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ヒノキ(紅檜=ベニヒ)巨木が多い福巴越嶺古道を行く |
筆者が個人的にご子息に面識がある故千々岩助太郎氏は、台湾駐在中に多くの山を登りその記録を残している。現在の國立台北科技大學の前身、台北工業学校で教鞭をとられておられる時には、山岳部の部長をされて学生とともに山に登っている。その中で、昭和15年(1940年)9月には、秋山行として三日間の插天山脈の山々への合宿登山をされている。今回の山行は、まさにこの秋山行の第四班が歩いた場所を行くものであった。山岳部員が歩いた当時のララ山警備道は福巴越嶺國家步道と名前を変え、部員が立ち寄った駐在所はすでにない。80年の歳月は、人が造ったものを容易に変化させる。しかし、木々が育ち様変わりの部分もあるだろうが、その大自然は変わらない。また、今回はあることで、福山と改名されたリモガンに住む原住民(高砂族)の変わらぬ人情をしみじみ感じた。筆者が登山を始めたのは、部員と同じ高校時代である。彼らの登山記録を読むと、自分も高校生で山を登っていた時の思いが重なる。
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@拉拉山山頂 |
福巴越嶺古道は、本来插天山脈の周辺に居住する泰雅(アヤタルまたはタイヤル)族の部落を結ぶ道であったとされる。日本統治時代初期には、まだ新店までが平地民領域であり、新店溪の屈尺からの上流域は泰雅族の領域だった。その後、理蕃政策が推し進められ、反抗する原住民も抑えられていく。1922年には、新店溪上流の南勢溪流域部落と山を越えた反対側漢口溪の巴陵の部族を管理するため、ララ山警備道として整備され、現在の福巴古道部分には登山口の福山(当時の地名はリモガン)駐在所から峠まで三か所の駐在所が設けられた。それぞれ茶墾(或いは扎孔,チャコン)、檜山そして拉拉山(ララ山)である。蕃地事情が落ち着いてくると檜山駐在所は廃止された。1940年には、チャコンとララ山駐在所が残っていた。
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西側巴陵より福山へ歩く |
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峠を越えた後拉拉山に登る |
筆者は、長いこと福巴越嶺古道に興味を抱いていた。しかし、台風によるがけ崩れなどで長いこと封鎖されていた。道の整備が完了し、今年初めより再び開放された。週末には多くの登山者が歩いている。この地域は插天山自然保留區に指定され、古道を歩くにも保留区への立ち入り許可が必要だ。一日の制限人数があるので、許可を得やすい平日を選んだ。新北市や桃園市の一番奥に位置するので、アクセスに時間を要する。幸い拉拉山口まで朝のバスがあり、また福山からバスのある烏來までタクシーでつなぐことができるので、日帰りで実行できた。また、
数年前に塔曼山と一緒に登るつもりだったが、天候が悪くなり登頂をあきらめた拉拉山へも古道上にある登山口から往復した。崖崩れで流失したセクションは、下巻きや高巻きをして道をつないでいる。全体として、道は状態がとてもよい。一般に開放されている拉拉山自然教育區の近くから福山まで、キロポストがある距離は17㎞である。
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5090番バス、終点拉拉山口バス停に到着 |
平日だが、人気が高いこのルートは筆者も含めて13名のパーティとなり、ネット上で事前に林務局から
立入許可を得た。当日は、自宅を5時過ぎに出る。まだバスやMRTが運行されていないので、U-bikeで台北駅に向かう。5時半過ぎに駅に着く。5時56分発の区間電車に乗ると、前の駅で乗車したほかのメンバーに出会う。6時32分、桃園駅に着く。新しくなった駅舎を利用するは初めてだ。二階の改札口から南側に降り、桃園客運總站(ターミナル)へ向かう。ターミナルに着くと拉拉山口への5090番乗り場には、すでに5、6人の行列ができている。
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拉拉山自然保護區の入口、左の建物で立入許可書をチェック |
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水槽に取り付けられた保留区の看板 |
6時50分、バスがやってくる。バスは小型でなおかつ普通は片側二人掛けのところが、一人掛けでしかなく、立席が多くなっている。メンバーの多くは座席に座れない。ほぼ満員で発車したバスには、途中で何人かの乗車がある。大溪から北橫公路を進む。巴陵橋を越え、巴陵へ向けて登る。上巴陵からさらに進み、9時半に終点拉拉山口バス停に着く。桃園からのバス代は204元だ。天気は上々、青空が広がる。標高は1300mを越えており、暑さは感じない。支度をして拉拉山神木園區に向け歩き始める。
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枯れた巨木 |
標高1300m付近の檜山駐在所跡から福山登山口までは、まだ900mほどの高度差がある。古道は、今までに比べると少し勾配がきつくなってくる。周囲の森も下がるに従い、林相が変わりベニヒなどはなくなる。16時54分、巨石の脇を通過する。17時、7Kを通過。17時17分、6Kを通過。その先ちょっと大き目な高巻き部分を過ぎる。17時35分、5Kをみてすぐに自然保留區の境界を示す、まだ真新しい看板を見る。
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巨石のわきを進む |
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高巻き部分、奥に崖崩れが見える |
17時50分ころ、突然後ろから悲鳴が聞こえる。振り返るとメンバーの一人が足を踏み外し、右側の急な斜面に落ちた。幸い3、4メートルほどの滑落で、樹木に引っ掛かり止まる。すぐに下に降り、メンバーを道に引き上げる。どうやら、足をひどくねじったらしく膝とくるぶしの筋を痛めたようだ。幸い外傷もなく本人もしっかりしている。様子を確認すると、歩いて行けそうもない。メンバーと相談し、力があり経験のある若い男性メンバー二人をけがのメンバーと残し、ほかのメンバーを先に下山させることにする。その場では電話が通じないので、2Kを過ぎたあたりで関係者や警察に連絡を取る。19時50分ごろ、暗くなった福山登山口に到着する。連絡していたタクシーで9名が去るのを見送り、救助隊が到着するのを待つ。
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5K近く保留區の境界表示板 |
20時半過ぎ、到着した救助隊と一緒に約4.3Kの事故発生場所へ引き返す。救助隊は、警察・消防局のメンバー以外に地元原住民のボランティアメンバーから構成している。22時20分、事故場所に戻る。救助隊は手慣れたものだ。現場でテキパキと対応しけがのメンバーを担架に固定、前後二人で担いで下る。暗い道を、大勢のメンバーで交代して担ぎ、午前1時に登山口に着く。幸い大きな問題もなく、救助は完了した。
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救助隊は担架を担いで夜道を下る |
現地福山の住人も、外に出てきて心配そうに様子を見ていた。話をすると、地元原住民は、日ごろからこうした救助活動を自ら買ってでて対応しているという。80年前にこの地で、台北工業学校山岳部部員がそれぞれの目的の山頂を登る前後に宿泊した。その時、彼らは原住民の人情の深さに触れている。登頂対象ごとに分けた四グループの中で一番厳しかった
南插天山を往復した第三班は、空腹に苦しんで下山後「...タラナン社の部落に入ると高砂族達は集まってきて「疲れたでしょう、遠かったでしょう」と実に愛想よく迎えてくれた。そして同行した高砂族の家からは高砂芋の蒸したものを持ってきてくれた。...高砂族の純情で愛すべきことは常々(千々岩)部長から聞かされていたが、今日のこの真実こもったもてなしこそ僕は終生忘れないだろう。」と述べている。80年を経ても、形こそ違いはすれ原住民の人情は変わっていない。
今回は、滑落事故という不測事態があったが、大事に至ることなく終了できた。同行のメンバーの協力や救助隊の助けがあってこそだが、本人も適切な処置をえて早く回復することを祈る。行程自体は、拉拉山往復を含め距離23㎞である。日帰りが可能だが、拉拉山や檜山を一緒に登るのであれば、9~10時間を見たほうがよい。時期的にもバスで登山口に行くのであれば、早くても9時過ぎに初めて歩き始めることになるので、日照時間が長い時期が良いだろう。
なお文章中の引用文は、千々岩助太郎著「思い出の山々」の秋山行(插天山脈の探求)中、部員の手記からの引用である。
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