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2018-03-23

2018年3月22日 守城大山 台湾中部埔里の名山を登る

奇萊山主稜線から望む守城大山、前方に清竟農場 (2016年6月撮影)
守城大山、この山名は中国語だと城を守る山ということになるが、城は日本のお殿様のお城ではなく、街のことである。この山がそびえる埔里の街を見守る山だ。台湾は、もともと暮らしていたポリネシア系原住民の世界へ、中国からの華人移民がやってきて今の台湾社会を形作っている。埔里の街は、山の原住民と平地の民との境界にあった街で、清朝統治時代に大埔と呼ばれたいた。

南側登山口から守城大山を往復
歩行高度表
以前から山の住民と平地の住民は、それぞれの領域を侵犯しないが、商売は行っていた。山で必要な塩や銃などを含む工業品と、山でとれる毛皮や薬剤との交換である。1895年日本の台湾接収後間もなくやってきた先行の日本人に、徳島出身の近藤勝三郎がいる。1896年若輩19歳で台湾にやってきた近藤は、新領地視察の日本軍隊について埔里にやってくる。そして商売の可能性を見つけ定住する。彼の交易所は大繁盛し、バーラン社の頭目の娘ユワンロパウと結婚する。セディック族の娘婿となった近藤は、原住民の領域にも問題なく出入りをする。首狩りをする原住民を意味する生蕃をつけ生蕃近藤と呼ばれた。その後、日本政府が山地に出ていくときに、いろいろと手伝いをしている。下述の隘勇線も含め、原住民帰順の様々な施策に協力している。

埔里の盆地と守城大山を含む周辺の山々
新領地台湾の山地は、もともとそこに住む手ごわい原住民のため、山にある資源を利用するのが難しかった。日本政府は、清朝時代に始まった原住民囲い込みの隘勇線を拡大していく。要は境界線を作り、その範囲をじわじわと狭めていいくやり方だ。埔里の近くにも隘勇線を設け、警備のための人員を配置する。そうした人員が駐在する、隘寮と呼ばれる基地や駐在所などが隘勇線上に造られる。今回登山の守城大山の稜線は、まさにその隘勇線が設けられた場所だ。その後霧社が完全に日本のコントロール下になると隘勇線は必要がなくなり、人員はいなくなる。守城大山の稜線上のピーク守關山には当時の駐在所のものと思われる石積が残っている
合歡山主峰から望む守城大山(後方の大きな山、2016年12月撮影)
能高山主峰から望む馬海僕富士山(手前)と守城大山(右後方、2017年10月撮影)
頂上に一等三角点を擁し、標高2420mで埔里付近では一番高い守城大山は、中央山脈の峰々から容易に望むことができる。実は、奇萊山合歡山能高山など、過去訪れた山から望んでいた。その大きな山容は、いずれ登りたいと考えていた。1月の馬海僕富士山行の際にも、下山後斜陽光線の中に守城大山を見つけ、次に埔里を訪れるときは登ろうと思った。

馬海僕富士山登山口から望む守城大山(2018年1月撮影)
狭い道を登山口へ向かう
前日國姓鄉の大橫屏山を登り、埔里の地母廟の焼香客用宿舎に泊まった後、夜明け5時半に出発する。途中で第6号高速道路の入口近くで朝食を取り、14号線を霧社方向へ進む。朝食をとった場所から約10分ほど走り、右に南豊派出所をみてすぐ左に下る道に入る。福徳橋の前で右に曲がり山に向けて登り始める。1月の馬海僕富士山の登山口への道もかなり勾配がきつくカーブもきつい道だったが、こちらはさらに舗装も良くなく四駆の車でないと無理だろう。

茶畑わきから朝陽の中の中央山脈を遠望する
守關山南峰
7時少し前に登ってきた道路終点であるお茶畑の上の作業小屋に到着する。支度をして出発する前に、展望が開けている茶畑のわきに行く。朝陽の中に中央山脈が見える。ちょっとはっきりしないが一番左は奇萊主山だろう。能高越嶺道が越していく鞍部へずっと中央山脈の稜線が続いている。中央山脈前の右側には馬海僕富士山が判別できる。

落ち葉を踏みしめて登る
急坂を登る
7時15分登山口から登り始める。ここは標高約1330m、守城大山まで約1100mの標高差だ。もし車がここまで来れない場合は、かなり下の方から登らなければならず、その分だけ多くの時間を見なければならない。登り始めてすぐに、守關山南峰(標高1350m)の名札が樹木に取り付けてある。その左に少し入ったところに基石がある。けっこう急な坂が続く。アカマツと広葉樹の混合樹林で、足元は松葉とその他の葉が敷き詰められている。歩き始め10分ほどすると、寒波のため気温は10度代だが汗が出てくる。ひたすら守關山から下がってくる稜線を目指し登る。7時47分、勾配がゆるくなった場所で少し休憩をとる。

稜線上の南山への分岐
明るい朝陽のなかの森を行く
急坂を登っていく。森は杉に換わる。見たところは植林された林のようだ。道が右におれ山腹をトラバースしていく。8時6分、広い稜線上の分岐点に着く。右から南山から稜線を来る道が合わさる。稜線を守關山へ登る。分岐の道標は守關山へ120分、守城大山へ200分と記してある。稜線はとても幅が広い。森の中の下草は多くなく、朝陽の森は明るい。落ち葉が地面を覆っているので、踏跡がもう一つはっきりしないところもあるが、マーカーリボンもけっこうあり、道を迷うことはない。

猟小屋のあと

8時29分、この時期はまだ花はないがシャクナゲの原生林をすぎる。8時34分、右側にかなり広い平らな場所があり、焚火のあとやごみが落ちている。ここは猟小屋があったところだろう。禁止されている桧木などの高級樹を伐採する、盗伐者が利用していたのかもしれない。事実、この山域は盗伐者が警察の摘発で追われ、足を滑らせて死んでいる。少し休憩する。
広葉樹林をゆく

杉林を行く
暫く登ると、また杉林に入る。勾配は、稜線に上がるセクションに比べると緩い。しかし登りには変わりがない。急になったり少し緩やかになったりしながら高度を上げる。9時3分、また平らな広場を過ぎる。焚火の跡がある。かなりの巨木も見られ、また朽ちた倒木も道を塞ぐ。手つかずの自然なのだろう。9時25分、少し休憩をとり守關山へ最後の登りを行く。9時44分、矢竹が現れる。森の下でそれほど高くない。地面がぬかっている場所もある。水はけが悪い。数分で矢竹を抜け、また乾いた森の道を進む。勾配が緩くなってきたかと思うと、9時53分森の中の守關山山頂(標高2323m)に到着する。登山口から標高差約1000mを登ってきた。次の目標守城大山に向かう前に十数分の休憩をとる。

太い樹木も現われる
森の中で休憩
守關山山頂前の矢竹
守關山山頂
石積が頂上のヘリを囲う
矢竹の間を行く
頂上といっても平たく、またすぐ下にも開けた場所がある。頂上の周囲には、人工の石積がある。これは隘勇線があったころ、ここにあった駐在所の周りをかこっていたものだろうか。すぐ下の部分から、稜線を關刀山へ続く道が左に分かれる。守城大山へは右に進む。稜線を追ってすぐに、矢竹が現れる。進むにつれて、矢竹は背が高くまた茂みが濃くなる。能高安東軍縦走では、背丈よりも高い矢竹に悩まされた。竹の茂みの間にははっきりした踏跡があり、方向を誤ることはないが、矢竹をかき分けて進むのは面倒だ。

矢竹の切れ目から望む守城大山
守城大山頂上へ最後の登り
しばらく下りが続く。2,3か所ほど竹が切れて前方に守城大山が見える。20数分ほど下り、最低鞍部を過ぎて登りが始まる。10時45分、矢竹から解放され乾いた森の中の最後の登りを行く。11時7分、一等三角点のある頂上の前の開けた場所につく。左に入り矢竹の中に三角点を見る。登山口から約4時間でやってきた。

矢竹に囲まれた三角点に立つメンバー
広い頂上、三角点は背後にある
帰路に見る守關山
基石のある場所は、周りが矢竹なのでわきの広場で食事休憩をとる。太陽が樹木の間からさすが、標高は2400mあるので気温はあまり高くない。日なたを選んで腰を下ろす。ジャケットもつける。広く平らな山頂は、以前遠望したときに見たように、ゆったりとしている。四方すべて樹木に囲われ、展望は全くない。三角点が埋められたころは、樹木が伐採されたか櫓が建てられていたのだろう。測量するためには、非常にすぐれた位置にある。

倒木のわきを下る
焚火跡のある開けた場所を過ぎる
40数分の休憩後、11時52分往路を戻りはじめる。道の様子はわかっているので、あとはどれだけのスピードで下山できるかだ。約40分で、守關山に戻る。少し休憩し、長い稜線を下り始める。13時7分、焚火跡のある開けた広場を通り過ぎる。13時23分、猟小屋あとを過ぎ、13時39分南山への分岐に来る。少し休憩し、登山口へ下り始める。14時16分、登山口に戻る。約2時間半で下った。小屋の前の茶畑のわきに行き、遠くを眺める。雲がでたりして朝よりは視界が悪いが、それでも台形の馬海僕富士山が判別できる。着替えや靴を換え、14時45分車で帰途に就いた。

下りものこりわずかだ





水平距離で約10㎞、累計で約1200mの登りであった。休憩込みの所要時間は7時間だ。ネット上の記録などでは8時間半以上であったので、もっとかかるかと思ったが、早く終了した。道の状態がよいこと、メンバーの足並みがそろっていることなどが、予定より早く登り終えた由縁だろう。ルートはクラス3、体力はクラス4といったところだ。台湾中南部には、まだまだ多くの中級山がある。今後こうした山を登りたいと思う。


馬海僕富士山が望める

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