このブログを検索:山名などキーワードを入れてください

2019-12-19

2019年12月16日~18日 奇萊南華山行 日本時代の歴史が詰まる古道を歩き、百岳3000m峰二座を登る

草原の広がる奇萊山南峰
台湾の50年にわたる日本統治時代は、山岳地帯においても多くの事件が起こり当時の名残も多く残る。その中で、歴史に深く刻まれた霧社事件は、映画セデック・バレでも取り上げられた大きな事件だ。その舞台は、台湾のほぼ真ん中南投縣の霧社である。いままで数度訪れているが、今回は霧社から東海岸の花蓮まで続いている能高越嶺古道の西側を再び訪れた。

奇萊山主峰縦走路から見る南華山(左)と奇萊山南峰(右),中間のピークは深堀山、遠くに三角ピーク能高山主峰
台湾を屏風のように南北にさえぎる3000m級の中央山脈を越えて東西を結ぶ道は、日本が台湾を接収する少し前に八通關(清)古道や關門古道が開かれた。日本時代初期には、この二つの道を使って山岳地帯の探検が試みられたが、その後使われることなく打ち捨てられた。台湾の山と日本の山との違いは、地理地質はもちろんだが、原(先)住民の存在である。平地に住む漢族や平埔族と一線を画し、山岳地帯でテリトリーを確保し農耕狩猟生活をしていた。原住民の部族間や平地住民との間には争いがあり、首狩りも行われていた。日本が1895年に台湾を接収した後の10年ほどは、平地の抗日運動もあり山岳地帯の原住民との接触は、主に上記の探検や調査などであった。

@奇萊山南峰山頂
平地での抗日運動が収まり本格的に台湾島の経営に乗り出したときに、大きく影響したのが、山岳原住民との接点である。当初は懐柔政策であったが、第五代総督佐久間左馬太の五年理蕃政策で大きく制圧方針に動く。1914年に台湾原住民制圧の最大抗争である、太魯閣戰役が戦われ、それまでに帰順してきた部族も含め、霧社から花蓮へと続く一連の部族などは政府の管理下になる。豊臣秀吉の刀狩よろしく、原住民の銃と弾薬を取り上げる。原住民管理のため1917年に開かれたのが、能高越嶺警備道である。途中には、16カ所の駐在所が開かれ、それぞれの部落を管理していく。この道は、また台湾の東西どちらかで必要があるときに、一方の軍隊警察を速やかに反対側に移動させることもできる。さらに郵便物の輸送路として、そして山岳原住民事情が安定したあとは、高山ハイキング登山の道として役割を果たす。

合歡山主峰から望む奇萊山南峰(対岸中央の山 2016/12撮影)
霧社は、台湾の蕃地箱根とも称され原住民地区の模範生として見られていた。そこへ1930年10月に起きた小学校運動会をとらえ日本人皆殺しの霧社事件は、晴天の霹靂であった。もちろん、その導火線はすでにありそれを見過ごしたこともある。日本人平民120数名、兵士20数名の死者、原住民側は自害も含め600数十名が死亡した。圧倒的な兵器を有する日本側も、はじめはゲリラ戦で苦境を余儀なくされた。最終的には、部族間の軋轢を利用して同じく原住民である味方蕃が、参戦し平定される。首謀者モナ・ルダオは1933年に死骸が発見され、一時台湾大学に骨格見本として保存されたが、その後家族に返されている。モナ・ルダオが頭目であったマヘボ社など六社(部落)については、残存者は移住させられる。
三日間のルート
三日間の歩行高度表
能高越嶺道については、事件蜂起時に霧社前後の駐在所が襲撃されて銃器が奪われ、通信施設やつり橋などは壊された。東側から駆け付ける軍隊もそのために苦労する。峠近くの能高駐在所(現在の天池山荘の位置)は、もともと警察事務の建物以外に、山荘として100人も収容できる檜造りの宿舎があった。檜御殿とよばれた豪華な宿舎も、蜂起の際に焼失した。事件後は、管理強化のために駐在所が追加された。
登山対象の位置
今回の山行は、三人のメンバーで能高越嶺古道を経て天池山荘へ登り、翌日は主稜線上の百岳南華山(能高北峰)と奇萊山南峰を登った。三日目は往路をもどり、途中雲海保線所近くにある尾上山に登って下山した。急げば一泊で歩けるが、今回は高山登山の初心者も一緒であり、筆者自身もゆっくり日本時代の歴史に触れることができるように、余裕の日程で出かけた。三日とも最高の天気で、山上でもゆっくりと過ごし、存分に高山登山を楽しんだ。
セデック族マヘボ社頭目モナ・ルダオの像

=============================

第一日 12月16日(月) 台北 - 屯原登山口 -  雲海保線所 - 天池山莊(泊)

屯門登山口から能高越嶺古道を天池山莊へ
約13㎞で約800mの高度を登る(単純平均6%の勾配)
霧社の街並み、右の建物奥に目的の山々が見える
今回はメンバーの車で登山口へ向かう。7時にMRT駅で落ち合う。平日朝の高速道路は少し混雑もある。10時少し過ぎに、埔里へ到着する。そこから台14号線を進み、11時少しまえに霧社に着く。街並みの店で食事をとり、前方にこれから登る山々を奥に見ながら、登山口へ向かう。今は14号線として車道になっているが、ここはもともと能高越嶺道の一部である。花蓮までの拡張が考えられたが、特に中央山脈の東側は地質が非常に脆弱でがけ崩れが起きやすく中止された。12時半前に、登山口の駐車場に到着する。

能高越嶺道1Kキロポスト付近から見る、遠くに馬海僕富士山,右山腹に車道が見える
ミヤマナデシコ
現在は林務局の管理になる道は、正式名称は能高越嶺國家步道である。歩き始めの部分は樹木のないセクションで、良い天気の今日は12月中旬だが暑いぐらいだ。崖崩れの部分を回り込み、山腹の道を進んでいく。登山口から天池山莊までは13Kmの道のりである。0.5Kmごとのキロポストを追っていく。1kmを越えるころから、樹木が現れる。40分弱歩き、最初の休憩をとる。その先で、道端に一輪のミヤマナデシコ(玉山石竹)の花を見る。この時期の花は珍しい。道には紅葉も見られる。

能高越嶺道の紅葉
解説板の遠くに馬海僕富士山
14時7分、霧社事件で原住民最後の拠点となる馬海僕富士山(マヘボ富士)の解説板を見る。ここから見ると一番富士山らしい形状だ。4Kを過ぎて間もなく、尾上山登山口を過ぎる。その先少しで吊橋を渡り、14時20分、雲海保線所に着く。今は台湾電力の送電線メンテのための保線所だが、もともとは尾上駐在所があったところだ。当時は、登山者が宿泊できるようになっており、能高高山ハイカーは霧社を出発し、一泊目はここに投宿していた。

雲海保線所から能高山主峰を望む
保線所の建物、前庭で登山者が休む
もともと日本時代に、台湾東部の豊富な水源で発電された電力を、中央山脈を越えて西側に送電するという計画があり、工事がスタートした。しかし太平洋戦争のため、その計画は中断した。戦後は国民党政府のもとで、送電計画が再び実行に移された。実際に能高越嶺道にそって送電線が走っている。日本時代の高山横断道路は、車道に拡張された合歡越道(中橫公路)や關山越道(南橫公路)があるが、そうでない古道、例えば八通關越嶺道は長い間放置され、がけ崩れで不通の場所も出た。それに比べると、能高越嶺道は台湾電力が使用するために、良い状態で保たれてきた。

崖崩れ部分を行く
松林の松原駐在所跡近くを行く
雲海保線所で天池山莊への道のりの約3分の1だ。多くの下山途中の登山者とすれ違う。登りが少し続き、少しくだって大きながけ崩れ部分を通過する。能高越嶺道は、台風や大雨のあと不通になるが、その多くはこのがけ崩れ部分で問題が起きている。16時、8Kを通過する。この近くの台地には、名前の由来の松林の中に松原駐在所があった。この駐在所は霧社事件後に追加されたものだ。

深堀山が前方に見えてくる
日本時代に造られた高山越えの道がそうであるように、道は緩い勾配で山腹を行く。ところどころちょっと急なところもあるが、階段などは一切ない。武器などを運搬しなければならないからだ。そのおかげで、天池山莊の必要物資はオートバイに積んで運んでいる。

背後に能高山を見ていく
夕陽が南華山を赤く染める
谷を挟んで対岸に能高山主峰が近くなる。能高山は、日本時代には新高山、次高山と一緒に三高と呼ばれていた。標高は3262mで高いわけではないが、天池駐在所(現在の天池山莊の位置)から見るとすくっと天を衝くピラミッドで、三高と呼ばれたこともうなづける。当時は高山峠越ハイキングは広まったが、ほかの高山を登るようなことは、一般的にはまだまだ難しかったこともあるだろう。

天池山莊の1階ホール、自分の食器に食事を盛り付ける
山荘の外は満天の星
16時40分、10Kを過ぎる。陽がだいぶ傾き、紅い日差しが南華山を深紅に染める。17時半、対岸の山腹に天池山莊がみえる。最後に山襞を回り込み、暗くなってきた中、吊橋を二か所渡る。17時50分、天池山莊に到着する。今回の宿泊は食事付きだ(晩朝食事で450元)。着くとちょうど食事が始まるところで、まず食事をとる。その後、あてがわれた二階の四人部屋に入る。今日はシーズンオフのためか、宿泊者はそれほど多くない。ざっと20名ぐらいだろうか。荷物を整理して、外に出る。空は満点の星だ。

=============================

第ニ日 12月17日(火) 天池山莊 - 光被八表石碑 - 南華山 - 奇萊山南峰 - 天池山莊(泊)

天池山莊から回遊する
左のピークが南華山,中央が奇萊山南峰
出発前の天池山莊,後ろに朝陽に輝く深堀山
5時過ぎに起床する。朝食を自分で準備しないでよいので楽だ。外部気温は10度を切るぐらいで、それほど寒くない。6時からおかゆの朝食をとる。7時過ぎに軽装で出発する。能高越嶺道の峠に向け、二年前に暗い中を歩いた道を今度は朝に進む。下り気味地道は山ひだを縫っていく。数分で、右遠くに天池山莊が見える。その後ろには、朝日に輝く深堀山が控える。日本人の名前深堀が山名になっているのは訳がある。

遠くから山荘を見る、背後は深堀山
前方に能高山を見て山腹道を行く
1897年1月、日本統治の初期にその前年に行われた長野義虎中尉による、八通關(清)古道や關門古道などを利用し中央山脈の横断探検に続いて、地理や資源、原住民などの調査のための軍隊による探検隊が組織される。その探検隊の一つが、深堀大尉以下13名の能高越えによる西から東に向けての横断探検隊である。生蕃近藤と呼ばれた、埔里に居を構えた奇才の助けを得て、原住民部落に入り探検を試みる。近藤は、台湾接収のあとすぐに日本から軍属としてやってきた後、まだ首狩りなどもある埔里にやってきて商売を始める。それは成功し、またセデック族頭目の娘を嫁にもらう。そのことにより、原住民部落に問題なく出入りできるようになっていた。ちなみに生蕃とは、帰順していない蕃人(原住民)のことである。

朝陽の中の守城大山と清境農場
送電鉄塔のしたを行く
近藤の仲介で、原住民部落での滞在や道案内を得る。ところが、西側と東側の原住民はお互いに敵同士、花蓮までの案内を引き受けない。なおかつ時期は2月、防寒の対応ができない原住民はことさら嫌う。さらに悪いことに近藤が熱病で寝込んでしまう。通事を伴い、何とか出発するが通事はこっそりかえってしまう。強引に原住民を天池まで案内させ露営するが天気が悪くなる。原住民はこのままでは身が危ないと思い、夜中寝静まったところを襲い、深堀大尉以下全員を殺害し、部落に帰った。当初は行方不明とされたが、その後殺害されたことが判明する。深堀山は、この事件を記念し天池近くの山に名付けられたものである。

稜線上に出る
光被八表石碑
南華山の西側山腹を行く道は、日陰のなかを行く。右側は開け、清境農場やその背後の守城大山などが朝陽の中に浮かぶ。前方に能高山が見え始め、7時36分朝陽のあふれる稜線上に出る。南華山への分岐を過ぎ、少し進んで光被八表石碑に行く。東西送電の工事にちなんで蒋介石が記した石碑である。石碑の脇には、霜が降りている。さすがに3000m近い高地ではある。
光被八表付近から見る南華山

背後に能高山を見ながら稜線を南華山へ
強い風を受けて登る
道を少し戻り、稜線の道を南華山へ向けて登り始める。送電鉄塔の下をくぐり高度を上げる。冷たい風が強く稜線上を吹き抜けていく。台湾の高山は、ニイタカヤタケが多く茂る。この稜線のような風が強く条件が悪い場所は、くるぶしぐらいの高さにしかならない。一方条件が良ければ、3メートル近くまで高く茂る。南華山や奇萊山南峰の周辺は、背の低いヤタケの草原が広がる。標高差は約400m、途中風のあたらないところで小休憩をとり、さらに登っていく。振り返れば、南に続く能高山主峰や南峰が次第に低くなっていく。9時9分、南華山山頂(標高3184m)に着く。

南華山山頂に登りついた
南華山山頂から北方向を見る、左に奇萊山南峰と主峰、遠く右の大きなピークは太魯閣大山
山頂の筆者
さえぎるもののない山頂は、360度の展望ができる。東の木瓜溪の向こうには花蓮の街がある。南に能高山主峰の三角ピークが続き、その右方には干卓萬の山脈、さらに遠くには玉山が見える。左方には、能高山南峰が大きく稜線上に立ち上がり、主峰との間遠くには南三段の山並みが続く。目を西に転ずれば、馬海僕富士山が、谷を挟んで守城大山がデンと座っている。北側は、広大な草原が奇萊山南峰へ向けて波打ち続く。山頂東側の風が当たらない日向でゆっくりと休む。陽だまりで温かい。

花蓮が遠くに望める、太平洋は雲の下
緩やかな草原道を下る
50分ほど山頂で過ごし、9時58分緩やかな道を下り始める。前方には、奇萊山南峰,奇萊裡山そしてその向こうに黒い岩の奇萊山主山が続いている。ちょっとした森を抜け、山腹を回り込んでいく。10時24分、天池に来る。ここは天池山莊から上がってくる道の分岐でもある。池には水がないが、ここは120年ほど前に深堀大尉一行が野営し殺害された場所だ。また、それ以外にも悲劇があった。

草原の山、左から深堀山、奇萊山南峰、最右は奇萊裡山
水が涸れた天池
土煙を上げてヘリコプターが天池の上を飛ぶ
能高越嶺道は、台湾東西の郵便物を運ぶ通路でもあった。1918年10月1日から始まった郵便制度は、この天池で東西それぞれの郵便運搬人が運んできた郵便物を交換する場所であった。当時の能高越嶺道は、東側は現在のルートではなく、天池からさらに稜線を北に進み、聯帶山から東に降りる支稜上を進んでいた。したがって、天池が東西両者のちょうど中間点であった。制度が始まって間もなく、木瓜溪の原住民部落出身の郵便配達人が郵便物をもって、天池にやってきた。西側からの配達人はまだやってこない。そこで交換所で待っていた。すると、西側の原住民が狩りにやってきた。東側の部落民を見つけた西側部落の原住民たちは、何しにやってきたと迫り、郵便物を見せろと脅す。職務に忠実な配達人は拒否したところ、殺されてしまう。のちに職務忠実についての美談として語られる事件である。

奇萊山南峰への分岐
山腹のジグザグ道を登る
森をぬけて高度を上げる
奇萊山南峰へ向けて歩き始めてすぐ、ヘリコプターの爆音が聞こえてくる。そのうち上空に救助用ヘリコプターが旋回し、水がない天池に降りようとする。すぐにまた飛び立ち立ち去っていく。どうやら訓練中のようだ。平らな道を進む。ちょっとした森を抜け、10時48分奇萊山南峰への分岐に来る。ちょうど登頂終え帰路のパーティとすれ違う。奇萊山南峰への道は、一度下って谷間を越え、すぐに山腹に取りついて登っていく。山頂まで約250mの落差だ。樹木の中を二度ほど通り過ぎ、広い草原の山腹をジグザグに登る。そのうち窪みに入り、登っていくと左に石でできた構造物と建物の土台のようなものが見える。そのすぐ上が頂上だ。11時38分、奇萊山南峰山頂(標高3358m)に着く。

奇萊山南峰山頂
北側に広がる大パノラマ、合歡山山塊を挟んで左は雪山山脈、右は中央山脈北一、ニ段の山々
この山頂も絶好の展望台だ。北側に合歡山の山々が谷を挟んで近い。その稜線下山腹を14甲号の自動車道が行く。その後ろは雪山山脈だ。昨年歩いた雪山西稜や今年の大小劍の山々がはっきり見える。その西側は白姑大山だ。雪山山脈の東側には、中央山脈の北一段二段の山々が続く。すぐ近くは、奇萊山北峰と主峰だ。すべて過去に歩いてきた山々だ。目を南に向ければ、広々とした草原の向こうに朝登頂した南華山とそれから続く能高山主峰や南峰がある。その右側の山脈は干卓萬だ。遠くには玉山も見える。実に雄大だ。

草原の稜線の向こうに奇萊山北峰(左),主峰,卡囉樓山
山頂直下の草原で過ごす(Lさん撮影)
我々のすぐ後をやってきている三人のメンバーも到着する。彼らが下っていったあとも、頂上近くの草原に寝そべり時を過ごす。今までの高山登山では、こんなにゆったりとした贅沢な時間はなかった。とくに縦走の場合は心理的にも余裕がない。今回は、時間も気持ちもゆったりだ。

休憩中眼前の景色、南方向を望む
草原を登る
13時10分、1時間半ほど過ごした山頂を後にする。往路を引き返す。13時40分に、稜線道に戻る。ここから北方向に稜線縦走路を歩く。この道は、実は1918年に開通した能高越嶺道の一部だったところだ。旧道は7年ほど使用された後、軍部の要請で現在の南側南華山と能高山主峰の鞍部から谷沿いの下っていく道に変更された。その理由は、聯帶山の辺りは標高が高く冬には雪もあり、万一東西に軍隊を移動させるには不向きということだ。新しい道は500m近く低いところで中央山脈を越える。


山腹の平らな道を行く
往路を引き返す
奇萊山南峰の分岐から北方向に少し行って、山腹上で高度を上げる。そのあとは、奇萊裡山の山腹に沿ってほぼ平らに進む。稜線上ではなく等高線にそって進むのは、日本時代の山越警備道の特徴だ。14時20分、2キロ足らず進んだところまで行き、また長く休憩をとったあと引き返す。天池まで来ると朝方は良く見えていた花蓮方向は、わいてきた雲海で埋め尽くされている。

花蓮方向は雲海の下になった
天池山莊から見る夕焼けの中の能高山
15時30分、天池へ戻る。そこから分岐を右に天池山莊へ下る。急な坂道が続き、最後にジグザグの道を降りて能高越嶺道に着く。ちょっと下って、16時前に山荘に帰り着く。今日は行動時間9時間だが、そのうち3時間以上は休みの時間であった。距離12.3Km、累計の登坂900m、標高はもちろん違うが行動としては、日帰り近郊登山と同じようなものだ。6時から食事、今日は宿泊客が多い。食事後、まかないのメンバーがギターを奏でて歌を歌う。8時までには部屋に戻り就寝する。今日も満点の星だ。

夕食後の演奏

=============================

第三日 12月18日(水) 天池山莊 - 雲海保線所 - 尾上山 - 屯原登山口 - 台北

往路を引き返す、途中尾上山を登頂
基本下りだが、尾上山を登る
朝の山荘からの景色
二泊した四人部屋
5時過ぎに起床する。6時前には空が白みだす。山荘ホールの気温は10度だ。6時に朝食、支度をして7時に出発する。充実した山登りの後だ、名残はあるが満足した気持ちで、歩きだす。二日前はすでに日が暮れてはっきり見えなかった滝を吊橋の右に見る。渇水期で滝は水が少なく可哀そうなぐらいだ。後方から自転車の二人がやってくる。この道はオートバイでも往来できるから、サイクリストも十分問題ない。

水量の少ない滝
吊橋を渡るサイクリスト
下っていくと、谷を挟んで見えている能高山の形が変わってくる。天池山莊あたりではとがったピラミッドだが、幅が広がってくる。古道は山襞を大きく回り込み、日陰になる。8時半、炭焼窯跡を通り過ぎ、その先で休憩をとる。この辺りは松原駐在所があった場所だ。9時20分、大きながけ崩れ部分を過ぎる。少し登り返したあと下って、9時50分雲海保線所につく。ここでしばらく休憩する。持ってきたがまったく使わなかったコンロと鍋を取り出し、即席めんを作る。

古道から見る崖の上に建つ天池山莊
能高山を左に見て下る
10時半過ぎ出発する。吊橋を渡り、10分ちょっとで尾上山登山口に来る。ザックを登山口近くにデポして空身で登る。急な坂が続く。10分ほど登ると、台湾ツガの大木が道に現れる。途中で下ってくる登山者とすれ違う。そのうち松林の中を進み、足元は松葉絨毯になる。一度緩くなった坂は、山頂前でまた急になる。右に武浪洋山への道を分けたあと間もなく、11時36分尾上山山頂(標高2682m)につく。約45分ほどで、約300mほどの高度差をのぼった。三角点のある頂上の周囲は、すべて樹木で展望はない。
尾上山登山道上の台湾ツガ大木

尾上山山頂
40分ほどで下山し、またザックを担いで残り4Kmを歩く。最後は日向を行くようになり、少し暑いぐらいだ。崖崩れを通り過ぎ、13時半に登山口に帰り着く。13時50分、帰途に就く。途中塔洛灣景觀餐廳に立ち寄り、食事をとる。テラスから広い展望が広がる。眼下すぐは霧社ダム、その奥には干卓萬の山並み。左奥には能高山も望める。ダムはだいぶ土砂で埋まっている。下山後のビールは実にうまい。お薦めのレストランだ。霧社でモナ・ルダオの像がある抗日紀念碑にたちよる。過去の歴史は消すことはできない。その事実を正確に評価し、次代につなげることだ。国民党政府が原住民の抗日行動を、自身の中国での抗日になぞらえたのは、お門違いだと思うが。その後埔里から高速道路にのり、21時に台北に帰り着いた。

塔洛灣景觀餐廳のテラスから見る景観
=============================

三日とも素晴らしい天気に恵まれた。とてもよい山旅ができた。今回歩いたルートは奇萊南華コースと呼ばれ、台湾高山入門級とされる。しっかりして歩きやすい道、まかないもありとてもよい山小屋、山自体も危険なところもなく問題ない。さらに、日本人にとっては日本近代史の舞台でもある。玉山主峰、雪山東峰ルートとともに、初めての台湾高山登山としてお薦めである。ただし、公共交通手段だけでは登山口にたどり着けないのが、ちょっと残念だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿