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2018-02-05

2018年2月3日 浸水營古道 巴塱衛山 歴史500年の古道を歩く

メンバー全員@浸水營古道東段の山道入口
台湾の歴史は、文字で記録されているものは、中華文化が入ってきたあとなので、数百年である。具体的には、中国大陸本土からの移民が始まった明朝以降だ。もちろん、それ以前にも台湾には住人が存在している。原住民と総称される、平埔族(比較的平地に住居していた部族の総称)と山岳地帯で生活していた山地の各原住民部族だ。台湾海峡を隔てた中国に比べれば、文化的に遅れていたが自分たちの生活圏を確保し、暮らしていた。

彼らにしてみれば、中国からの移民、オランダ、スペインなど、さらに清朝の統治、そして日本の統治は、穏やかな生活が脅かされた歴史でもある。今回歩いた、台湾南部を東西に横断する浸水營古道は、原住民が東西に交易をするために開かれた道が、その後台湾にやってきた外来為政者によって利用され、500年にわたって歩かれた道でもある。台湾を東西に横断する古道の中では、最も古いものの一つになる。台湾は、3000m超の山脈が台湾を南北に走っている。したがって、台湾の東西を結ぶ道は、この難関を越えなければならない。浸水營古道は、中央山脈がだいぶ高度を下げ、1500mレベルになったところを超えていく。距離も台湾島の幅が狭まり、50㎞ぐらいである。そうした自然の条件も、この道が早くから開かれ利用された理由だろう。

台湾南部に位置する浸水營古道
17世紀世界に進出していったオランダは、その東インド会社が勢力を拡大し、インドネシアを根拠に東に進み、1626年から40年弱、鄭成功に負けるまで台南を根拠に台湾南部を統治する。台湾東部花蓮の立霧溪(タッキリ渓)には、金が産出する。それを求めてオランダの台湾植民政府は、台湾東部に進出していく。その中で、浸水營古道が利用された。

中国からの移民は清朝になり本格的になる。ただし、清朝にしてみれば地の果てのような孤島であり、明朝の残党鄭成功が最後に砦とした場所でもある。移民の渡航を制限し、家族を連れての移民はご法度である。しかし、中国本土では夢のない若者は、危険を冒し台湾に渡った。海峡の向こう側福建省からの移民がはじめに到来し、その後客家人もやってくる。その当時は、山には屈強な蕃人が住み、首狩りも行われる。開拓民とすれば、山は危ない場所である。山の向こう、当時は後山と呼ばれた台湾東部は、漢人移民には遠い存在であった。
浸水營古道のわきに咲く白い根接蘭
日本は、明治維新後間もない1874年、沖縄本島王朝への朝貢を終えた宮古島の船が難破し台湾に流された。乗客は無事海岸についたが、言葉や風習の違いもあり、牡丹社の原住民に殺害される。これを理由に日本は出兵し台湾へ上陸、清朝の軍隊と交戦し勝利する。いわゆる牡丹社事件である。勝った日本は、清朝からの補償金を受け、それは沖縄が日本に帰属することを認めたことになる。清朝は、この事件を機に後山に対して積極的な関与を試み、台湾の東西を結ぶ官道が開かれる。集集水尾道路(關門古道)や八通關古道(日本統治時代の道とは異なるルートを行く)など、中央山脈の高い部分を超えていく道も築かれた。浸水營古道も、途中に兵隊の駐在する砦を設けるなど強化された。

1895年、日清戦争の結果台湾を得た日本政府は、浸水營古道を改修し、清朝時代の砦の場所に駐在所を設け、原住民の管理を強化する。駐在所は、初期には原住民排灣族力里社などに襲われ、警察官家族も含めて殺害される事件も起きている。しかし、理蕃政策の推進していく中で、原住民の平地近くへの移民なども行われ、管理が強化された。その後、1933年に浸水營古道よりさらに南で山越えをする楓港台東自動車道(現在の南迴公路の前身)が開かれ、浸水營古道はその役目が少なくなる。戦後は、日本時代後期に太平洋戦争のため大漢山に設立された基地を、国民政府はレーダー基地にし一般人の進入を禁止したため、古道はさらに忘れされた存在になった。

浸水營古道の峠東側入口にある案内板
1980年代半ばに台湾の戒厳令が終了し、民主化が進む中でそれまで国民党政府の下で中国本土が強調されていた歴史教育に対し、台湾土着の歴史見直しが行われていく。台湾人自身のアイデンティ模索の始まりである。古道の探索とその整備や歴史の掘り起こしは、その活動の一つでもある。90年代に楊南郡などによって探索が行われ、その後林務局によって整備され、国家歩道として東部分の15.4Kmが開放された。

浸水營古道は、清朝以前には三修崙卑南道という名前で呼ばれた。浸水營は、その名が示すように水気がとても多い場所を超えていく。年間降雨量が平均5200㎜を超える。日本の年間降水量が多い屋久島でも約4500㎜だから、その量が想像できるだろう。冬は割と乾燥するが、今回は雨は降らなかったものの、標高1000mぐらい以上は霧の中であった。道もぬかるみがある。長い歴史の中、原住民、中国本土からの漢人、オランダ人、日本人と様々な人に歩かれ、交易、移民、軍事など様々な目的に利用された。そうした歴史をかみしめての古道歩きであった。

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浸水營古道西側、 2.5㎞の登り道
2月2日午後13時に台北を雇った登山用車両で出発する。今回は車一台の8名だ。浸水營古道の西側入口であった水底寮近くの民宿で一泊、翌日は浸水營古道を歩いて東側入口大武(旧名巴塱衛)で一泊、そして台東の都蘭山を登り台北に帰る予定だ。高速道路を一路南に進む。途中二回休憩をとり、17時半前に第三号高速道路を降りる。途中混雑もなくスムースだ。先に歸崇駐在所で入山許可書を提出する。その後、水底寮の小料理屋で食事をとり、民宿に向かう。明朝早いので、早々と就寝する。

浸水營古道東側 15.4Kmの下り道
ほとんど下りのルート
崁頭の登り口
2月3日は、6時に起床、朝食後7時に出発し、崁頭へ向かう。浸水營古道は上記に記したように、峠の西側は太平洋戦争のころ自動車が通れるように道幅が広げられ、さらに国民政府の時代に大漢林道として舗装路になっている。しかし、自動車を通すために一部は新たに開かれたので、その区間は以前のまま残されたが放置されていた。それが現地住民の働きで整備され、崁頭から林道までの2.5kmの古道が復活した。今日は、まずこの西側2.5㎞の登り部分を歩く。浸水營古道ハイキングは一般的には、水底寮からそのまま大漢林道を峠近くの歩道入口までいくが、我々はできるだけ過去の本来の歩道を歩く目的で、このセクションを訪れる。

古道から崁頭方向を見る
桟道も設けられた良い道
古道入口までの車道で、ゼッケンをつけたトレイルランナーを何人も見かける。今日は、浸水營古道越えのトレイルランニング競技がおこなれているようだ。彼らは西側の林道も含め50数キロを走る。7時30分前に登山口に到着、支度をして出発する。幅の広い古道は、ゆっくり登り始める。標高70mぐらいでまだ低いこともあるが、道は乾いており、歩きやすい。そのうち石段が現れ、道は山腹をつづら折れで高度を上げていく。樹木が切れたところで下方を見るが、霧がかかっている。登って20分ほど、木製桟道がある。古道が整備されたときに設けられたものだろう。

つづら折れの道を行く
1.9Kの涼亭で休憩
途中で衣服の調整をし、8時7分右手に涼亭を見る。道はしばらく幅のある尾根を登っていく。古タイヤを使用した階段を2,3か所登る。8時15分、1.5kmキロポストを過ぎる。またつづれ折れを登り、8時29分1.9Kmキロポストがわきにある涼亭が現れる。ここで休憩をとる。10分ほどの休憩後、さらに登り8時51分、石積の壁が現れ登りが終了する。草の間の道をちょっと進み、8時54分舗装された林道に出る。古道の西側歩きはこれで終わりだ。2.5kmで約450mの高度を登った。

2.5㎞の登りを終えて車に乗り、峠東側の入り口に向かう
車上から霧が晴れてきた林道南側の山々を望む
旧力里社への入口、トレイルランナーが大勢いる
また、車に乗り林道を進む。トレイルランナーを越していく。先ほど古道では見かけなかったので、彼らは古道でなく林道を走ってきたようだ。9時18分、力里社の集落を過ぎるが、人はもう住んでいないようだ。霧がはれて、南側の山々が見える。その先で、大きな原住民像が立っている旧力里社への入り口を通り過ぎる。力里社は、この地域の主要原住民である排灣族の中でも、最も勢力を持っていた集落の一つだ。昔は、清朝のころから東西を結ぶ郵便運搬などを担当していた。

林道23.5Kの古道入口、多くの車が停まっている
林道は、山の北側を登っていく。谷を挟んで北側に、三角ピークが望める。北大武山から南に進む山脈の一部だろう。高度を上げていくと、また霧の中になる。10時5分、林道23.5Kmの浸水營古道の東側入口につく。入口前には、車が数台駐車してあり、またトレイルランの中継ポイントが設けられ、警官や係員が数名いる。このトレイルランはけっこう規模のある催し物のようだ。

1Kキロポストわきを行く、ここはまだ林道の一部で道幅が広い
林道から山道に入る
10時10分、出発する。はじめは、林道の一部のようで道幅も広い。先ほど西側に比べれは古道の名前のように湿気が多く、ぬかるみもある。気温は低く、ウィンドブレーカーは着たまま歩く。霧が濃く、道脇からの展望がない。天気が良ければ北大武山も見えるそうだが、ちょっと残念だ。しかし、晴れることの少ないこの場所は、霧のほうが常態だ。約20分ほど、ほぼ平らな道を進んでくる。10時35分、左に山道が分岐する。ここからが本来の浸水營古道である。

霧の中の州廳界
道脇には多くのシダが生えている
説明板は、古道の簡単な紹介をしている。全長47㎞のうち、これから歩く部分は15.4kmで標高1400数十mから50数十mまでのほぼ下り中心の道になる。山道といっても、過去から歩かれているしっかりした道だ。山襞にそって進む。11時2分、説明板のある州廳界遺址につく。日本時代の西側高雄州と東側台東廳との境界で、総督が地方視察で訪れた時は、ここで各州廳の長が出迎えた場所である。シダ類を含め豊富な植生についての説明もある。

姑仔崙山への分岐、ここで大きく右に曲がり枝尾根にそって下る
トレールランナーが追い越していく
道はさらに東に進む。すこし下りはじめ、11時8分に姑仔崙山への分岐を過ぎると、大きく方向を南に換え、枝尾根にそって進んでいく。勾配もすこしきつくなる。先ほど車で追い越していったトレイルランナーは、我々を追い越して下っていく。道脇には白の根結蘭の花が目立つ。11時31分、浸水營遺址に来る。道の右少し上の台状の広場に、以前駐在所があった。1882年清朝時に、兵士30名の規模でここに砦がつくられ、その後日本時代1901年には駐在所が設けられた。1914年には、日本人駐在警察官とその家族などが原住民に殺害首狩りされた浸水營事件(南蕃騷亂事件)が起きている。理蕃政策のもと、原住民の銃を没収したことが、事件の始まりだ。一世紀を経て、今は石積の壁が少しあるだけだ。

浸水營遺址とその前の説明板
駐在所跡の台地
人工杉林を行く
道は、さらに下っていく。後ろからやってくるランナーの一人に、知り合いのCさんがいた。この場所で会うとは奇遇だ。11時48分、4kmのキロポストを過ぎる。周囲は、杉の人工林だ。12時8分、かけ崩れ部分を高まき、6kmキロポストをすぎて間もなく12時半に涼亭につく。大勢のハイカーが休憩をしている。ここは古里巴堡諾駐在所があった場所だ。持ってきたストーブでお湯を沸かし、昼食をとる。

5Kキロポスト付近で登ってきたハイカーとすれ違う
昼食休憩の涼亭
サルスベリが道脇に生える
13時5分、出発する。まだ先は長い。坂は緩やかになり、山襞にそってすすむ。サルスベリの大きな木がたくさん道脇にある。高度が下がってきたので、霧もはれてきた。13時36分、7.5Kキロポストを過ぎる。これでほぼ半分を歩いた。14時9Kを過ぎて間もなく、涼亭が現れる。新出水坡駐在所の跡地である。左に登っていく踏み跡があり、これを二、三分ほど登ると出水坡神社遺址である石積がある。今は全く神社であることがわからないが、石の台座の上には小さな社があったのだろう。涼亭でしばし休憩する。

新出水坡駐在所跡地に立つ涼亭、遺跡は後ろの森の中
出水坡神社の跡
旧出水坡駐在所跡

道わきのアルマジロの穴
清朝時代の1882年に、ここの場所の少し東側の平らな場所に砦がつくられ、1919年には日本の駐在所がその跡地に設けられた。そして1926年に涼亭近くの場所に移設された。かなりの広さがあり、石積の壁で台地が形成されている。十数分の休憩後、また下り始める。石積壁にそって進んでいくと、左側にまた石積がある。こちらが旧出水坡駐在所があった場所だ。少し登り返し、稜線の左側を行く。そしてまた稜線の右側に出る。先にみた説明板のアルマジロ(穿山甲)の穴が道端にいくつかある。

出水坡山への分岐
出水坡山の三角点(古いほう)
14時52分、11Kキロポストわきに出水坡山頂上への入口がある。こちらへ少し進むと、三角点のある頂上(標高655m)だ。頂上といっても、ほぼ平らな台地で周囲がすべて樹木、三角点だけが頂上であることの証である。古い基石のすぐ近くに新しい三角点がある。古道に戻り、下り始める。15時19分、12Kキロポストを過ぎると、坂は急になってくる。ここからまた大きく下りが始まる。岩壁に道を掘った場所も二、三か所過ぎていく。15時29分、標高550mぐらいのところで、炭焼窯跡を道の左下に見る。これは1960年代につくられたものだそうだ。

岩のわきの道を行く
下に炭焼き窯の跡が見える
姑仔崙駐在所跡
13Kをすぎて間もなく、つづら折れの坂が現れ下っていく。16時、急坂が終わると新姑仔崙駐在所跡を過ぎる。樹木が密生し、説明板がなければここにそうした建物があったことは、気づかない。新となっているのは、1923年に旧姑仔崙駐在所からこの位置に移動し、それに伴い姑仔崙社部落も駐在所の下に移動してきたといことだ。標高は345m、あと300mぐらいの高度差だ。




また、道は大きく下り稜線の裾野を大きく回り込んでいく。下方に広い河原の姑仔崙溪が見える。木製橋を過ぎ、その先樹木のきれたところからは、大武溪とそれにかかる姑仔崙吊橋が下方に見える。ヘアピンカーブで大きく曲がり、鉄製車止めを過ぎる。左側に大きな水槽跡のようなものがある。おそらく以前ここで米国からの技術者を招いて林相変更工事を行ったときにつくった宿舎群の中のプールだろう。この辺りは、もともと1884年に造られた溪底營の砦で、1916年には溪底駐在所が設けられた場所だ。今は苗圃と呼ばれている。
大武溪と吊橋が見える、橋のわきが終点で河原を車で行く
大正15年3月竣工とある旧吊橋の欄干柱
16時45分、旧姑仔崙吊橋跡を過ぎる。今は大正十五年三月竣工と記された橋の門柱と吊橋の桁が残るだけで、吊橋本体はない。そのすぐ下のほうに、今は新しい吊橋がかかっている。先ほど上方から見えた橋で、古道の整備に合わせ2006年に新しく架けられたものだ。吊橋を過ぎると、古道の終点だ。本来の古道は、さらに加羅坂の集落までが本来の道だが、広い河原を車でやってくることができるので、一般にはここで古道歩きは終わりだ。我々の車が待っていた。

吊橋上から大武溪を望む
登山口で車が待っている
車で登れる巴塱衛山頂上、真ん中に三角点
17時、これから今日の最後の目的地巴塱衛山へ向かう。日没までもう僅かなので、先を急ぐ。車に乗り込み河原を走っていく。ところどころ水流を渡る。10分ほどで河原を離れ、すぐに舗装された車道に出る。一度海岸沿いに出て、山を登り始める。17時30分巴塱衛山頂上(標高324m)に到着する。ここは全く歩く必要なく、車で頂上に来れる。三角点のわきの海側には展望台が設けられている。そこからは、広い太平洋の海原が眼下に広がる。小百岳に選ばれたのもうなづける。17時45分、暗くなり始めた山頂を後にし、今日の宿泊地大武へ向かった。

山頂展望台から大武方向の海を臨む
山頂の山名石碑
今日は、浸水營古道の西側登り2.5㎞と東側の下り15.4Km、合計約18kmの歩きである。時間は西側1時間半、東側6時間半で都合8時間であった。道はよく整備されており、距離はあるものの下りがメインで体力的にはそれほどきつくない。全区間歩くのに少なくても八日間も要する八通關古道などと違い、誰にでも歩ける道だ。事前にその長い歴史について予備知識があれば、さらに興味深く歩くことができる。中国語だが、徐如林/楊南郡共著の『浸水營古道:一條走過五百年的路』がとても充実した内容でおすすめである。

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