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2020-07-29

2020年7月26日~27日 能高越嶺古道 多くの日本人登山者が歩いた台湾中央山脈を越える高山ハイキング

能高古道西側を行く、背後には峠と卡賀爾山
能高古道西側を行く、背後には峠鞍部と卡賀爾山・能高山南峰(中央奥)
能高越嶺古道を訪れるのは、筆者にとっては三度目となる。はじめは2017年秋、能高安東軍縦走を終え下山のルートとして、二度目は2019年12月に南華山と奇萊山南峰の登山時に往復した。しかし、山脈を越えて東側花蓮に下ることはなかった。それは、現在国家歩道として管理している林務局が封鎖していたためだ。今年になり再び古道は開放された。100年前に開かれた能高越嶺警備道は、当初は沿線原住民の管理や郵便物運搬、いざというときの軍事用であった。その後、原住民の反抗がなくなり治安に問題がなくなると、3000m級の峠を越えていく高山ハイキングとして、多くの人々がこの道をたどった。警備道上の特定の駐在所は、登山者に宿泊や食事などを提供し(もちろん有料だが)、今の山小屋的な役割をしていたのも、ハイキングが手軽にできた要因の一つである。

古道鞍部、光被八裱碑のメンバー全員
日本時代は交通手段が今ほどではなく、西側埔里から東側花蓮初音までの84㎞をすべて自分の足で歩かなければならなかった。最少で三日、ゆっくり行けば六日ほどを必要とする行程である。それはそれで、高度を上げるにつれ亜熱帯から亜寒帯までと変化する自然形態に触れる貴重な体験だ。今は台14線の西側終点屯原登山口から、東側の登山口を経て台湾電力が開いた道をたどり、天長隧道東入口までの35㎞の行程である。二日で、古道の一番高山らしい自然を体験できるのは、忙しい現代人にとってはありがたい。

西から東へ中央山脈を越えて歩く
二日間の歩行高度
今回の山行は、筆者を含め14名と高山活動としてはちょっと多いパーティだ。しかし、道の状態も少数のがけ崩れ部分を除きおおむね良好であり、期間も二日と短いので参加を希望したメンバーを皆受け入れた。大正15(1926)年7月に、当時の台湾山岳会会員佐藤春吉が、台北第一中学校(現在の建国高校の前身)学生十数名を引率して、能高越えを行っている。それと同じようなパーティサイズだ。前回二回の訪問時に比べ、盛夏の山には高山植物が咲き乱れ、枯れた矢竹が多い秋冬とは異なる風景が出現していた。天候にも恵まれ、日差しは強いものの、高山の爽快な気候の中、素晴らしい山歩きができた。

古道鞍部近くに多く咲く玉山當歸の花

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第一日 7月26日(日) 廬山民宿 - 屯原登山口 - 天池山莊 - 光被八表碑 - 檜林保線所

屯原登山口から鞍部を越えて東側檜林保線所へ歩く
歩行高度表
民宿窓から望む虹
前日25日、13時に台北駅に集合、二台の車に分乗する。一路南下し、15時半第6号高速道路に入る。しばらくすると雨が激しく降り出した。16時、埔里に到着。コンビニで翌日の昼食などを購入する。台14線で霧社に上がり、モナ・ルダオの記念碑に立ち寄る。霧社事件の首謀者の記念碑を訪ねるのは、翌日から歩く能高越嶺古道の歴史の一部だからだ。参加メンバーに歴史のさわりを説明する。霧社の食事場所で夕食をすませ、さらに台14線を進む。18時過ぎ、廬山の民宿陽春麗來會館に投宿する。部屋の窓からみると、途上再生山(安達山)の向こうに見えた虹が、塔羅灣溪の向こうにまだかかっていた。

まだ暗い中屯原登山口を出発
崖崩れ部分から馬海僕富士山と再生山(左)が見える
今日は3時に起床、3時半に朝食、まだ暗い中4時に出発する。午後雨になる可能性があるので、できるだけ早く出発したい。台14線を進む。この道は、もともと能高越警備道を拡張したものだ。日本統治時代の末期、現在の登山口屯原駐在所まで拡張されたが、終戦を迎えその先は中止された。現在は駐在所跡は駐車場になり、登山者はここまで車で来ることができる。国民政府は、能高越嶺步道を利用し花蓮まで自動車道にすることを計画した。西側は勾配も緩く問題ないが、東側は勾配がきつくまた地質が脆弱であるため、実行されなかった。東側も、瀧澗から東側は台14線となっている。

古道4Kキロポストを過ぎる
雲海保線所
支度をすませ、4時50分に歩きはじめる。まだ暗いのでヘッドランプを点けて進む。そのうち白んでくる。5時15分、1Kキロポストを過ぎる。明るくなってきた谷間を挟んで、馬海僕富士山がそしてその向こうに干卓萬の山並みがたたずんでいる。馬海僕富士山の馬海僕は、モナ・ルダオの部落マヘボ社のことである。霧社事件のあと、マヘボ社の住民は移住させられ,部落はなくなった。まだ気温も低く、順調に歩みを進める。6時15分、4Kをすぎ左に尾上山への登山口を見ると、間もなく吊橋を渡る。6時24分、雲海保線所につく。ここは尾上駐在所の跡地だ。

雲海保線所から望む守城大山、左遠くに埔里盆地
台北第一中學の学生を引率して能高越警備道を歩いた佐藤春吉は、1926年7月13日屯原(トンバラ)駐在所から能高駐在所(天池山荘)まで歩いている。その道のりを、次のように記している。「七月十三日、此の日もまたそれ晴れて風なし。朝八時「トンバラ」を發す。荷物運搬の人夫は「ボアルン」社より徴發せるもの、彼等は能高に其の負荷せる荷物を送り更に下りて蕃社に歸る、その全程は十一里標高差四千尺を上下して得る處の賃金僅かに六十錢なり。此の日の行程は緩斜の山道變化に乏しきも、涼風肌に迫り、殆ど無樹の草野帯は歩一歩視界開けて山靈の崇高さを感ぜしむ。十時過尾上駐在所に着きて小憩す。同所は谷頭の凹地なれば針葉樹の密林に蔽われ、初めて高山に入りし氣分滿々たり。標高七千八百七十四尺に達す。」ちなみに当時の尾上駐在所は、現在の場所より西に1㎞ほど行ったところであったという。1930年に起きた霧社事件で焼失した後、今の雲海保線所の位置に再建された。ボアルンは今の廬山で、昨晩の宿泊地だ。

5.5Kがけ崩れ近くから望む能高山
がけ崩れ部分を行く
しばし休憩をしたあと、先に少し下りまた登り返していく。谷間の向こうには、能高山が幅広くそびえている。古道上からはいろいろな場所から見えるが、進むにつれてその姿を変えていく。7時15分、大きな崩壊斜面を横切る。ここは大雨のあと、よく崩れて古道が封鎖される原因の場所だ。今日は日曜日、土日を利用して訪れ、下山して来る登山者とすれ違う。崩壊部分を過ぎると6Kキロポスト、天地山荘までの約半分を来た。

コンクリ舗装部分
木桟道を行く
道脇の水晶蘭(銀龍草)
古道の西側はおおむね、ゆったりとした勾配だが、ところどころ急な場所もある。そうした場所は、路面がコンクリ舗装されている。8時、松林に入ったところで休憩をとる。その先、霧社事件の後に警備力状況のために増設された、松原駐在所跡を過ぎる。道脇にミヤマナデシコや早田香葉草を見る。去年の冬とは異なり、今は花の時期だ。8時36分、9Kを過ぎ右側が開けてくる。桟道に多くの石が転がっている崩壊部分を過ぎる。その先休憩をとっていると、天池山荘へ物資を運搬するためのオートバイが降りてきてすれ違う。

谷を挟んだ対岸の稜線上に光被八表碑がチョコンとのっている
古道から見る南華山、その下崖の上に天池山荘の屋根が見える
能高瀑布
9時41分、南華山(能高北山)が対岸に見えてくる。その尾根を右に追っていくと鞍部に石碑が見える。光被八表石碑だ。1953年台湾電力の電力送電線完工を記念し、蒋介石が記した石碑だ。後であそこを越えていく。ほぼ平らになった道を追っていく。能高山は、ここからはその前に卡赫爾山の双耳峰を従え、また左には能高山南峰が連なっている。天気がよく、眼前には実に壮大な景色が展開する。そのうち、深い谷の対岸上に天池山莊がちょこっと乗っかっているのを見る。吊橋を二カ所過ぎる。二カ所目は能高瀑布を左に見る。今日は水が多く、そこそこ見ごたえがある。最後に少し登り、10時20分天池山荘に到着する。山荘は、ちょうど改修工事が進行中で、今は宿泊できない。その下のテント場には、数張りテントが見える。

天地山荘近くから見る能高山は三角ピラミッドだ
佐藤春吉は、屯原から約5時間半を要して霧社事件で焼失した檜木御殿と呼ばれた能高駐在所に投宿し、こう記している。「能高駐在所は標高九千四百三十七尺、横断路中の最高点にして、八通關駐在所より高きこと百餘尺、実に日本全國中最高所にある住宅なり。所謂能高御殿は總檜造りの壯麗なるもの、前に能高主山後に能高南峯を近く望み、その脈遠く白石山、安東軍山に延ぶ。その右方蜿蜒として蚊龍の伏するにも似たる溪谷は是れ濁水溪の一源流にして遠く霧社方面に連なる。… 気温はなはだ低く人皆な冬衣を纏う。快晴温暖の日なるも今朝華氏五十九度(15℃)、正午七十一度(22℃)、午後六時六十五度の低温なり。是れ頃日の標準的のもの、障子を閉じ火鉢を擁して下界暑熱の苦を偲ぶ。」

多くの登山客がくつろぐ天池山荘
天池山荘と背後の深堀山
山荘の前には多くの登山客がくつろいでいる。下山を始める団体を見送る。昼食を取り、11時15分、工事のためにけたたましく大きな音を発する機械の脇を、鞍部へと進む。道の開けたところには、多くのテントが張ってある。山荘が改修中で使用できないため、多くの登山者に対応するためだ。15分ほど進むと右に山荘と、その背後に深堀山が見える。1897年調査探検のためにこの地を訪れ、13名の部下とともに原住民に殺害されてしまった、深堀大尉にちなんで名づけられた。さらに進み、今回の古道中の最高点を過ぎる。道は森からでて右側が開ける。日当たりのよい場所は、玉山當歸の白い花が満開で、斜面を埋め尽くす場所もある。去年12月は、思いもよらかなった光景だ。當歸は、その根が漢方薬に使われる。ここの當歸は台湾固有種だ。

道脇の玉山當歸
光 被八表碑から東側の谷間を望む
石碑前の筆者
天池山荘から約3キロ余り、緩い坂山腹道が終わり、尾根上につく。左は南華山への道が分岐する。さらに少し進み、右に光被八表碑への道を取る。12時11分、記念碑前に着く。本来日本時代の記念碑があったが、それは壊されてない。左花蓮側の谷間が良く見える。こちらは谷が深く、山の斜面には大きな崩壊部分も見える。遠くには花蓮の平野も望める。標高は約2800mあり、屯原は約2000m。約800mほどの高低差、約15㎞の道のりをやってきた。

能高山への分岐(右)を過ぎ、下り始める
佐藤春吉は、こう記す。「此の地標高八千九百六十六尺、中央山脈中東西両斜面の分水界にして、能高主山と能高北山との間に位す、西方に蜿蜒たる濁水溪の溪谷は埔里の盆地に盡き、盆地の西方遠く平野を俯瞰するも海陸の分界を認めべからず。東は木瓜溪の溪谷叉迂餘曲折し花蓮溪口の海に注ぐあたり、白浪岩に砕けて海波遠く漂渺たるを見る。天幸ひ晴れて展望を遮るもなく爽快實に極まりなし。時の移るを忘れて歡談莊語之を久ふす。九時行を整へて下山の途につく。」

急坂で高度を下げていく
湿気の多いため、苔が繁殖する森の脇を進む
12時半過ぎ、我々も下山を始める。5分足らずで、右に能高山への道を分け、高度を下げていく。間もなく道はつづら折れになり、高度をどんどん下げる。草原の道脇には目立つピンクのミヤマナデシコ以外にも、台灣劉寄奴や一枝黄花などの黄色いが咲き誇っている。日陰のないこの坂は、昼下がりの陽光で暑いぐらいだ。鞍部までの道に比べると、歩く登山者の数が少ないため、道は草がかぶさる部分もあるが、道筋ははっきりしている。途中苔が幹にこびりつく小さな森などを抜けていく。この谷間は霧が良く発生するので、こうした植生が育つ。13時、17Kを通り過ぎ、間もなく鉄製の橋を越える。つづら折りの坂道は終わりだ。その少し先の木々の下で休憩をとる。

17Kキロポストを過ぎる
上檜奇吊橋の下を行く
歩きはじめてすぐ、上檜奇吊橋がある。通行できないので、その下を道は巻いていく。その後道は山腹の森の中を抜けていく。13時50分、がけ崩れの部分を通過する。危ない場所にはロープが渡してある。その先10分足らずで、またがけ崩れを通過する。こちらは水が流れている。周囲は霧が出てきて遠くは見えない。後方メンバーが追い付くのを待ち、さらに下っていく。さらに二カ所の小さな崖部分を通過すると、しっかりとした道が続き、そのうちヒノキの大木が次々と道脇に出現する。メンバーは、驚きの声が絶えない。14時52分、左に小滝のある沢を橋で越え、20Kを見て間もなく15時10分今日の宿泊地、檜林保線所に着く。ここは、もともと東能高駐在所があった場所だ。標高は2100mほど、鞍部から約700m下ってきた。今日は約20㎞を、休憩込みで約10時間20分で歩いた。

ジグザグに下る
霧の中のヒノキ林を行く
鞍部から東能高駐在所までの道のりについて、佐藤春吉は次のように記している。「鞍部より東に下るの道路は、大斷層線の斷層面を下るにより險阻を極め、一里の間に二千尺を直下して東能高駐在所に至る。この間斷崖壁立片岩壘積の狀雄渾を極む。東斜面の緩斜なるは粘板岩の層面を辿るもにして岩種にも變化なく地形概して單調なるに、大斜面に至りてはその趣全然異なり、大斷層山脈としての中央山脈を望見すべし。」


檜林保線所
保線所の前には、平らな場所がありそこにテントを設営する。保線所は一般には開放されていない。建物脇には先ほどの小滝の沢から引かれた水場がある。鞍部から東側はヤマビルが多いと聞いていた。実際、メンバー中血を吸われた者もいる。食事をすませ、20時までには就寝する。今日は、最後の部分で少し雨粒を感じたが大降りにはならなかった。ところが夕方遠くで聞こえていた雷は、20時を過ぎて近づきかなりの大降りの雨が一時間ほど続いた。


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第ニ日 7月27日(月)檜林保線所 - 五甲崩山 - 古道登山口 - 奇萊山莊 - 天長隧道

檜林保線所から天長隧道へ歩く
歩行高度表
檜林保線所を後に古道を下る
4時半起床、食事撤収をすませ6時に出発する。昨日はかなりの雨で心配したが、今朝は快晴だ。歩きはじめてすぐ、送電線の部分品などが道脇においてある。背の高いカヤの間を行く。昨日の雨でまだ雫が多い。十数分下っていくと檜奇吊橋が現れる。この吊橋も、傾いて通行できない。左に巻き道が伸びている。山襞にそって進み、橋の下端側にでて、また古道に戻る。崖崩れ部分も現れるが、昨日に比べるとずっと規模が小さい。6時30分過ぎ、前方にまたヒノキの巨木が次々と現れる。昨日のヒノキ巨木群と合わせ、その間にある保線所を檜林と名付けたのは、要を得ている。

壊れて傾いた檜奇吊橋の柱
道わきにまたヒノキの巨木が現れる
玉山當歸の草むらを下る
木橋などをすぎ、高度を下げていく。草原には玉山當歸があるが、標高が低くなったためか、すでに花が散り赤い小さな実をつけているものもある。7時6分、右に送電鉄塔保守用の道を分ける分岐で休憩をとる。標高はすでに1900m強、だいぶ下ってきた。山腹道を進み、崖崩れを二カ所通り過ぎる。7時43分、道は左に五甲崩山に向けて急坂で登り始める。佐藤春吉が歩いたころは、五甲崩山の山腹をトラバースして進んでいた。しかし、大きながけ崩れが起き、今は全く通れない。そのため、この高巻き道が作られた。つづら折りで急坂を登っていく。標高差約200mほどを登り切り、8時14分、21Kキロポストを見る。そのすぐ先で休憩をとる。五甲崩山山頂近くだが、三角点に行く入り口が見つからない。おそらく誰も見向きもしないのだろう。

崖崩れ部分を過ぎる、背後は中央山脈
五甲崩山へジグザグ道を登る
佐藤春吉一行は、能高駐在所から東能高駐在所と奇萊駐在所を通過し、坂邊駐在所まで足を伸ばしている。東能高駐在所を過ぎて、次のように記している。「東能高よりは檜其の他の密林深く閉ざして、その間高さ數丈、徑五六寸に達する蓪達木や、高さ十餘間徑尺餘に至るサルスベリ等の巨木を交ふ。左まで險なりと言ふに非ざるも、臺中洲下に比して道路大に劣る、地質の差又已むなきなり。東より登攀することの困難少なかざるを思はしむ。」その後、五甲崩山の山腹を横切り、奇萊駐在所へ下っている。

奇萊連峰を望む
登山口へ下る
巨大な崩落部分の上を進む
送電鉄塔と背後の奇萊連峰
十数分の休憩後、下り始める。ここからは基本下り一本だ。すぐに左側が開け、奇萊主峰から奇萊北峰への連峰が高く連なっている。道は雑木林の中を下っていく。途中、道脇に送電鉄塔を見て下り、9時過ぎに右に大きな崩壊部分の上を過ぎる。この崩壊部分は、以前能高越警備道が横切っていたはずだ。これだけの大きな崩壊だと、まったく残っていないだろう。また森の中を下り、9時半26.5Kキロポストを見て古道入り口に着く。これで古道歩きは終了だ。もともとは、ここまで車で来れたが、度重なる台風などでがけ崩れが多く発生し、この先まだ10㎞ほど歩かなければならない。先に休憩をとる。


東側登山口のメンバー
廃棄された車道を下る
天長斷崖に廃棄された道筋が見える
車道のがけ崩れ部分を行く
台湾電力が開いた道は、車が通れるように広く勾配も緩く造られている。少し進むと、崖崩れや路面に大きな岩が転がっていて、車は到底通行できないことがわかる。下っていくと、天長溪と丸田溪とが合わさって、木瓜溪と名を変える合流点上方の山腹に右に登り気味に横切っていく道が見える。そしてところどころがけ崩れで途切れている。天長斷崖を行く廃棄された古道である。佐藤春吉一行はこの道を歩いて進んだ。

崩壊が激しい天長斷崖をいくセクションは、昔のハイキング中の難所でもあった。佐藤春吉の感想は、「 …鐵線橋を渡り、緩斜の山道を行くこと約十町にして、天長山の險坂前に開く。この坂道は二十餘の電光形を切って二十四町二千餘尺を上がるもの、我が行全程中の最難所たり。… 両側共に削剝崩壊せる山體の雄偉なる風景はむしろ悽滄の感あり。此の崩壊は遠く木瓜溪對岸の大崩壊と相連なりて偉觀極まりなし。」登りつめ振り返れば、その大岩壁の壮絶さは彼をして、「往年日本アルプスに槍、穂高の風蝕と、焼岳の火山作用によるその雄偉なるに驚きたりしも、今此の大觀に接しては、到底兒戲の感なき能わず。高山國の臺灣、炎熱多雨の此の高山にして始めてその雄大を誇り得べし。」といわせている。

奇萊山莊
我々は、台電の奇萊路を進む。沢をコンクリ橋で横切り、天長溪の上流方向に進んでいく。このセクションもがけ崩れが起きている。11時5分、台電の工事で殉死した社員などをねぎらうための萬善堂の前を通過し、数分で奇萊山莊に着く。ここで一時間近い昼食休憩をとる。今は、殆ど使われていない。


天長溪に掛かる鉄橋

滝のように水が落ちる
12時10分過ぎ、天長隧道までの最後のセクションを歩きはじめる。残りは5Kmほどだ。道はほぼ平らに、天長溪の上流に向かって進み、その奥でトンネルを抜け、橋で沢を越える。橋は鋼鉄トラスの立派なものだが、その役目はすでに終わっている。天長溪の左岸を進む。少し行くと、崖が崩れ樹木で作った簡単な桟道を渡る。その先、上から滝のように水が流れ落ちる場所にくる。その少し先は、落石を防ぐトンネルになっている。出迎えのシャトルサービスの車との約束時間まで余裕があるので、そこで休憩をとり、水遊びをする。

天長隧道に向けて最後のセクションを歩く
天長隧道西入口
山が崩壊し、トンネルも流された
20分ほど過ごし、残り3Kmほどを進む。途中には、崖崩れもあるがほぼ平らな道が続く。沢の対岸に先ほど昼食休憩をとった奇萊山莊が見える。山襞を回り込み奇萊路10Kサインを見て間もなく、天長隧道の西側入口に来る。全員がそろうのを待ち、トンネルに入る。トンネルは1㎞近くある。照明はないので、ヘッドランプを点ける。歩きはじめて十数メートルでトンネルは途切れる。本来はずっと続いていたが、崖崩れでトンネル自身も流され一部が露出してしまったのだ。自然の力はすごいものだ。途切れた部分を進むと、トンネルの天井や壁のコンクリが、谷の下のほうに流されて無残に転がっている。またトンネルに入る。10数分暗い中をひたすら進む。小さな白点が次第に大きくなり、14時10分トンネル東出口にでる。約束していた二台の車が待っている。雨が降り出した。

トンネル東口で車に乗車

滝の上にはかつて集落と駐在所があった
全員がトンネルから出て車に分乗する。銅門に向けて下り始める。路面は凸凹でかなり揺れるものの、崖崩れや路盤の流失はなく、四駆であれば通行できる。銅門までのセクションは、原住民だけの地区に指定されているので、台北から往復を担当する車は入ってこれない。素掘りのトンネルなど、台湾電力が開いた道だ。日本時代の能高越警備道は、その下にあった。右の深い谷を挟んで、対岸に磐石保線所が見える。しかしなかなかたどり着かない。雲がかかってきているが、谷は深くその岩壁は壮絶に落ち込む。山脈東側は、西側にくらべ実に雄偉だ。30分ほど山腹をほぼ平らに進み、磐石保線所につく。ここから道はつづら折れで、大きく高度を下げる。運転手は筆者が日本人と知って、途中で車を停め、滝の上の平らな場所にはかつて集落と(おそらく桐里)駐在所があったと、教えてくれる。15時17分、発電所のある龍澗に着き、小休憩をとる。

瀧澗發電所前で小休憩
沢底の道を行く、前方に日本時代の銅門発電所(廃屋)
大雨の中、乗り換えて台北に出発
10分ほどの休憩後、銅門にむけて進む。ここからは台14線である。道は、幅が狭まった木瓜溪の右岸を縫っていく。落石防止のトンネルが多く現れる。ここは、太魯閣ほどではないが、慕谷慕魚と呼ばれる水が切りだした大理石の渓谷である。そのうち道は沢底に降り、沢際をしばらく大揺れに揺れて進む。前方に日本時代に造られ今は廃屋となっている銅門發電所がある。沢沿いからまた上の道に上がり、間もなく吊橋のかかる銅門に着く。ここには、台湾電力によるアイスキャンディーを売っている。ここで立ち止まり、みんなアイスキャンディーに噛り付く。さらに少し進み、台北への車が待っている休憩所に、16時10分過ぎ到着する。休憩所では、スイカが待っていた。着替えなどをすまし、降り出した大雨の中、17時に帰途に就く。花蓮の街を向け、新城で夕食をとり、一路台北へ帰京した。

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多く見かけたミヤマナデシコ(玉山石竹)
実質二日の行程は、雨に降られず素晴らしい景観も楽しめ、また時間的にも余裕があったので、愉快な高山ハイキングができた。古道ができて100年がたち、脆弱な地質を行く部分は、途切れてしまったところもある。しかし、文中でも引用したように、古道を取り巻く山谷や自然は変わらない。登山者の気持ちや感動も変わらない。日本人の先輩たちが歩き、感じたことを、自分も身をもって体験できたことは、とてもうれしい。少し困難な場所や、交通の不便、また一泊も必要なこともあるが、日本の登山者にもぜひ歩いてもらいたいと願う。なお、佐藤春吉の文章は、昭和二 (1927)年に台湾山岳に投稿された「能高越」からの引用である。