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2017-03-20

2017年3月17日~19日 太魯閣海鼠(ナマコ)山 日本時代の記憶が残る秘境

早朝の野営地付近から望む中央山脈方向の山々
読者は、台湾がかつて日本の領土であったことはご存じだろう。日清戦争の戦勝国として1895年に台湾が割譲され、1945年の第二次世界大戦で敗戦し台湾を放棄するまでの半世紀の歴史だ。この50年間に、日本は植民地として統治し殖産の活動をした。そうした活動の記録や遺跡が台湾各地に残っている。平地に残る建物や遺跡は、簡単に見ることができる。一方、深山に残された遺跡は、人が去り道が壊れてしまうと、訪れ見ることすら簡単ではない。
赤:第一日、緑:第二日、青:第三日の軌跡
三日間の歩行高度プロファイル
日本の台湾統治は、初期の10年で平地漢人の抗日運動がおさまり、その後殖産活動をするなかで、地図測量やさらに産業の展開で山地に入っていくと、高砂族と総称された原住民部族の抵抗にあった。理蕃政策のもと、圧倒的な力の差で原住民の帰順が進んでいく。理蕃総督と呼ばれた佐久間佐馬太(1844~1915)は、原住民との抗争で一番熾烈であった太魯閣(タロコ)戰爭を自ら指揮し、多大な双方の犠牲の上に太魯閣族原住民は帰順し、太魯閣地帯は完全に総督府の管理下に入る。警備路が整理されると同時に、花蓮港廳のもとに新城支廳や內太魯閣支廳が設置され、海鼠山には步兵中隊が駐屯することになる。

海鼠山は太魯閣渓谷の緑水・合流の北側に位置する
海鼠山は、その名の通りナマコのような緩やかな山稜を切り立った谷間の上に有する。急峻な山々が続く中、唯一兵隊が駐屯できる場所でもある。この地を通じる海鼠山歩道が開かれ、多くの人が生活していた。原住民情勢が安定したあと、駐屯隊は廃止され海鼠山警察駐在所が設けられた。戦後は、中国からやってきた国民政府のもと、いわゆる栄民とよばれる中国出身の退役兵が高地農作物の農園への開拓をしたが、結局成功せずこの地は忘れられた。それから数十年、道はがけ崩れなどで途切れ、草や木々に覆われ、建物などは朽ち果てた。今は、残された石碑や墓石、人工の土留壁などだけが当時の様子をしのぶことができる手立てだ。

牧水山近くに残る100年前の忠魂碑
今は訪れる人が極めて少ない海鼠山は、動物たちの活躍の場だ。水鹿、山羊(日本のカモシカに近い)、ホエジカ、イノシシ、サル、ジャコウネコ、水牛などがここで暮らしている。水牛は、以前開拓者たちが去るときに残したものだが、それ以外は自然に生息している。これら動物のフンや足跡、そして水牛の死骸を見た。メンバー中には、自然環境の専門家が同行しているので、生態についていろいろ教えてもらった。

鹿がかじった幹
先月初めに、太魯閣族の達道さんを大同部落に訪ねた。今回はそれよりずっと太魯閣の奥に位置する立霧(タッキリ)溪と荖西(ラウシ)溪の合わさる合流地区の北側にある。この地を何度も訪れ遺跡などを見つけ、歴史地理に詳しい伍元和さんが催す、「海鼠山祭」に参加しての訪問である。3月16日晩に新城に入って民宿で一泊、その後17日には海鼠山の馬場近くにある露営地(開けた水場に近い場所)で露営、18日に近くを散策し、19日には松山稜と緑水文化歩道を経て下山した。我々のパーティーは16名、それ以外にも大学の山岳部などのパーティも18日に入ってきて、山の上では50人近い大集合となった。このような集まりは、筆者にとっては初めての経験だった。

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3月17日 第一日 太魯閣合流 - 合流弔靈碑 - 合流教育所遺址 - 牧水山 - 忠魂碑 - 馬場

綠水から登る
二か所の急坂を登る
バスと鉄道で新城に着く
前日の16日、台北から16時15分の噶瑪蘭バスで出発、羅東から台鉄の電車で新城へ19時過ぎに到着、10分ほど歩いて宿泊の樺城民宿に到着した。すでに参加者の多くが着いており、 合流してしばらく話をする。そのうち主催者の伍元和さんが戻り、配られた資料などで翌日からの行動や歴史の話を聞いた。

合流露営地
駐車場から歩き始める
今日は、参加者の車に分乗し7時過ぎに出発する。新城の街で昼食をもとめ、太魯閣に向かう。先月やってきた太魯閣ビジターセンターを右にみて、太魯閣渓谷を進む。このセクションは実は20年ぶりの訪問だ。以前自分で車を運転して通過した場所は、トンネルで通り過ぎるようになっている。深く彫り込まれた谷間の景観が、トンネルを通過するために見えなくなってしまったところも多い。8時少し前に合流に到着する。キャンプ場になっている場所は、その昔木材集積の土場である。

弔靈碑
天気は曇り、昨晩は雨が降ったようで地面がぬれている。見上げる山の上部は霧がかかっている。8時5分、出発する。先頭は花蓮東華大学の23歳学生T君だ。この地をすでに訪れており、道の様子はわかっている。車道を少し西側に進み、右に林道に入る。入口には緑水歩道の説明板がある。入口から約10分ほど幅の広い林道を登る。右に細い踏み跡がある。ここから牧水山への道が始まる。荷物を踏み跡入口におろして、緑水歩道を進む。ほんの数分で、弔靈碑が現れる。緑水歩道は、その昔南投霧社から中央山脈を越えてやってくる合歡古道の一部である。

合流蕃童教育所の門柱、建物は朽ちてすでにない
付近で拾った薬瓶
合流弔靈碑は、大正5年(1916)と大正11年に殉職した4名を、合歡峠越歩道の完成に合わせ昭和10年(1935)に建立された。自然にあった大石に文字が彫り込まれている。今回の山行で初めて見る、歴史の証人だ。やってきた道を引き返し、細い踏み跡に入る。数分進むと、森の中に平らな台地とその前に門柱が残っている。ここは過去原住民の子供を教育した、合流蕃童教育所だ。今は建物はすでにないが、駐在所の警察官が教官として日本語を含め教えていたところだ。近くには当時の薬瓶や陶器の破片が残っている。

石の間を登っていく
9時、牧水山に向けて登り始める。はじめは石積みの土留が現れる。この斜面には、昔人が暮らしていたようだ。そのうちに勾配が増し、石のごろごろした場所を通り過ぎる。道は踏み跡程度だ。20分ほどの登りで休憩する。更に登り9時35分、平らな古道が現れる。しかしその先道が崩れている。また踏み跡の道を進み、岩が露出した斜面を登る。岩場を回り込み、9時50分に展望のきく岩場の上部で休憩する。真下には、石で埋め尽くされた荖西溪の谷間が、これまた切り立った谷間の立霧溪と合流している。立霧溪には中横公路が沿って続いている。三角錐山が霧の中にそびえる。実に雄大な眺めだ。

露岩部分を登る
露岩最上部からの展望、左に荖西溪、右に立霧溪が望める
大日本麦酒の瓶
更に坂を登っていく。途中に人工の台地で休み、さらに登り11時50分、岩屋の前にできた台地でまた休憩をとる。ここは太魯閣族牧水社部落の一部だとのこと。大日本麦酒(現在のアサヒビールやサッポロビールの前身)のビール瓶が転がっている。日本時代の遺物だ。途中、山羊や鹿のフンが多く見られた。この辺りは人もめったに来ないので、動物たちが活発に活動している。今回のメンバーには動物や植物の専門家がいるので、いろいろなことを学べる。

休憩中のメンバー
牧水山山頂
最後の急坂を登り、12時に平らな稜線にでる。左におれて少し行くと、三角点のある牧水山(標高876m)だ。稜線を少し行き、左におれて少し下る。大岩に文字が刻まれた忠魂碑がある。大正3年(1914)に建立されたこの碑は、太魯閣戦争で戦死した兵士や病没した兵士の霊を慰めるためのものだ。忠魂碑の文字もすでにかすれ、その脇にある文字は苔が着いていることもあり、ほとんど判読不能だ。近くの石壁の下で昼食休憩をとる。

忠魂碑前のメンバー
なだらかな稜線を行く、手前は石積みの道のようだ
12時50分、なだらかな稜線上を進む。石が敷かれた古道のような場所を過ぎる。この付近は平らなので牧水部落があった。10数分進むと、勾配がきつくなってくる。森がきれて草原の中をかき分け登っていく。ざれて足元が悪い急坂も現れる。最後に補助ロープが取り付けられた、かなり急な坂を上り詰める。

草の中の急坂を登る
切り立った崖の脇を登る
緩やかで広い稜線上を進む
15時8分、松山稜に上る。この稜線の名前は、大正3年太魯閣戦争の時、討伐隊を率いた松山隆治警視の名前にちなんでいる。左すぐ下に天狗岩がある。崖に突き出た岩で、天狗の鼻に見立てた命名だ。登ってみるが、霧が濃くほとんど展望がなく残念だ。メンバー全員が急坂を登ってくるのを待ち、15時44分、勾配が緩く広い稜線を歩き始める。この部分が海鼠の背だ。

シダの茂るもとの馬場
駐屯地の後、右に石積の土留壁が続く
水牛の死骸
稜線にはイノシシのフンや活動したあともある。一面シダが広がる、広い草原を行く。昔の馬場だ。16時20分、シダの草原がきれて森の中に入る。石積み土留壁の脇を行く。以前の駐屯場所だ。数分進んで、左に下り露営場所へ向かう。開けた場所につく。ここも露営できるが、その先にまた別の露営場所がある。16時45分、下方の露営場所に着く。広場の端には、骨だけになった水牛の死骸がある。頭はまだ皮がのこっているので、死臭が鼻をつく。ここはまさに自然の営みが進行している。匂いを避けて、奥の方に設営する。合計六つのテントを立てる。自分はVさんと一緒にそのうちの一つに泊まる。露営場所の標高は約1300mだ。今日の歩行は4.6㎞、8時間半の行動時間である。

キャンプ地
夕飯はカレーライスだ
メンバー各々、分担して仕事をする。Jさんの考案で今晩は日本帝国軍隊のメニューの一つだったカレーライスである。19時に食事をはじめ、歌を歌ったり話をして22時過ぎまで過ごす。今日は、曇りで霧も濃い時もあったが、雨に降られず幸いだった。









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3月18日 第二日 馬場駐屯地跡周辺散策

露営地の周囲を散策
簡単な散策
朝の露営地
6時半過ぎに起床し、テントの外に出る。昨日とは打って変わって、天気が良く周囲の山々が見える。思わず口から驚きの声がでる。テントの向こうに深い谷を挟んで幾重もの山並みが並んでいる。一番遠いのは奇萊北峰と屏風山、その右には畢祿山から始まる北二段の山並み、無明山が大きく存在を示している。近くには富田山や饅頭山など、日本的な名前の山々がある。これら日本的な名前は、太魯閣戦争に関与した将校などの名前だ。第五代総督佐久間佐馬太も、佐久間峠(戦後は武陵と改名)や佐久間山などその名を残している。

遠くに中央山脈の山々が見える、手前の低い山は饅頭山
今日は、近くの遺跡を散策するだけなので、とてもゆっくりだ。伍さんは牛の死骸から蹄をとり、洗って記念品にしている。8時40分過ぎ、朝食ができみんなで食する。今朝は(台湾式)味噌ラーメンである。

台湾式味噌ラーメン

日本兵の墓石
10時過ぎにほぼ空身で出発する。太陽の日差しは結構強い。昨日降りてきた道を少し登っていく。山腹に大正三年の日付の日本兵の墓がふたつある。実に100年を過ぎている。伍さんによれば、バラバラになっていたものをここに集めたとのこと。大徳真彦一等歩兵(病没)とクバヤンで戦死した奥村曾太郎二等兵士の墓石が並んでる。墓石の前には焼香用の石台もある。もともと墓石はこれだけでなかったようだが、中国で日本軍と戦ってここに入植した、中国本土からの退役兵に壊されたり捨てられたり(あるいは別の目的で使用されたり)したようで、伍さんはこれだけが見つかったという。実は、退役兵に壊されたり文字を削られたりした遺跡は、残念ながら台湾にはたくさんある。

水槽が残っている
更に坂を登り、昨日通り過ぎた、段々になっている広い駐屯地に行く。水槽など生活をしのばせる遺跡がある。これらは、レンガに残された文字からすると戦後の入植者によるもののようだ。一段上の広場にあがる。ここには昔テニスコートがあったという。確かに広い平らな台場が続く。今は樹木が生えているので、もうひとつその広さが実感できない。台北近くの廃棄された棚田には、樹木が茂りその様子が見ただけではすぐに実感できないのと同じだ。自然の力は人間の営みなど、すぐもとに戻してしまう。東華大学のYさんによると、広場の隅にある欅はその大きさや林相を見ると、当時植えられたものだろうという。日本時代のサクラビールの瓶が転がっている。筆者も初めてみるものだ。

テニスコートのあった場所
矢竹をくぐって道路建設紀念碑に向かう
稜線を越えて反対側にある、荖西溪から海鼠山へ造られた警備道道路建設紀念碑へ向かう。密生した矢竹をかき分け進む。今は台座だけが残っている。上の部分は壊れてない。台座にはめ込まれた花崗岩には、台湾軍経理部の建設責任者の佐藤忠一二等主計正と浅井新一技師の名が彫られている。台座の周囲にも水鹿のフンがたくさんある。

道路建設紀念碑
右中央に三角錐山、左に海鼠山最高点と鍛錬山が見える
稜線を上に登っていく。海鼠山の頂上は上部の尾根上にある。そこに向かって登る。右下の深い谷を挟んで三角錐山がそびえる。前方右には、海鼠山の最高点(標高1600m)、さらにその右には尖った鍛錬山がある。道(といっても踏み跡もはっきりしないが)の真ん中に草が積み上げられている。すでに使われていないが、イノシシの巣だそうだ。森から抜けて展望が開ける。対岸の山々は頂上に霧がかかり始めている。足元には我々の露営地の黄色や青のテントが見える。左の平らな部分は、馬場だ。駐屯地があったときに撮られた写真と同じ場所から見ている。当時の更地広場は、今は一面シダに覆われている。

稜線上から立霧渓側の山々の望む、下方左に馬場、その右下方に露営地
沢を渡り露営地に戻る
露営地に向かって下り始める。途中の大石に上がり、景色をみながら休憩する。時刻は12時前、日差しが結構強い。普段の山登りだと、行程を気にしてこのようなゆっくりした時間はなかなかない。12時20分、下り始める。道があるわけではないので、方向を見定めて下っていく。もとは開墾地であったということで、今はシダが生えているだけで樹木がなく、見通せる。さらに下り林に入り、沢を越えて対岸に渡り、12時35分露営地に戻る。合計2㎞強の散歩だった。

ジャコウネコの足跡








午後はゆっくり過ごす。腹がへってきた15時頃に昼食となる。そのあとは、テントに戻って昼寝をする。そのうち、晩の宴会のために酒を担いできた政治大学のメンバーや、そのあとには台湾大学山岳部なども到着する。日が暮れた18時過ぎに食事をとり、19時半過ぎから宴会が始まる。筆者は幹事役のJさんが準備した音楽に合わせ、日露戦争時の軍歌「道は六百八十里」を歌う。第二次世界大戦時の軍歌に比べると、悲壮感が感じられない明るい軍歌だ。単調なメロディーだが、何度か歌っているうちに頭から離れなくなる。話によると宴は深夜まで続いたそうだが、筆者は22時過ぎにテントに戻った。

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3月19日 第三日 馬場露営地 - 天狗岩 - 松山稜 - 緑水文化歩道 - 緑水

松山稜を経て下山
下りは緩やかな稜線を下る
先に駐屯地跡へ登り返す
7時過ぎに起床する。今日も天気は良い。8時過ぎに朝食をとる。撤収し9時40分に下山を始める。先に駐屯地跡に向かい、昨日やってきたパティーメンバーが道路建設碑などを見て回るのを待つ。その間に誰かが、キリンビールの空き瓶を探してきた。瓶にある文字は右から左に書かれており、今のキリンビールではなく昔のものであることがわかる。

シダ一面の馬場から昨日の大石方向を望む



10時20分、一昨日の往路を下る。シダの茂る馬場を通り過ぎる。霧が出てきた。10時42分、思ったよりもあっけなく一昨日に登ってきた急坂の分岐が現れ、天狗岩につく。ここでしばし休憩する。今日も残念ながら霧で、対岸の山々は見えない。ただ、谷底はまだ霧がなく、駐車場などが真下に見える。

天狗岩から谷間をのぞく
道なき道を下る
ここからは、往路とは異なり松山稜を下っていく。こちらは、全体になだらかな下りだ。稜線上には道があるわけではなく、マーカーリボンなどもない。方向を見定めて下る。森の中が主で、道がなくても歩くには問題ない。一度方向を誤ったが、また稜線上にもどり11時48分、休憩する。30分ほど食事をしながら休み、さらに下る。12時40分、石が積み上げられた台地に来る。ここには、小屋があったようだ。

ガジュマロの大木脇を行く








岩のにしがみつくガジュマロの大樹を過ぎ、急坂がしばらく続く。13時過ぎ、集落跡のような場所につく。日本時代の理蕃政策などに詳しい国立中興大学の鄭安晞先生によれば、ここは隘勇線の駐在所だろうという。太魯閣地区の隘勇線は、尾根を越えて原住民地域を囲い込むのではなく、幹線歩道から主要な枝尾根上に伸びていたということだ。そうすることによって、部落間の往来がコントロールできるからだ。

隘勇遺址、石の間には丸太をくり抜いた水槽があったそうだ
緑水文山歩道を行く
少し下り、登り返すと緑水文山歩道が現れる。この歩道は、もともと南投から中央山脈を越えて花蓮まで続く合歡越嶺步道の一部で、それを太魯閣国家公園が整備し遊歩道としているものだ。幅広の歩道は、いままでのほとんど踏み跡のない歩きに比べれば、高速道路を行くようなものだ。緑水まで約2㎞の地点だ。警備道として開かれたこの道は、火器などを輸送する必要もあったので、できるだけ平たく作られている。山腹を進んで少し登ると、尾根上に上がる。左にには谷を挟んで松山稜とその右には一昨日歩いた枝尾根が望める。

一昨日のぼった牧水山と左に松山稜と天狗岩あたりの高点が見える
ドヨン部落の遺跡
13時48分、ドヨン(陀優恩)部落跡にやってくる。幅の広い尾根上に集落があった。日本時代の台北第一中学(今の建国高校の前身)の学生が中央尖山を登った際に、この部落の原住民に歓待してもらったそうだ。今は、建物の基礎や石積土留壁が残るだけだ。戦後の林業作業所としても使われたようで、コンクリで補強された土台も残っている。

ドヨン部落付近は平らで広い尾根が続く
急坂を緑水へ下る
出発し数分歩くと、広く平らな尾根は終わり、急坂が始まる。木階段や手すりが取り付けられている。鎖場を過ぎ、壁に石が積み上げられている大きなくぼみの脇を過ぎると道は緩やかになる。この付近は昭和14年(1939年)に砂金の試掘が行われたそうだ。その昔17世紀にもスペイン人が立霧渓で砂金を採集していたが、その後原住民に殺害され幕を閉じたようだ。台湾総督府も本格採掘を考えたが、太平洋戦争が勃発し頓挫した。この史実の説明板の脇にも竪穴が残っている。

砂金採掘場近くの土留壁
最後にまた少し下り14時43分、緑水に到着する。ここから車が泊めてある合流までは少し距離があるが、これで歩きは終わりだ。距離4.6㎞、5時間の行動時間だ。緑水には地質館がある。見上げれば、天狗岩のある山稜が高い。

緑水地質館から天狗岩方向を見上げる
新城神社跡(現行カトリック教会)の鳥居
新城事件の殉職将兵石碑
15時40分、新城に向けて出発する。16時18分、新城の日本神社跡を見学する。今はカトリック教会になっているが、参道の鳥居は余計なものが取り付けられはいるものの、鳥居とはっきりわかる。日本時代には台湾各地に神社があったが、戦後には取り壊されたものが少なくない。社があった場所には、今はマリア像が建っている。参道の花畑に新城事件で殉職した将兵のための紀念石碑がひっそり残っている。

新城には古い木造建築も結構残っている。神社見学後、近くの横綱日本レストランで食事をし、台北に帰るメンバーの車に便乗して帰京した。約3時間の乗車であった。



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伍さんと筆者@緑水
今回の山旅は、山頂を極めるものではない。日本統治時代の歴史を探る、そして同時に自然にもどった後の山野を体験するものだ。多くの山仲間と出会い、面識ができた。歴史研究者、自然環境研究者など、専門分野の人たちから多くのことを学んだ。日本がこの地を50年間統治したことの史実を、自分の目で確かめることができたのは、ほんとによかった。事前の天気予報では、雨も想定されたが、結局雨が降らないどころか、晴れ間がのぞき、実にラッキーでもあった。今回は、様々な人のサポートのもとに参加させてもらったことに、感謝を申し上げます。