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2015-03-19

2015年3月18日 瑞芳東北角石梯坑古道-苦命嶺-龍洞坑古道 昔日の棚田などの残る道を歩く

龍洞坑古道,渡渉部分。背後に石積み壁が見える
台湾の最東北端は、冬の間は季節風の影響で雨が多く天気が安定しない。春が近づき、またこの地を訪れる良い時期がやってきた。以前から歩こうと思っていた龍洞坑古道を訪ねることにした。ただ、この道だけでは短いので石梯坑古道から登り、苦命嶺を越えたあと龍洞坑古道を歩くことにした。苦命嶺の草山側稜線は、二年半前に一度反対方向に歩いた。その時は道筋がはっきりしないところが多々あった。三月末の週末に登山クラブ慢集団を案内するので、この部分の状態を確認することが目的である。

北の南雅から歩き始め東の龍洞へ
台北の最東北端に位置する古道群
南雅から海岸沿いに仁愛橋へ歩く
龍洞坑の一帯は、海に面した部分とそこに流れ込む沢に沿った部分、また和美山北側のゆるい斜面が開拓された。その始まりの時期は早く、今から二百年ほど前になる。清朝時代の記録に平地の原住民である平埔族がこの地を開拓していることが記録されているようだ。当時は勿論現在の濱海公路など無い。この地から近くの賑やかな街、金瓜石へは山を越えていかなければならない。そのために歩かれたのが龍洞坑古道であり、それがつながる石梯坑古道である。これら呼称は現代の登山者が付けたもので、当時は当然名前など無い。というか、生活上必須な街道であったわけだ。この道を往来する住民は、安全を祈願して土地公を二ヶ所も設けている。また道脇には棚田などが造られて作物が植えられていた。今は住人は、海岸脇に数軒あるだけで山の中は誰も住んでおらず、棚田などはすべてその存在が判る石積の壁などを残し自然に戻ってしまっている。こうした道を歩くと、当時の人達の苦労が偲ばれる。

石梯坑古道の入口、すぐ右に黄金八稜の入口がある
今回は、Lさんと二人の山行である。基隆駅から791番バスで向かう。今回は比較的ゆっくりで、国家新城8時20分発のバスは8時38分に基隆駅バス停にやって来た。9時20分、南雅バス停に着く。今日は空が晴れ上がり、気持ちがとても良い。南雅は前回慢集団のグループを黄金八稜の山行に案内した時以来だ。海岸沿いの道を仁愛橋へ歩く。橋の下をくぐり駐車場に出る。ここから山道だ。すぐ右に黄金八稜道の入口、またその先橋のたもと脇で南雅山への急峻道が続いている。今日は、石梯坑古道を登っていく。

石梯坑古道(右)と龍洞坑古道の分岐、左の鞍部は峠部分
石梯坑古道は山腹を進む
駐車場から数分歩く。沢を越える。水量はあるが、踏み石を渡れば簡単に対岸に着く。これから先はずっと左岸を登っていく。すぐ左に砂防ダムがある。この道は、濱海公路が開通する前南雅集落の住人が金瓜石へ往復していた道だろう。石の階段がところどころに現れる。9時48分、分岐に来る。左は沢沿いに進む道だが、今はあまり歩かれていないようだ。右に取り山腹の道を進む。道は、高度を上げたあとしばらくゆるい坂を進む。10時左から、先ほど別れた沢沿いの道が合流し、その少しさきで左に龍洞坑古道が別れる。左遠くに稜線が望める。龍洞坑古道が越えていく峠部分が判る。今日の午後、通過する予定の場所だ。右にとり石梯坑古道そ進む。細い支流を二、三箇所通り過ぎ、高度を上げていく。10時19分、苦命嶺への分岐に着く。直進すれば沢沿いに苦命嶺へ続く。歩き始めて50分、ここで休憩する。

土地公の祠
道は、方向を換え山腹を登っていく。つづら折りの登りである。数分登ったつづら折りの付け根の部分で、また苦命嶺への道が分岐する。おそらく先ほどの分岐からの道と合流するのだろうが、この道は草深くあまり歩かれていない。右にとり古道を追っていく。山腹に人工の石積みがある。以前ここには小屋などがあったのだろう。欠けた陶器が落ちている。10時50分、右に石梯坑山への道が分岐する。10時58分、右から黄金七、八稜からの道と合流する。左に少し進むと土地公の石祠がある。神像はすでに無いが、昔は往来する旅人が通行の安全を祈った場所である。

峠への道は細い踏跡
最近の黄金十稜の人気で、土地公まではよく歩かれている。しかしその先は、明らかに道の状態は落ちる。それでも踏跡がはっきりしているのは、登山者が増えているためだ。右に半屏山の壮絶な岩壁が木々の間から望める。山腹を進んで行き、11時14分に稜線鞍部に到着する。ここから沢沿いに北勢坑への道があるが、これはあまり歩かれていない。右にとれば草山方向だ。しばし休憩する。

峠部分、左へ苦命嶺へ進む
稜線から苦命嶺を望む、左に黄金九稜とその先の鼻頭角が見える
筆者、背後は草山(左)と半屏山
11時25分、左に稜線を苦命嶺方向へ歩き始める。稜線上を風が通り抜けていく。天気がよく気温が高いので、風が心地よい。道は草深いところもあるが、前回訪問時に比べると昨年藍天隊が入った後登山者が増えたようで、踏跡ははっきりしている。峠から数分歩いてくると樹木が切れて展望がきく。進行方向には苦命嶺が、その左には南雅山から鼻頭角へ伸びる黄金九稜が望める。苦命嶺は手前に小ピークが控え、まだまだ遠い。下って登り返す。また樹木がきれて展望がきく。振り返れば草山と半屏山が並んでいる。シダ類のびっしり茂ったところは踏跡は隠れて見えないが、概ね良好だ。

シダがびっしり茂る
尾根をずっとたどってきたが、12時過ぎ一部山腹を巻いていく。12時12分、前方がひらけ苦命嶺頂上(428m)に到着する。三度目の来訪だが、基石のあるその先が赤い。何か大きな赤い布でも木にかかっているのかと思って近づくと、それは木にいっぱい咲いた山ツヅジの花であった。アゲハが数匹忙しく花から花へ蜜を集めている。注意すると、基石の近くだけでなくそこここに赤のツツジが満開だ。食事休憩を取る。

赤いツツジの咲く苦命嶺頂上
アゲハ蝶が忙しく花から花へ飛んでまわる
12時45分、出発する。一度下り少し登り返すと、稜線道と左に枝尾根を下る道が分岐する。今日は左に取り龍洞坑古道の峠へ下る。分岐から少し歩き、樹木のない展望点に来る。草山から半屏山、その背後には基隆山が少し頭をのぞかせている。半屏山の前の尾根は、午前中歩いた石梯坑古道が登っていく石梯坑山の尾根である。これから下っていく尾根の左側は、傾斜が少しゆるい。右方向は、和美山が見える。その左下に伸びる尾根の尖端は龍洞の海岸線である。水平線はもうひとつぼんやりしているが、今日は天気が良い。急な補助ロープのある急坂を二ヶ所過ぎる。その先は、雑木林の中にはいり展望はない。13時12分、左から石梯坑古道から分かれて登ってくる龍洞坑古道をあわせ、そのすぐ先また右に下っていく。ここは右に下り始める。

苦命嶺から少し下った場所より見るパノラマ、左に草山と半屏山、その右角から基隆山がのぞいている
沢沿いに古道は進む
龍洞坑古道に入ると、道の状態は明らかに程度が下がる。踏跡はあまりはっきりしないところもあるが、新しい認識テープも見かけ最近歩かれていることが判る。10分ほど下る。少し開けた場所を過ぎる。どうやら以前は棚田でもあったところのようだ。13時27分沢の脇に下りる。沢脇に石を積み上げた台地もあり、先人がここで開拓したことが判る。今は、草木が茂り苔に覆われた土留め壁が残るだけだ。道は、しばらく沢の左岸を進んだ後右岸、また左岸と渡渉を繰り返す。石積み壁も数カ所見かける。11時40分、ひこっと草原に飛び出る。ここも以前は田畑であったのだろう。今は一面雑草が覆っている。右に苦命嶺が高い。苦命嶺は別名紅毛山とも呼ばれるが、この道が歩かれていたころは、更に草山を越えて行き苦しい両嶺を越えて行かなければならないことから、訛って現在の山名になったという説もある。実際、高くそびえる苦命嶺を見ると、そうかなと思う。ここで少し休憩する。

開けた草原から苦命嶺を望む
踏跡がはっきりしない場所もある
草原からまた沢沿いに進む。右岸から左岸、また右岸と渡渉をしていく。草原から約10分、14時8分に渡渉点のすぐ脇で右に道が分岐する。この道は蚊子坑古道へ続くものである。龍洞坑古道は左に沢を越して進む。この辺りの水量は多く、登山靴だと渡渉に苦労する。ここからは、ずっと左岸を進む。14時40分、それまで問題なく進んできたが、沢際で道が途切れてしまった。対岸に認識リボンがかかっており、わたって様子を見たがどうしても道が見つからない。そのうち、左岸に高巻いてい行く道を見つけて進む。また下っところで、道が判らない。対岸にも道らしいものはない。標識リボンも無いが、水道塩ビ管が地上を走っているのでそれを追って藪こぎをする。すると、道がはっきりしてまた標識リボンも現れた。かれこれ20分ほど道探しに時間がかかってしまった。反対側から来れば、迷いにくいだろう。

沢も広がってきて、古道は終わりが近い
水道塩ビ管にそって藪こぎをする
その後は、ずっと左岸を進み15時10分、濱海公路脇に出る。海辺を道沿いに鼻頭角方向へ歩く。海風が吹いていく。15時13分、龍洞湾公園バス停に着く。リュックを下ろし一息ついてまもなく、1811番バスがやって来た。このバスは、宜蘭羅東からずっと濱海公路を通り台北まで3時間半かけていく長距離バスである。一日5便だけで今まで乗車したことがなかったが、乗り換えなしで台北までいけるので好都合である。乗車して台北へ向かう。車内は乗客数名のガラガラ状態だ。14時25分、約1時間10分ほどで台北西バスターミナルに着いた。

濱海公路にでた、山は和美山


天気に恵まれた山行である。歩行距離は約10km、時間は5時間50分、体力的には楽な登山である。海抜0メートルからスタートしてまた海抜0メートルに下るので、標高の割には上り下りはある。我々登山者は、余暇と健康増進などの目的で登るが、歩いた古道は当時の住民にとっては生活そのものである。天候が悪くて雨風でも歩いたわけだ。台湾島の最東北端で、こうした生活を営んでいた先人たちを偲び歩くことは、単なる山歩きだけでなく歴史を身をもって体験できる。

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