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2020-03-29

2020年3月29日 坪林楣仔寮山 - 雙溪枋山坑山 - 平溪石硿子古道

南山寺から見る楣子寮尖(中央の山、2019/11撮影)
今回のルートは、実は昨年11月に歩く予定をした。実際に十数名のメンバーと坪林國中バス停に行きF721新バスで出発するつもりであったが、すでにバスは満席で立席は安全のため禁止されているため乗車できなかった。そのため、予定を変更して獅公髻尾山を登り、平溪に出た。今回はその教訓を踏んで、早く坪林國中バス停に行き並んだ。F721に乗車でき、予定のルートを歩いた。この四か月の間に、予定ルートの前半はボランティア登山者によって道の草刈整備が行われ、もともとは藪漕ぎを覚悟していたセクションも、まったく障害物なくスムースに歩くことができた。

南から北へ歩く
歩行高度表
坪林は雙溪と平溪とに接している。境界は山の稜線の部分が多い。山を越えると別の地区になる。今回の歩きも坪林からスタートし、途中雙溪の一部を通り平溪に出るものである。この山と谷の間にある集落や街は、坪林はお茶、雙溪や平溪はもともと石炭、現在は観光にその産業としている。楣仔寮(尖)山は、特に高いわけではないが遠くから眺めるとそれなりにとがって判別ができる山だ。枋山坑山は、以前歩いたことのある山で、今では淡蘭古道中路の中坑古道鞍部中坑頭から近い。この二つの山を結ぶ稜線が続き、最近しっかり草刈された。枋山坑山から過火坪古道経由で雙溪區內盤山に下り、その後石控子古道を経由し平溪區萬寶洞バス停に歩いた。

F721バスがやってきた@坪林國中バス停
英速魔法學院の入口、バス停を見る
最近は、坪林に行く機会が多い。今回も大坪林から7時発の9028番バスで向かう。7時35分に坪林國中バス停に到着。その後まもなく923番バスが到着し、F721バスを待つ行列は、すぐにその定員20名を超える。その後8時4分、2番目の923番のバスが到着する。去年11月は同じ時間のバスでやってきて、まさにこの状態になっていた。F721バスはすぐにやってきて、乗車できない10名ぐらいを残し発車する。南山寺に向かって山を登っていく。霧が出てくる。8時24分、大半の乗客を南山寺で下ろし、我々だけのバスは英速魔法學園に向けて北勢溪を下に見ながら進む。北42県道の14kを見て間もなく8時43分、終点英速魔法學園バス停に到着する。今日は8人のパーティだ。

手入れされロープが張られた山道
楣子寮山山頂
ここ二、三日の雨で道は濡れている。しかし雨は降っていない。8時50分、バス停のすぐ前にある階段道を登っていく。3.4分で民家脇にでる。楣仔寮山の登山口は民家のすぐ上にある。登山道は幅も広くすこぶる状態がよい。ボランティア聯合探勘隊の草刈作業のおかげだ。コンスタントに登っていく。特に難しい場所もない。雨で土は滑りやすい。ロープが張ってある場所は、助かる。途中一度休憩をはさみ、9時半に樹木に囲まれた楣仔寮山山頂(標高599m)に到着する。

楣子寮山から舗装路に出て、右の山道にまた入る
稜線上に上がる
遠くから見ても楣仔寮山は、尖った山で反対側は傾斜がきつい。下り道は急な坂が続く。10分ほど慎重に下り、突然幅の広い土の道にでる。右に曲がり少し行くと、また左に山道が続く。稜線上の道を少しの登り下りを経て、10時に舗装路に出る。左に少し行き、また山道に入る。入ってすぐ左に道を分け、先ほど下りの途中で見えていた枋山坑山へと続く稜線へ上がる。登ること約10分、稜線上の分岐にでる。この稜線道も、長い間ほっておかれた部分だが、しっかり草刈されている。厄介なカヤの草むらも広く刈られている。

火燒寮古道鞍部の壊れた土地公
右から中坑頭から登ってくる道を合わせる
枋山坑山のメンバー
滑りやすい坂を下る
途中左に番子坑へ下る道を分け、稜線上で登り下りを繰り返す。10時56分、火燒寮古道が横切る峠に着く。十字路になる鞍部には、土地公石祠があるがつぶれてしまっている。石の壁や屋根は残っているので、手を入れればまた復元できるかもしれない。直進して尾根を登っていく。11時15分、右に中坑頭から登ってくる道を合わせる。左上方からは人の声が聞こえる。おそらく枋山坑山山頂(標高676m)上にいる登山グループだろう。引き続き尾根を登り、3,4分で山頂につく。果たして、十数名のグループが山頂で休憩昼食をとっている。中には面識のあるメンバーもいる。偶然山の中で遭遇した。

昼食場所
花茗荷
しっかり草が刈られている山頂は、残念ながら周囲は霧で展望はない。写真を写した後、下り始める。山頂のメンバーが歩いた後の土の道は、とても滑りすい。注意して下っていく。道脇に茗荷の花が咲いている。数年前に歩いた時にも見た記憶がある。11時55分、少し緩い開けた場所がある。そこで休憩昼食をとる。

過火坪古道の峠
過火坪古道を下る
20数分の休憩後、引き続き下る。12時半、鞍部に着く。過火坪古道の峠部分だ。稜線から離れ右に古道を下る。急な下り坂が終わると、沢沿いに道は進む。12時50分、內盤山の民家が現れ、古道歩きは終わりだ。舗装路を下る。振り返れば、先ほど登頂した枋山坑山が高い。黒犬が我々の先を行く。內盤山民家の飼い犬のようだ。数分で、左に石硿子古道の入口を見る。

內盤山に下りる
黒犬の案内で石硿子古道の沢沿い道へ下る
沢沿いに進む、左の平らなところは廃棄された棚田
沢を渡る、長靴は便利だ
コンクリ舗装の階段道を登り、13時3分右に土の道を取る。急な坂が続く。途中棚田跡と思われる場所を過ぎる。水が流れ道はぬかっている。13時16分、峠に登りつく。立派な道標が立っている。今回で四回目の来訪になる。以前暑い時期にここで昼食をしたことを覚えている。峠からの下り道はすぐに終わり、石硿子農道に降りる。黒犬は帰らずに我々を道案内するかのように、前を歩いていく。右に少し登り、道標を左に沢へ下っていく。沢沿いの石硿子古道は美しい。ちょっと雙溪の古道のようだ。右岸から左岸にわたり、13時46分対岸に土地公石祠を見る。

土地公石祠のある対岸へ渡る
沢沿いに進む
また右岸を少し進み、コンクリ橋で左岸にわたる。沢を右下に見ながら進む。14時4分、石硿子瀑布への分岐に来る。滝を見に行く。落差は小さいが水量の多い滝は、見ごたえがある。数分過ごし、また古道へ戻る。廃棄された慶和煤礦(炭鉱)の大きなコンクリ橋の下を過ぎ、14時半古道入口に着く。灰窯產業道路を歩く前に、休憩をとる。ビールを開ける。今日は足並みがそろっていること、道の状態が良いことから、予定より早くここまで来た。

石硿子瀑布
古道入口に着く
灰窯產業道路を進む
10数分の休憩後、最後の舗装路を下っていく。バス停まで約2.5㎞だ。黒犬はまだついてくる。家にいるよりは、こうして外を歩くほうが楽しいのだろう。途中登ってくる外国人二人とすれ違う。途中の民家脇で汚れた長靴を洗う。15時16分、橋を渡りちょうど道工事中の場所を過ぎて106号雙菁公路に出る。青空が現れ、天気はすっかり良くなった。萬寶洞バス停で待つこと10数分、15時40分795番バスがやってくる。黒犬ともお別れだ。休日だがバスはガラガラだ。時間が早いためかそれとも武漢肺炎のために公共交通機関を嫌ってなのか。途中でもあまり乗車がなく、50分ほどでMRT木柵駅についた。

バス停に着く
計画当初は藪漕ぎを覚悟、あるいは状態が悪ければルート変更も考えていた。しかし、この3,4か月の間に道整備が行われ、そうしたことが一切必要なく予定ルートを歩いた。ありがたい。そのため、時間的も短く終了した。距離は約12㎞、休憩込みで約6時間半の所要時間であった。現在の状態であれば、困難度はレベル3だ。ただし、来年の夏以降は道の手入れがはいらなければ、また困難度が増すだろう。

2020-03-26

2020年3月25日 福巴越嶺古道 日本統治時代の警備道を歩き拉拉山を登る

ヒノキ(紅檜=ベニヒ)巨木が多い福巴越嶺古道を行く
筆者が個人的にご子息に面識がある故千々岩助太郎氏は、台湾駐在中に多くの山を登りその記録を残している。現在の國立台北科技大學の前身、台北工業学校で教鞭をとられておられる時には、山岳部の部長をされて学生とともに山に登っている。その中で、昭和15年(1940年)9月には、秋山行として三日間の插天山脈の山々への合宿登山をされている。今回の山行は、まさにこの秋山行の第四班が歩いた場所を行くものであった。山岳部員が歩いた当時のララ山警備道は福巴越嶺國家步道と名前を変え、部員が立ち寄った駐在所はすでにない。80年の歳月は、人が造ったものを容易に変化させる。しかし、木々が育ち様変わりの部分もあるだろうが、その大自然は変わらない。また、今回はあることで、福山と改名されたリモガンに住む原住民(高砂族)の変わらぬ人情をしみじみ感じた。筆者が登山を始めたのは、部員と同じ高校時代である。彼らの登山記録を読むと、自分も高校生で山を登っていた時の思いが重なる。

@拉拉山山頂
福巴越嶺古道は、本来插天山脈の周辺に居住する泰雅(アヤタルまたはタイヤル)族の部落を結ぶ道であったとされる。日本統治時代初期には、まだ新店までが平地民領域であり、新店溪の屈尺からの上流域は泰雅族の領域だった。その後、理蕃政策が推し進められ、反抗する原住民も抑えられていく。1922年には、新店溪上流の南勢溪流域部落と山を越えた反対側漢口溪の巴陵の部族を管理するため、ララ山警備道として整備され、現在の福巴古道部分には登山口の福山(当時の地名はリモガン)駐在所から峠まで三か所の駐在所が設けられた。それぞれ茶墾(或いは扎孔,チャコン)、檜山そして拉拉山(ララ山)である。蕃地事情が落ち着いてくると檜山駐在所は廃止された。1940年には、チャコンとララ山駐在所が残っていた。

西側巴陵より福山へ歩く
峠を越えた後拉拉山に登る
筆者は、長いこと福巴越嶺古道に興味を抱いていた。しかし、台風によるがけ崩れなどで長いこと封鎖されていた。道の整備が完了し、今年初めより再び開放された。週末には多くの登山者が歩いている。この地域は插天山自然保留區に指定され、古道を歩くにも保留区への立ち入り許可が必要だ。一日の制限人数があるので、許可を得やすい平日を選んだ。新北市や桃園市の一番奥に位置するので、アクセスに時間を要する。幸い拉拉山口まで朝のバスがあり、また福山からバスのある烏來までタクシーでつなぐことができるので、日帰りで実行できた。また、数年前に塔曼山と一緒に登るつもりだったが、天候が悪くなり登頂をあきらめた拉拉山へも古道上にある登山口から往復した。崖崩れで流失したセクションは、下巻きや高巻きをして道をつないでいる。全体として、道は状態がとてもよい。一般に開放されている拉拉山自然教育區の近くから福山まで、キロポストがある距離は17㎞である。

5090番バス、終点拉拉山口バス停に到着
平日だが、人気が高いこのルートは筆者も含めて13名のパーティとなり、ネット上で事前に林務局から立入許可を得た。当日は、自宅を5時過ぎに出る。まだバスやMRTが運行されていないので、U-bikeで台北駅に向かう。5時半過ぎに駅に着く。5時56分発の区間電車に乗ると、前の駅で乗車したほかのメンバーに出会う。6時32分、桃園駅に着く。新しくなった駅舎を利用するは初めてだ。二階の改札口から南側に降り、桃園客運總站(ターミナル)へ向かう。ターミナルに着くと拉拉山口への5090番乗り場には、すでに5、6人の行列ができている。

拉拉山自然保護區の入口、左の建物で立入許可書をチェック
水槽に取り付けられた保留区の看板
6時50分、バスがやってくる。バスは小型でなおかつ普通は片側二人掛けのところが、一人掛けでしかなく、立席が多くなっている。メンバーの多くは座席に座れない。ほぼ満員で発車したバスには、途中で何人かの乗車がある。大溪から北橫公路を進む。巴陵橋を越え、巴陵へ向けて登る。上巴陵からさらに進み、9時半に終点拉拉山口バス停に着く。桃園からのバス代は204元だ。天気は上々、青空が広がる。標高は1300mを越えており、暑さは感じない。支度をして拉拉山神木園區に向け歩き始める。

生態教育館とその前の駐車場
1号巨木
3,4分歩くと、入口につく。ここで立入許可書を提出し登録する。自家用車でくれば、さらに上の拉拉山生態教育館の駐車場まで行ける。我々は約2.5㎞ほどの舗装路を歩いていく。緩やかな坂道を登り、10時14分大きなコンクリ製水槽に取り付けられた拉拉山國有林自然保護區の看板を見る。さらに数分進み、左手に生態教育館がある。車道歩きは終わる。小休憩をとる。

樹齢2700年の第21号巨木
古道の入口ゲート、ここから先は許可が必要
木製ゲートを通り、玉砂利の道を歩いていく。今までの道を含め本来はララ山警備道だった部分だろう。ゲートから中は拉拉山神木園區である。遊楽客が散策している。10分ほど歩くと第一号巨木が現れる。巨木には説明文があり、樹齢1400年とのことだ。ここの巨木はみな紅檜(ベニヒ)である。歩くにつれ、第2号、3号、4号と巨木が出現する。4号の脇から山に向かい道が分岐する。神木区を回遊し奥にある巨木の脇を通っていく。そのまま前進し、樹齢2700年と記されている巨木21号を見る。その先に19号巨木がある。樹齢500年、ほかの樹木に比べたら若者に過ぎない。10時51分、右に回遊道を分け前面にゲートを見る。ここから先は、立入許可が必要なセクションだ。

16K近くの古道を行くメンバー
倒木に切り欠き
古道峠部
先ほどまでの観光地区に比べると、福巴古道は本来の姿になる。台湾のほかの地区の旧警備道がそうであるように、幅員1メートル近くの緩やかな勾配道が山襞にそって山腹を伸びていく。11時4分、16Kのキロポストを見る。先ほどの19号巨木相当、あるいはそれ以上の巨木が現れるが、こちらには何の表示もない。当たり前にはえているというところだ。倒れた巨木には、通行の邪魔になる部分が切りかいてある。11時24分、15Kをみて間もなく古道の峠部分に着く。標高約1730mの峠の草原には、通信用設備と道標がある。休憩をとる。

倒木をかいくぐり進む
古道脇の拉拉山登山口
拉拉山へはこの峠から稜線を行く道と、福巴古道を少し行ったところから登る道と二つある。11時40分、あまり歩かれていない稜線の道を進む。倒木や苔で覆われた斜面を10数分行くと、地図上達觀山とある小高いところに来る。道がはっきりせず、赤いマーカーリボンを追っていく。地図を確認すると、先に進むのではなく戻ってしまっている。この先、道を探しながら行くと、時間を取りそうなので、こちらの道をあきらめ古道に降りる。古道を10分と少し進み、12時15分もう一つの登山口に着く。

急坂を登る
早咲きのシャクナゲが咲いている
こちらの道は、すぐに急登になる。道筋ははっきりし、迷うことはない。30分ほど急坂をあえぎ登る。坂が緩やかになり、広い尾根上にあがる。シダと苔におおわれた森林は、台湾中級山の特徴だ。12時50分、小休憩をとる。歩き始めてすぐ、左より峠部分からの道との分岐に来る。こちらの道筋はやはりあまりはっきりしない。幅広稜線上の小さな登り下りをすぎていく。早咲きのシャクナゲがピンクの花を付けている。周囲は霧が出始めている。山毛櫸の巨木脇から最後の登りが始まる。ヤタケが現れ、13時28分拉拉山山頂(標高2031m)に到着する。登山口からの標高差は約350mだ。周囲は樹木の小さな山頂だ。昼食休憩をとる。

ヤタケの間の最後の登り
緩やかな尾根の原生林を下る
崖崩れ部分の下巻き道をゆく
20数分の休憩後、下り始める。きつい登り坂は、下りは足元の注意がいるが速い。14時37分、古道の登山口に降りる。全員が降りるのを待ち、福山に向け古道を歩き始める。緩い勾配の道を3,4分行く。右に下巻き道が降りていく。本来の道は崩れてしまったので、その対応だ。ロープ手すりが新しいので、最近の整備工事の物だろう。本来の古道の姿を保持した道が、森の中を過ぎていく。道脇には巨木も現れ、また太い倒木もある。13K、12Kとキロポストの数字が減っていく。15時27分、拉拉山駐在所遺跡の脇に来る。左の高台の上が遺跡だ。登ってみると、広い平らな場所が現れる。今は駐在所建物は一切残っていない。しかし、当時のビール瓶や醤油瓶、薬瓶などが見つかる。

拉拉山駐在所の跡地
駐在所があったころの様々な空き瓶
80年前、台北工業学校山岳部のメンバーは、リモガンから4時間かけてララ山駐在所に11時に到着している。駐在警察官はとても親切だったようで、荷物を置いて拉拉山を往復し戻った時には、風呂も沸いているのでそのまま泊まっていくことを勧められたそうだ。ちなみに、記録では現地原住民の案内で、警備道を離れ尾根を伝って登頂したようだ。その道はおそらく我々が歩いた道ではなく、もっと駐在所に近い場所から枝尾根に取りつき南插天山との主稜線から登頂したのではないか。「 ...14時10分ララ山頂に立った。頂上から大霸.次高の連峰や南湖大山あたりが見えるだろうと期待していたが、樹木とガスのためタマン(塔曼)山も見ることができなかった。」と記している。

11Kキロポストを行く
巨木前のメンバー
駐在所跡の土留壁一角には、おそらく入口だと思われる切り欠きがあり、石段も残っている。15時38分、そこから古道に降りる。福山登山口までまだ11㎞強ある。歩きやすい道だが、先を急ぐ。16時、10Kを過ぎる。道脇には、ベニヒの巨木が数回現れる。保留區にある巨木は、落雷などの自然の破壊がない限りこのままずっと生き延びていくのだろう。16時24分、8.5Kあたりにある檜山駐在所跡地に着く。ここも道の山側に小高い台地が築かれそこにあったようだ。山岳部部員が通った時も、すでに駐在所は廃止されなかった。檜山山頂への道があり往復できるが、時間が遅いので休憩後引き続き古道を進む。

岩を切りかいて通した部分

檜山駐在所の跡地
枯れた巨木
標高1300m付近の檜山駐在所跡から福山登山口までは、まだ900mほどの高度差がある。古道は、今までに比べると少し勾配がきつくなってくる。周囲の森も下がるに従い、林相が変わりベニヒなどはなくなる。16時54分、巨石の脇を通過する。17時、7Kを通過。17時17分、6Kを通過。その先ちょっと大き目な高巻き部分を過ぎる。17時35分、5Kをみてすぐに自然保留區の境界を示す、まだ真新しい看板を見る。

巨石のわきを進む
高巻き部分、奥に崖崩れが見える
17時50分ころ、突然後ろから悲鳴が聞こえる。振り返るとメンバーの一人が足を踏み外し、右側の急な斜面に落ちた。幸い3、4メートルほどの滑落で、樹木に引っ掛かり止まる。すぐに下に降り、メンバーを道に引き上げる。どうやら、足をひどくねじったらしく膝とくるぶしの筋を痛めたようだ。幸い外傷もなく本人もしっかりしている。様子を確認すると、歩いて行けそうもない。メンバーと相談し、力があり経験のある若い男性メンバー二人をけがのメンバーと残し、ほかのメンバーを先に下山させることにする。その場では電話が通じないので、2Kを過ぎたあたりで関係者や警察に連絡を取る。19時50分ごろ、暗くなった福山登山口に到着する。連絡していたタクシーで9名が去るのを見送り、救助隊が到着するのを待つ。



5K近く保留區の境界表示板

20時半過ぎ、到着した救助隊と一緒に約4.3Kの事故発生場所へ引き返す。救助隊は、警察・消防局のメンバー以外に地元原住民のボランティアメンバーから構成している。22時20分、事故場所に戻る。救助隊は手慣れたものだ。現場でテキパキと対応しけがのメンバーを担架に固定、前後二人で担いで下る。暗い道を、大勢のメンバーで交代して担ぎ、午前1時に登山口に着く。幸い大きな問題もなく、救助は完了した。

救助隊は担架を担いで夜道を下る
現地福山の住人も、外に出てきて心配そうに様子を見ていた。話をすると、地元原住民は、日ごろからこうした救助活動を自ら買ってでて対応しているという。80年前にこの地で、台北工業学校山岳部部員がそれぞれの目的の山頂を登る前後に宿泊した。その時、彼らは原住民の人情の深さに触れている。登頂対象ごとに分けた四グループの中で一番厳しかった南插天山を往復した第三班は、空腹に苦しんで下山後「...タラナン社の部落に入ると高砂族達は集まってきて「疲れたでしょう、遠かったでしょう」と実に愛想よく迎えてくれた。そして同行した高砂族の家からは高砂芋の蒸したものを持ってきてくれた。...高砂族の純情で愛すべきことは常々(千々岩)部長から聞かされていたが、今日のこの真実こもったもてなしこそ僕は終生忘れないだろう。」と述べている。80年を経ても、形こそ違いはすれ原住民の人情は変わっていない。

今回は、滑落事故という不測事態があったが、大事に至ることなく終了できた。同行のメンバーの協力や救助隊の助けがあってこそだが、本人も適切な処置をえて早く回復することを祈る。行程自体は、拉拉山往復を含め距離23㎞である。日帰りが可能だが、拉拉山や檜山を一緒に登るのであれば、9~10時間を見たほうがよい。時期的にもバスで登山口に行くのであれば、早くても9時過ぎに初めて歩き始めることになるので、日照時間が長い時期が良いだろう。
なお文章中の引用文は、千々岩助太郎著「思い出の山々」の秋山行(插天山脈の探求)中、部員の手記からの引用である。