近くで新しい倒木の下をくぐる。この倒木は人が抜けられるように切り欠いてある。過ぎるときにはヒノキの香りがする。土砂崩れで道が流失している場所がある。一度下り、また古道へ登り返す。15時20分、9Kを過ぎて2,3分で前方に太い縄の足場の吊り橋を渡る。かなり長く、歩くと揺れる。橋を越えてすぐ、道が流失した部分で沢に下り、登り返す。

がけ崩れスポットを通過
縄製吊り橋を渡る
15時47分、10Kキロポストを通過、その先すぐに朝日駐在所跡を見る。対向方向からの登山隊とすれ違う。朝日駐在所跡で設営するとのこと。つい最近流されたと思われる小さながけ崩れ部分を通過、また沢に降りて渡る。登り返したところには、天幕が張ってありその下にテントがある。古道補修の業者のものか、さもなければ獵寮だろう。16時2分、新しい霞喀羅吊橋を過ぎる。そのすぐ先の水場で水を補給する。今日の宿泊地白石駐在所跡は水がないので、持っていく必要がある。水を補給し、更に10数分歩く。16時35分、白石駐在所に到着する。

新しい霞喀羅吊橋
11Kキロポスト
駐在所跡は、その後修復工事が行われ、まだ新しい建物が二棟ある。向かって右の建物は、部屋が二つと台所がある。すでに山岳旅行者が雇った協作が、部屋にシートを敷き場所をおさえている。左の建物のコンクリート土間には、テントが一つ張ってある。今日は12名の登山者がやってきて泊まるそうだ。ここは早い者勝ちなので仕方がない。我々もテントを取り出し、土間や建物の前の平らな場所で設営する。各自食事を用意し食べる。そのうち、養老登山口からやってきた、グループが到着する。18時過ぎに暗くなる。空は曇りで、星は見えない。19時半過ぎには就寝する。

建物の土間にテント設営

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第二日 3月17日(日)白石駐在所 - 白石吊橋 - 布奴加里山 - 養老古道口 - 台北

白石駐在所跡から下り、布奴加里山へ登る
歩行高度表
出発前、林の向こうに霞喀羅大山が見える
5時前に起床する。昨晩は、屋根をたたく雨音が聞こえた。外に出てみると雨は降っていないが、曇りだ。隣の建物では、台所で協作が朝食の準備をしているようだ。簡単にテント内で朝食を済ませる。テントを撤収する。6時過ぎに全員が準備完了し、出発する。昨晩同じ場所に泊まったグループもほぼ同じ時間に石鹿に向かい出発する。

白石吊橋への下りでテントを見る
吊橋のたもとにつく
白石駐在所は標高約1620m、薩克亞金溪にかかる白石吊橋は約1250mなので、約370mほどの落差を下る。歩き始めてまもなく12Kを通り過ぎる。養老まであとちょうど10kmである。1Km強でこの落差を下るので、古道中一番の急坂になる。つづら折りで高度を下げていく。6時39分、平らな部分にテントが張ってあり、一人焚火のわきで寝ている。手押し車が置いてある。その先に物品運送用のケーブルが張ってある。おそらく古道補修作業のためだろう。6時50分、吊橋のたもとに着く。四年前の訪問時はここまでやってきた。

長い吊橋を渡る

吊橋を渡ったあとのメンバー
急階段をのぼり高巻く
大正10年(1921年)架橋の吊橋は、整備が行われているのでまだまだ十分に問題なく渡れる。長さ145mの吊り橋は、歩くとさすがに揺れる。新しい同種の吊り橋に比べると、昔の名称鉄線橋の名にふさわしい形だ。橋を渡るとすぐ本来の道はがけ崩れで流失しているので、巻き道を進む。沢に向かって下り、登り返す。古道に戻り二、三分行くと、今度は高巻き道になる。木製の急階段を上りつめ、がけ崩れの部分を通過し7時30分、高巻き道が終了して古道に戻る。全行程中ここが本来の古道の破損が大きい場所だ。

がけ崩れの警告板






武神駐在所跡の高台
崖崩れを過ぎると作業用具が置いてある
倒木をくぐって進む
すこし進むと、先ほどの下りの途中で見た運送用ケーブルの対岸になる場所にウィンチが置いてある。14.5Kキロポストをすぐ手間もなく7時37分、武神駐在所跡に着く。駐在所があった高台に上がる。当時の家屋はもちろんない。小休憩のあと、少し登り気味の古道を行く。7時58分、15Kを過ぎ、またがけ崩れを通り越す。古道に戻ったところにバイクが止めてあり、わきにはキャタピラの小トラクターも置いてある。先ほどのウィンチによる物資運搬と関係があるのだろう。山襞を回り込んだところで8時19分に沢を橋で渡る。橋の手前には布奴加里山の登山口がある。ザックを置いておくスペースがないので、橋を渡ったところにある平らな場所にザックをデポする。

橋のたもとから布奴加里山へ登る
沢を渡ると胸突きの急坂が始まる
8時32分、登山口から軽装で登り始める。はじめは沢沿いに進み、5分ほどで沢を渡る。胸突きの急坂が始まる。30分ほど登ると、右に濃霧の中に滝が見える。さらに十数分のぼると、道は左に山腹をトラバースしていく。枝尾根にとりつき、また急坂が始まる。真っすぐに伸びたヒノキの大木がある。足元には水晶蘭の透明な花弁をつけている。9時半、尾根の幅が広がり、前面に白い幹の広葉樹林が広がっている。少し左方向に斜めに登っていくと、9時38分トタン板が散らばる少し開けた場所にくる。もともとは何かの作業小屋があったのだろう。

山腹をトラバースする
大木が生える急坂を登る
広葉樹林が広がる
松葉絨毯の稜線を登る
小休憩し、勾配の少ない道を左にいく。ここも山腹をトラバースし、また別の枝尾根にとりつき急坂を登る。幅の狭い尾根上は松葉絨毯になっている。林相がまた広葉樹に換わり、標高1950mあたりで切り株に道標が取り付けてある。頂上まであと30分とある。後方のメンバーが登ってくるのを待ちまた休憩を取る。ずっと急坂であったが、割合と短時間で高度を上げてきた。

残り30分の道標
太いヒノキが折れて転がっている
道は勾配がすこし緩くなる。残りは高度差100数十メートルだ。落雷か強風で折れたのだろう、太い幹が転がっている。空が少し明るくなり、木漏れ陽が地面を照らす。頂上も目前だ。左に基那吉山への道を分け、右の小高い場所を登る。10時44分、三等三角点のある布奴加里山(標高2125m)につく。約2時間40分で高度差約800mを登った。東方向の樹木が低く、ほかの山々が見える。時々太陽が顔を出す空の下で食事休憩を取る。長靴に山蛭がついている。

山頂の筆者








11時20分、往路を下り始める。急坂は足元の注意が必要だが、高度がどんどん下がる。15分ほどで道標の切り株を過ぎる。登りはこんなに急だったのかと思う場所もある。12時、広くなった尾根の踊り場で休憩をとる。すでに半分ほど下った。また急坂が始まり、左にトラバースする。そこからまた急坂を下り、滝を左にみる。12時40分、沢をわたり数分で登山口に降り立つ。休憩込みで約4時間10分、予定より速く往復した。

急坂は下りも速い
新緑の森は美しい
休憩をとったあとザックを担ぎ、古道最後のセクション、約7㎞ほどだ。天気が良くなってきた森は、新緑に映えて目が覚めるようだ。13時22分、馬鞍駐在所跡に着く。少し休憩をとる。もともと駐在所の建物があった高台には多くの空瓶が並べてある。古い台湾ビールの瓶もある。10分ほど休んだ後、歩き始める。まもなく17Kを過ぎて、高巻き道が始まる。幅員もあり、古道とあまり変わらない道を数分行き、古道に合流する。13時50分、18Kを通過してまもなく、道脇に七葉一枝花がたくさん咲いている。竹林を過ぎて13時56分、栗園駐在所跡にくる。今は竹がビッシリ生えていて、石積壁がなければ駐在所があったこともわからない。

馬鞍駐在所跡
竹林になっている栗園駐在所跡
養老登山口
道は下り気味になり、歩みを進める。14時38分、21Kを過ぎ残り1キロとなる。間もなく左側が開けて、対岸の山々が見える。ただ頂は雲の中だ。大きながけ崩れ部分を過ぎ、14時50分に古道入口に到着する。これで古道歩きは終わりだ。左に折れて駐車場に向かう。布奴加里山に登らず先に古道入口に行ってた二人が、すでに到着していたシャトルサービスの車とともに待っていた。服を着替え、15時20分過ぎ帰途に就く。途中、関西近くで一緒に夕食をとり、19時半に台北に帰り着いた。

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七葉一枝花
今までに歩いた日本時代の警備道は、能高越嶺道八通關古道などがある。それぞれ当時原住民との衝突を経て開通し、管理のために使用された。日本が去ったあと、別の目的で利用されたり、ほぼ見捨てられりした道もある。日本の統治がもたらしたこれら古道を歩くことは、数十年前の日本人や台湾の人たちの生きざまを想像させる。日本国内には存在しなかったこれらの古道を歩くことは、日本近代史を体験することでもある。四年前と違い、今は入山許可書を申請する必要ないので、手軽に訪れることができる。