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2015-11-30

2015年11月27~29日 北大武山 台灣最南端3000m峰(百岳)を登る

 3.8km展望点(標高約2100m)から見る夕方の雲海
台湾に260余の超3000mのピークがある。同じ山塊の異なるピーク、例えば玉山主峰に加え、東西南北のピークもカウントするので山としてはそれだけあるわけではないが、さしずめ九州の大きさに日本南北アルプスの最高峰群がひしめいているのは、確かである。その最南端に位置する超3000mの山、北大武山がある。この山は、日本統治時代に造られた神社や太平洋戦争でフィリピンなど南洋で志願兵として日本のために戦った、原住民高砂族義勇軍の記念碑がまだ残る、日本とのつながりが強い山である。山道が台湾政府の林野庁によって整備され、途中に檜谷山莊の露営宿泊場所がある。通常は二泊三日で登るが、今回我々は二泊二日で登頂した。

稜線から見る高屏平野
この北大武山は、実は玉山につづき筆者の二つ目の百岳(台湾の標高3000m以上で構成された百座の山)である。今まで4年半にわたり、200数十回台湾の山に登っているが、なぜそれまで玉山以外の百岳登山がなかったのか。それは、他人にとっては無意味かもしれないが、こだわりである。台湾の高山登山は、山岳旅行会社やその他民間登山団体が多くの山行を行っている。筆者は、こうした出来合いの山行に参加するのではなく、自分で計画し自分の力で登って初めて、自分の登山であるいう主旨である。山を調べ、地図を頼りに登る、これが玉山など初期の登山の除き、一貫してきたこだわりだ。高山登山は、交通手段などを含め、単独ではなかなか簡単ではない。いままで、自分の山登りグループを通じ一緒に山へ行く仲間ができ、高山山行へのベースが形作られ満を期してこの登山となった。今回の山行でまた学んだこともある、これからは数多くの台湾の高山を登っていく。

晴れていく稜線の霧
日本統治時代の台湾山岳会主要会員である、千々岩助太郎は昭和9年にこの山に登っている。今は、北大武山と呼ばれるこの山は、当時は単に大武山と呼ばれている。南大武山との稜線上に出て北上して頂上に行くが、今はすでに移転してない原住民部落下パイワン社(旧平和部落)から登っている。道なき道を稜線に出て30数分で頂上についているので、おそらく現在の道より北側で稜線に出ているようだ。頂上の一等三角点は昭和5年に設置、千々岩が訪れたころは櫓もたっていた。今回はガスのなか展望はなかったが、千々岩は、北に続く峰々を展望している。原住民の道案内で三日がかりの登頂である。

大武祠(神社)
日本の多くの山には、頂上に神社が造られている。山岳宗教とも関係するが、大武山はもともと原住民の祖先の霊が宿る霊山である。ここに日本政府は神社を建てた。本来は三角点のある山頂に建てようとしたそうだが、原住民の反対や工事の難航で頂上の南側のピークに建っている。ただ、実際のところ三角点ピークのほうは場所も狭く、実際に建てられたこちらのほうが、現実的である。さらに、神社のすぐ南には、義勇軍の記念碑があるが三角点ピークではそれを造る場所もない。富士山よりも高い山である玉山(新高山)などにも、もともとは神社があった。ところが、戦後これらの神社は取り除かれている。唯一大武山には、当時に神社の石祠がのこっている。また鳥居も結構最近まであったそうだが、こちらはすでに朽ちて落ちている。義勇軍碑文は、壊されたり埋められたりせず、碑文全文が残っている。3000mの山の上である。壊すのも大変だ。原住民の保護もあったのかもしれない。

二日間の歩行軌跡

二日間の歩行高度プロファイル

北大武山は台湾南部の第一高山
今回の山行は、前夜に台北を出発、ふもと泰武村の駐在所脇の教会にある屋根付き広場で夜明けを待ち、早朝登山口へ向かった。登山道は、もともと旧平和部落へ通じる道との鞍部からスタートしているが、2009年夏の莫拉克台風によりそこまでの道が大きく山崩れで無くなり、それより約3㎞下の新登山口からの登山になる。約5時間で、檜谷山莊へ登り、一泊する。翌日午前2時に出発、軽装で約4時間半の登頂後、檜谷山莊へもどり荷物を背負って下山した。一般的には、登頂後さらに一泊し、第三日目に下山するのが多いようだが、メンバーには時間的余裕が少なくちょっときついがこの日程で登った。

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第一日 11月28日(土曜日)

第一日歩行軌跡
第一日歩行高度
泰武の教会脇屋根下の専用車
昨晩、台北を9時に専用車で出発。途中で、メンバー一人を拾った後、一路台湾最南部屏東へ向かう。高速道路網はだいぶ整備されて、筆者が仕事で南部を訪れていたころよりはるかに便利で速く到着できる。2時少し前に泰武へ到着し仮眠した。
大武山之門
登り途中からみる高雄方面の眺め
前面の山の間から頭をだす北大武山
午前6時に起床、隣の派出所で入山証を提出する。大武山の入山許可は、甲種である。中級山に多い乙種とは違い、事前申請が必要だ。7時少し前に車で出発する。集落を出ると、道は登り始める。朝の高屏平野が眼下に広がる。20分ほどで、大きな大武山之門石碑に来る。この少し裏から、大武山の山並みが見える。前面の山並みの奥に北大武山の三角ピークが頭を出している。期待に胸が膨らむ。

新登山口

7時46分、道路わきに車が多く駐車している。どうやら登山口が近い。休日の今日は、登山者がとても多い。支度をして8時に出発する。自分のザックは約15㎏だ。今回は、夜と朝の食事、またテントは業者に任せたので、重量は少ない。登山経験がまだ浅いメンバーもいるし、二泊二日のちょっときつい予定なので、今回はこれでよかった。登山口からは、すぐ大崩落を避ける高巻き道が始まる。急坂をのぼること約20分、台風のため廃棄された産業道路に出る。コンクリ舗装の道を約15分ほど登っていく。そこからまた高巻き道が始まる。ここも急坂が続く。
廃棄産業道路部分を歩く
日湯真山への分岐部
旧登山口はもうすぐだ、電柱が残っている
8時56分、日湯直山への分岐を過ぎる。三日の日程であれば、下山時に登ってもよいだろう。ここからしばらく緩い下りがある。数分でまたコンクリの廃棄産業道路に出る。9時17分第二駐車場の表示を見る。今は草に覆われ、どこが駐車場なのかもわからない。人が歩くだけの幅を残し左右は草に覆われているが、電柱が立っているのでもとは車道であったことがわかる。9時半、旧登山口に到着する。高巻き道は1時間半の歩きだった。すでに多くの登山者が、休憩している。

旧登山口
尾根を越えて右側の山腹を進む
9時48分、キロポスト0㎞の登山口から出発する。入口の建物は、ここで以前入山受付をしていたようだが、今は駐在員はいない。目的地檜谷山莊へは4.2㎞、標高差約800mである。赤土の道は滑りやすい。0.3kmの里程柱を過ぎて、道は尾根の右側山腹を進む。しばらく下っていく。山崩れで樹木が流されている場所からは、瓦魯斯溪の深い谷と南大武山が望める。そのうち登りが始まる。鉄製の橋を二か所超える。二か所目は登山口から1.5㎞の地点だ。10時48分、1.75㎞にある第一休憩所につく。ここで休憩する。

山腹道から谷を眺める
鉄製橋と1㎞キロポスト
第一、第二休憩所の間の道
11時、出発する。道は休憩所で方向を変え、しばらく急な登りが続く。約2㎞のあたりで、左に西大武山への道が分岐する。こちらは、国家歩道ではなく登山者が自分で開いた道のようだ。また、山崩れのあとを横切っていく。11時25分、2.5㎞キロポストを過ぎ第二休憩所に来る。すでに十名ぐらいの登山者が、休憩し昼食を用意している。ここからは、急登が続くので我々もここで休憩し、すこし腹ごしらえをする。

がけ崩れ部分を歩く
2.5㎞キロポストと前方の第二休憩所
階段道をゆく
急坂を登る
11時40分、登り始める。岩屋が道わきにある。日本統治時代に巡査が登山をし、ここまで降りてきたが天候が悪く、命を落としたということだ。数分の登りで、木製階段を行く。この辺りは石楠花の森になっている。春であれば花がたくさん咲いていることだろう。軽装で降りてくる登山者と行違う。単日登頂かと尋ねると、檜谷山莊までの往復だそうだ。頂上まで行かなくても、上部の展望点があるので、南部の人たちはよく山荘まで登りに来るようだ。登りはさらに続く。岩の露出する道を登り切り、11時42分、3.8㎞の展望点につく。ここまで来れば、残りはわずかだ。空はすこし曇り気味、小雨も少しパラついている。前方の大武山の上部は雲の中だ。休憩する。

3.8㎞の展望点
虹がでた、背後は北に続く山並み
檜谷山莊、左側が調理場
そのうち、天気は持ち直し太陽も顔をだす。少しパラついたおかげで、谷に虹が掛かっている。12時、檜谷山莊への最後のセクションを歩き始める。少し下り、登り返すと約5分で左に檜谷山莊への道が分岐する。山腹を水平に行く道を進み、13時10分山荘の露営地につく。新登山口から約7キロ、標高差900mを休憩込みで約5時間で歩いた。

テント場



檜谷山莊はもともと林業の作業場として使われたものを改造し、宿泊できるようにしたものだ。42名の定員である。宿泊するには、事前に林野局に申請するが、週末はそれより多くの登山者が宿泊希望するので抽選で決まる。我々も事前申請したがダメだった。今回は、テントを持参し露営することを考えたが、メンバーが食事とテント貸し出しの業者を探し、そのアレンジで宿泊と食事の対応となった。我々は山荘すぐ下の6人用のテント二つで夜を過ごす。

山荘すぐ下の沢
3.8㎞へ戻る
荷物をテントにおろし、山荘へ上がる。山荘脇の調理場所で、業者の謝さんが温かいスープを用意してくれていた。少しまた腹ごしらえをし、テントへ戻る。メンバーの一人が、すぐ下の水場近くに滝があるという。降りていくと、かなり大きな沢が流れ、そのすぐ上には滝がある。透き通った水は冷たい。檜谷山莊は標高2100mあるが、ここは3000m級の山である。水量が豊富だ。沢から戻り休憩する。

雲海を望む

大武山は、美しい雲海が有名だ。16時ごろ、登りに通過した3.8㎞展望点に戻る。数名のメンバーは先にいって場所を確保していた。今日は登山者がとても多いので、よい場所は早い者勝ちだ。登りでは少しぐずついていた天気は、すっかり持ち直し日差しが温かい。11月下旬の高山とはいえ、日本中央の高山に比せば初秋のころの陽気だ。太陽がまだ結構高い。しかし、千変万化の雲や山の様子を見ていると、知らず知らずのうちに時間がたち、17時過ぎに太陽は沈み始める。西側の雲を赤く染め、その光が背後の山にかかる雲を黄金色に変える。17時18分、太陽は沈みあたりは急に暗くなる。展望点にいる大勢の登山者とともに山荘に引き上げる。

時間とともに雲海は薄くなる
黄金色の雲をかぶる南大武山
大勢の登山者でいっぱいだ
いよいよ日没
晩ごはん
山荘では、謝さんがすでに晩飯を用意して待っていた。山の上とは思えないほど豊富な食事だ。持ってきたウィスキーなどをみんなで飲む。食事を終え、テントに戻る。まだ時間は19時前で早いが、明朝は1時起床、2時出発なので休む。隣のテントでは、遅くまで話し声が聞こえ、さらに別のところでは酔っぱらった登山者が大声で話している。困ったことだ。




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第二日 11月29日(日曜日)

第二日歩行軌跡
第二日歩行高度プロファイル
1時すぎ朝食をとる
昨晩は、もう一つよく寝れなかった。12時50分ごろ起床する。1時過ぎに山荘へ上がり、朝食をとる。今日は、北大武山を軽装で往復し、檜谷山莊へ戻った後荷物を担いで下山の予定だ。メンバーの多くは、明日は朝から仕事である。登山口へ降りてさらに5,6時間の車で台北へ帰る。そのため、未明2時から暗い中で活動開始である。おかゆの朝食をとり、ポットにお湯を入れて準備する。

休憩し服装を調整する、周囲は暗い

2時に歩き始める。大木の茂るテント地から空を見あげれば、枝の間から星がのぞく。天気は良さそうだ。平らな道を進み分岐から、山頂へ向け登り始める。標高差1000m、距離4.5㎞の登りである。ヘッドライト頼りの歩きだが、道の状態はよいので問題ない。もちろん、ちょっとした岩場などもあるが、補助ロープなどもしっかりしているので、心配はいらない。30分ほどのあと休憩し、服装を調整する。思ったより気温が高い。

岩場を通り過ぎる

初めの登りが過ぎると、しばらく山腹を緩やかに登っていく。檜の神木を通りすぎる。暗いので、写真は下山時だ。神木の先、5.5㎞キロポストを過ぎ、また急登が始まる。暗いので、ひたすら登るだけだ。月が明るい。4時少し前、木々の間に屏東方向の夜景が見える。前後して、最後の水場を通り過ぎる。4時19分、7㎞キロポストを過ぎる。稜線まではあとわずかだ。熊笹が現れる。空を見上げると、月が丸く輪が掛かっている。霧が出てきている。

水場を通り過ぎる







4時42分、稜線上の分岐に来る。右は南大武山へ続く。稜線は風が吹き抜けていく。ジャケットを取り出し着る。5時7分、7.5㎞キロポストを過ぎる。山頂まであと2㎞だ。5時半、大武祠(神社跡)に来る。ここは少し広場になっている。テントを張って宿泊している登山者がいる。ちょうど出発の支度をしている。神社は、筆者がぜひ見たいと思っていた場所だが、まだ暗いので帰りにゆっくり見ることにしよう。

霧のなかの鉄杉

急坂をのぼる、頂上はあと少しだ
山頂までは、稜線上の上り下りが続く。5時50分、空が白んできた。しかし、濃霧の中、展望はない。鉄杉の大木が霧の中に浮かぶ。道はところどころぬかってドロドロだ。別の登山チームが前方の急坂を登っていく。上方から大きな荷物を担いだ数名が降りてくる。北から縦走してきたようだ。千々岩助太郎は、昭和9年に北大武山を登頂した後、さらに三日かけて霧頭山へ縦走している。当時は、道なき道の縦走だったようだ。

山頂の筆者
山頂のパーティメンバー
下山を開始
空は、すっかり明るくなった。6時半、北大武山頂上(標高3092m)につく。すでに数名の登山者が狭い頂上で写真を写している。人気のある山だ。特に週末は、登山者が多い。来年からは、登山者総数制限をするということだ。霧の頂上で、残念ながら展望はない。晴れていれば、台湾海峡、バーシー海峡そして太平洋の三方向の海が見えるという。さらに、北側に続く台湾の中央山脈も見えるはずだ。今日は想像するしかない。

鉄杉の向こうに青空が見え始める
大武祠
7時、下山を開始する。20分で、8.5㎞キロポストを過ぎる。7時半、青い空が薄れた霧の向こうに見える。山頂を覆う雲のなかから出てきたようだ。7時48分、大武祠へ戻ってくる。ここでしばし休憩する。説明の看板がある。ここは上段の祠のある部分と、その南にある下段の高砂族義勇軍記念碑の部分がある。祠のある部分は、以前鳥居があったそうだが、落雷などで壊れてしまった。柱と思われる木材が、台座の脇に転がっている。コンクリ製の祠の中はもちろん空だ。下段の記念碑は、コンクリ製台座に大きな石板碑がはめ込まれている。台座上には、もともと何かが載っていたようだ。碑文は、こわされることなく全文が判読できる。長い碑文の最後には、昭和十九年三月十五日、高雄州知事高原逸人撰と記されている。原住民の聖山である大武山は、犬や女は禁止であったそうだ。ただ、顔の前を草で隠せば女性も登れるとのことだ。昔は、成人男子の儀式がここで行われていた。今は、原住民だけでなく誰でもその年齢ならば参加できる成人式が、この大武祠の場所で毎年行われている。

鳥居の台座
鳥居の柱と思われる
高砂族義勇軍記念碑
碑文が埋め込まれた台座
登りでは暗くて見えなかった稜線を下る
休憩後、下り始める。記念碑の下段の端から、西方向の景色が広がっている。天気はすっかり晴れ、展望ができるようなった。気持ちも持ち直す。登りの時の眠気などはすっかり吹き飛ぶ。高雄市の高層ビルがや、壽山なども判別できる。台湾第二の大都市高雄から直線距離でわずか5,60kmである。そこに3000m峰がそびえる。東京でいえば、丹沢連峰の位置にその高さ二倍の槍ヶ岳があると思ってもらえば、そのすごさがわかると思う。

稜線から見る高屏平野、遠くには台湾海峡
青空のもとの鉄杉
朝陽のもとの稜線道
稜線上の分岐道しるべ
登りの時は暗くて見えなかった、稜線の様子は新鮮だ。右、西側には高屏平野が広がり、左はまだ霧の中。くねくねした枝を伸ばす鉄杉は、枯れても絵になる。台湾では森林限界が、日本よりずっと高く、3500mぐらいになる。ここはまだ森林限界を超えていない。この鉄杉の稜線は、北大武山の特徴だ。見上げれば、枝の上は真っ青な空だ。この青さは、平地では見られない。8時54分、稜線の分岐へ戻ってくる。これからは、檜谷山莊へ急坂を下っていく。

岩場を過ぎる






登りでは暗かった、岩場の様子も今はよくわかる。9時16分、7㎞キロポストを過ぎる。9時40分、水場を通過、標高は約2650m、林相は変わり鉄杉は少なくなる。この先、しばらくは緩い山腹道が続く。檜の大木が目につく。また、急坂を下り、5.5㎞キロポストを過ぎてまもなく、神木の下を通る。登りの時は、暗くて全容がわからなかった。明るい中で見ると、実に大きい。説明では高さ25m、幹周り12m、推定樹齢1000年だそうだ。

笹の茂る斜面を下る
だいぶ高度が下がってきた
紅檜神木
断崖に滝がかかる
またしばらく緩い坂を下る。10時32分、5㎞キロポスト通過。森を通して差し込んでくる朝陽が美しい。尾根上に取り付く。切れ間から反対側に大きな断崖が見える。岩の間に滝が掛かっている。ジグザグの道を下る。暗くてわからなかった、檜のわきも通り過ぎる。11時、檜谷山莊へ戻る。登り4時間半、下り4時間、休憩も含め往復都合9時間の登頂である。

登山者が出はらった檜谷山莊内部
荷を担いで登山口へ下る
登山者が出払って、がらんとした山荘に上がる。自分のコンロでお湯を沸かし、食事をとる。荷物を整理し、12時登山口への下山を始める。昨日より少し食べ物が減ったとはいえ、重量は大きく変わらない。登頂時の軽装に比べると、はやり重い。3.8㎞の展望点を過ぎる。振り返れば、大武山の大きな山腹は上半分霧の中だ。登ってくるパーティとすれ違う。我々を追い越していく、速足の下山パーティもある。約50分ほどで、石楠花林の3㎞キロポストへ下ってくる。しばし休憩する。

石楠花林を通過
霧のなかから突如南大武山が姿を現す
最終目的地が左の山腹に見える
13時14分、第二休憩所を通過。ここからは、山腹の道になる。おおむね下りの道が続く。砂利の道は、ところどころ滑りやすいので、注意が必要だ。13時22分、がけ崩れ場所を通過。霧に隠れていた南大武山が突如姿を現す。13時26分、西大武山への分岐を過ぎる。13時53分、第一休憩所に来る。休憩をとる。下りは、よいペースだ。今日は、すでに11時間ほど歩いているが、メンバーはまだ元気だ。ここから、左に最終目的地、新登山口方向が見えるようになる。まだまだ、遠い。橋を二か所わたり、1㎞キロポストを過ぎたあたりから、しばらく登りが始まる。少しつらい。最高部を超え、尾根の右側を下り始める。赤土の道は、とても滑りやすい。14時32分、旧登山口に帰ってきた。小屋の下でゆっくり休憩する。小屋の壁の寒暖計は17度を示している。

旧登山口で、メンバーはまだ元気だ
廃棄産業道路から見る南大武山
14時54分、最後のセクションを歩き始める。しばらく、コンクリ舗装の廃棄産業道路を進む。15分ほどで、右に山道が始まる。緩やかな登りが続く。15時20分、日湯真山への分岐に来る。ここからは、大きく下り始める。15分ほどで、また廃棄産業道路に出る。道なりに下っていくと、向こうに頭に霧をまとった南大武山が大きい。15時46分、最後の山道部分が右に下っていく。15時56分、新登山口に到着する。これで今回の歩きは終わりだ。今日は、約16㎞,標高差3000m(登り約1000m下り約2000m)を休憩込みで14時間で歩いた。我々の車はすでに、登山口で待っていた。16時半、台北へ向けて帰途に就く。23時前、途中高速道路の渋滞はあったが、無事に台北にたどり着いた。

新登山口からみる南大武山と前方の山腹を登山道がゆく前衛山


北大武山は、冬でも冠雪はなく一年を通じて登山ができる台湾の高山である。台湾を代表する五嶽の一つに数えられている。頂上からの展望がなかったが、それ以外には天気も良く景色を堪能できた。二日目はきつい日程だが、メンバー全員問題なく歩ききった。ルートはとてもよい。レベル1である。二日の日程であれば、体力要求度はレベル5だ。ちなみに今回の費用は、専用車一台往復で NT$16,000 、食事とテントで一人約 NT$800である。今回は八人なので、一人当たり NT$2,800。日本円換算で1万500円ぐらいだ。

以前新高山と呼ばれた台湾の玉山は、日本でも知られているがそれ以外の台湾高山となると、ずっと認知度が低い。千々岩助太郎によれば、昭和5年に英国登山家マレー・ウォルトンが台湾の山を訪れ、その時の話に「日本内地にアルプスという言葉があるが、台湾の山に登ってはじめてアルプスと呼ぶにふさわしい山であることを感じた...」とある。今は、日本の領土ではないが、その昔日本人アルピニストが情熱をかけて登ったこれらの山々、今の日本のアルピニストにも登り、その大きさ、その魅力にぜひ触れてほしい。筆者は、来年から精力的に台湾の高山を登り、紹介していくつもりだ。