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關刀山の稜線から遠望する馬海僕富士山(麻平暮山) |
学校の歴史学習で、日本の台湾統治とその50年間中1930年(昭和5年)に起きた
霧社事件にふれられているのを覚えているだろうか。また、それを題材にした台湾の映画、
セディック・バレを見たことがあるだろうか。台湾の山地に住む原住民セディック族が、日本の統治に対し蜂起して霧社の日本人を殺害、そしてセディック族は鎮圧され、日本人並びに原住民に多くの死者がでた事件である。
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北側の登山口から頂上を往復 |
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平らな部分の歩行が多い |
今はそうした血なまぐさい事件があったとは思えないほど、穏やかな台湾中央の南投縣霧社の近くにある、今回登山の馬海僕富士山(別名麻平暮山)は、その頂上が台形の形をしていることから、日本時代にはマヘボ富士山と呼ばれた(馬海僕はマヘボの音訳、麻平暮はマヘボの日本語読みで当てた漢字)。日本の統治があっただけに、台湾には数座のいわゆる富士山がある。
淡水富士(觀音山),
平溪富士(薯榔尖),
礁溪富士(鴻子山),
台湾富士(加里山),阿猴富士(井步山),貓公富士(八里灣山),
台東富士(都蘭山)そしてこの馬海僕富士である。その中で標高2617mを有し、一番高いのも馬海僕富士だ。マヘボは、この山のふもとにあった原住民セディック族の集落の名前で、霧社事件の首謀者モーナ・ルダオやその同胞たちの住居のあった場所だ。
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まだ暗いうちに地母廟を出発 |
昨年秋に中央山脈の安東軍山へ能高山縦走した時、行程後半稜線から常に左(西)側に見え、また最終日能高越嶺步道を下る際にも見えていたこの山は、日本人の筆者にとっては単なる登山の対象だけでなく、歴史的にも関係の深い山であり、いずれは訪れたいと思っていた。山仲間の一人が車を出してくれるので、またほかの仲間を募って今回の山行となった。台北からは日帰りは無理で、なおかつ朝早くから登る必要があるため、一泊二日の日程で前日
埔里關刀山に登り、今日の馬海僕富士山登山となった。
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廬山溫泉,左の旅館は休(廃)業 |
5時に起床、昨晩宿泊した地母廟を6時すぎに車で出発する。14号道路経由で霧社へ向かう。まだ周囲は暗いが、その昔は原住民と平地民の境であった人止關を通り過ぎる。谷間から上りつめ、6時40分霧社へ着く。警察分局で入山許可書を申請する。五日前までならネット上でも申請可能だ。最近は、入山許可を必要としない山も現れてきたが、ここままだ管理範囲となっている。申請に20数分かかった。
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上方の清境農場のはるか下に赤色の雲龍橋 |
更に14号線を廬山方向に進む。赤い鉄橋雲龍橋を過ぎる。今は立派な橋だが、その昔は蘇庫鐵線橋(吊橋)であった。霧社事件の時、日本軍の追撃を防ぐために原住民は吊橋を壊した。今は橋脚が残っているが、吊橋自体はない。霧社事件に関係ある場所の一つだ。廬山は以前ボアルン社と呼ばれた原住民集落だ。集落へ着く前に、右に折れ塔羅灣溪へ下る。下っていき7時半、廬山溫泉につく。2008年のシラク(辛樂克)台風の大水で大被害を受けた。河際のホテルビルが、濁流のために基礎を削り取られ、河の中に倒れたニュースビデオをまだ覚えている。立ち直れずに、廃業し廃墟のようになっている温泉旅館もまだある。以前の活気はないようだ。マヘボ社は、この温泉の少し上のほうにあったという。
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キャベツ畑の向こうに広がる山並み、左奥は白姑大山、最右は安達山(再生山)。左の道を登っていく |
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登山口 |
廬山溫泉の派出所で入山許可書を提出し、左の対岸に渡り登山口に向け坂を上っていく。道は舗装されているものの、勾配がきつく一車線の幅員なので、力のある車でないと大変だ。登るにつれ、周囲の展望が開けていく。8時5分、少し開けた場所で車を止める。道はその先まだ登山口へ続くが、轍が深く安全をとってここから歩くことにする。車を止めると、近くから農夫が現れキャベツ収穫の作業するので、少し下にある農家のところで泊めてくれという。車を移動し、8時25分に出発する。
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緩やかな枝尾根上の道を行く |
周囲はキャベツ畑なので、遮るものがなく、対岸には清境農場が、そしてその後方には雲をかぶった白姑大山の山並みが望める。車道をさらに登り、ヘアピンで曲がり、50mほど高度をあげて終点の登山口に着く。登山口の標高は1900m弱、山頂まで700mほどの標高差だ。黒い水管が三本ほど走る道を進む。森の中の道は、緩やかな上りだ。幅の広い緩やかな尾根から、尾根の左を巻く道になる。9時15分、がけ崩れの場所を過ぎる。樹木がないので、遠く能高山とそこから延びて安達山(再生山)へ続く尾根が見える。その尾根の左奥向こうは
合歡山だ。
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がけ崩れ部分を進む |
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対岸に能高山とそれから延びる尾根が見える |
山腹道はゆっくり高度を上げていく。9時26分、枝尾根の峠に着く。しばし休憩する。ここは十字路になっており、右は武令山、左は洞窟に続く。洞窟は霧社事件の時に、モーナ・ルダオたち原住民が兵器や食料を蓄え抗戦した場所の一つで、最終的にここで果てた。洞窟は馬海僕溪のわきにあり、ここから数百メートル尾根を下っていく必要がある。
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十字路鞍部 |
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テントが張れる広場 |
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沢を越える |
休憩後直進し、下り始める。下って少し、広くなっている場所ではテントが張れる。その先更に下り沢に降りる。ここで水を得れば、先ほどの場所での露営は問題ない。先ほどの十字路分岐の峠から約100mほどの落差だ。帰りには登り返さなければならないので、厄介だ。沢底から急坂で対岸を登り返す。その先また細い沢を越える。道はところどころ急坂で高度を上げる。シャクナゲの純正林を過ぎる。10時30分、少し開けた場所で休憩をとる。
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急坂を登る |
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遠くの谷間に萬大北溪が見える、背後は白石山の稜線 |
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藪漕ぎをして山腹道を行く |
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焚火あとのある鞍部 |
更に少し登り標高2300mぐらいになると、稜線の右側をトラバースしていく。茅の藪漕ぎが続く。足元は細い道だ。最近草が刈られたと見える場所もある。杉の人工林をすぎると、前方右下に萬大北溪が見える。11時11分、尾根の鞍部を越える。焚火のあとがある。少し下り、矢竹の間を進む。また稜線の右側山腹を行く。11時22分、カラマツ林の中に凱旋碑と記された石の場所を過ぎる。ある説明によれば、原住民が出草とよばれる首狩りをした後、脳などを取り出し首狩りの功労として石を埋め、首だけを部落にもって帰ったという。更に藪漕ぎをして山腹をトラバースしていくと、11時36分分岐に来る。頂上へ左右二つの道がある。急登の前に休憩する。
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凱旋牌 |
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トウヒの巨木わきを登る |
我々は左の道を行く。標高差はまだ300mほどある。右の道は緩やかだが長い。左は急な坂で高度を上げる。すぐにトウヒ(雲杉)の巨木が現れ、そのうちベニヒ(紅檜)の巨木も出てくる。場所からすると今は奧萬大森林公園になっている旧林場からそう遠いわけでもない。この急斜面は、伐採しても運び出すのが大変なので残されたのだろうか。樹木の下には矢竹が現れる。藪漕ぎをしながら急坂を登る。右からもう一つの道を合わせて進む。そのうち密集した矢竹の間の踏み跡がなくなる。GPSを確認すると三角点の場所は少し右に方だ。分岐まで戻り右の道をちょっと入ると、矢竹が切れ森の中に道が続く。少し行くと果たして頂上(標高2617m)が現れる。12時51分、登り始めて約4時間半であった。食事をとり休憩する。
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ベニヒの巨木と矢竹の道を登る |
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頂上三角点でのメンバー全員 |
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山頂の様子 |
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巨木わきを下る |
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杉の人工林を通り過ぎる |
台形上の平らな部分なので、頂上といっても平らな場所でなおかつ森の中、展望は全くない。三角点が頂上であることを示しているだけだ。13時27分、往路を下り始める。先ほど苦労した急坂は、下るときは早い。14時4分、左右の道の分岐を通過。そのまま山腹道を進む。14時18分、凱旋碑に来る。アカマツの落ち葉が敷きつめられたこの場所で小休憩をとる。10分ほどの休憩後、また山腹道を進む。小さな上り下りが続く、トラバースは距離を稼がなければならず、厄介だ。14時38分、焚火跡の鞍部を通過。更に山腹道を行く。そのうち道は下りが始まり、稜線の右側を下っていく。15時31分、小沢のわきで小休憩をとる。
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下りものこりわずかになってきた |
休憩後高度差約100mの登りが始まる。下山の時の登りは、かったるい。15時58分、十字路鞍部を通過、また下りが始まる。がけ崩れの部分を過ぎると、幅広い枝尾根上の緩やかな坂が続く。16時35分、登山口まで戻ってきた。朝に比べると雲が出てきたが、天気はまだよい。開けた視野のなか、傾いてきた陽光に守城大山の大きな姿が浮かびだす。次にはこの山に登ろうか。コンクリ舗装の道を、車の停めてある農家まで下る。黒犬が吠えている。16時50分、車の場所までやってきた。17時過ぎ、車で帰路についた。
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駐車している場所へ下る、遠く雲の下に合歡山、最右は安達山、中央は尾上山 |
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斜陽光線に浮かぶ守城大山 |
水平歩行距離約13㎞、累計の登りは1150m、約8時間半の行程だった。高度差は車でかなり高いところまでやってこれるので、2600mの山だがそれほどあるわけではない。ただ、山腹トラバースの距離が長く、思っていたよりは心理的に疲れる。特に難しい中級山ではないが、時間は必要だ。今を去ること80数年前、この地が血なまぐさい事件の舞台であったことが嘘のように思える、穏やかな日和の中の山行であった。唯一車を止めた農家のわきに満開の山桜が血のような赤であった。
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満開の山桜(カンヒザクラ) |
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