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2017-02-06

2017年2月4~5日 花蓮大同 達道之家 千里眼山 日本時代の生き証人を尋ねる心の山旅

ダーダオさんと筆者
一昨年9月に花蓮の清水大山を訪れた際、砂卡礑林道で達道之家という民宿への道標を見た。日本語の名前の響きがあるこの達道は、台湾原住民太魯閣族の名前ダーダオという音を中国語に置き換えたものだ。1930年生れのダーダオ・モナさんは今年で86歳、太魯閣族の頭目である。太魯閣族は、日本統治時代1914年に当時の政府との間に、非常に熾烈な戦いを交えた。政府軍は多大な犠牲を払ったが、最終的に火力の差で勝利する。政府側は三百数十名の死傷者、当時の総督佐久間佐馬太は戦場視察に訪れたときに崖から落ち、それが遠因で日本に帰任してまもなく他界する。一方、太魯閣族はどれだけの犠牲があったか記録がないが、少なくないはずだ。

砂卡礑林道から下方の大禮部落と望む、対岸に三角錐山、右に立霧山
その後、帰順した太魯閣族は平地への移住や、政府の管理のもとで日本化が進む。ダーダオさんは小学校は日本教育を受けている。日本語はとても流暢で、中国語よりも通じる。今回筆者も含めて三名の日本人が訪れたが、日本との戦いをした太魯閣族後裔のダーダオさんは、そうした負の過去は全く表に出さずに、快く迎えてくれた。二年前から一度訪れようという希望が、今回実現できてとても良かった。台湾の原住民の人たちは、とても気持ちが良い。それは、数十年前に山登りにやってきた当時の日本人たちが感じでいたことでもある。
二日の行程(赤:第一日目)
二日の歩行高度
今回は、都合11名のグループで訪れた。一日目は、太魯閣遊客中心(ビジターセンター)から得卡倫步道を登り、大禮部落(原住民の元来の地名はハハス)を訪れた。その後砂卡礑林道を歩き、達道之家へ行き、荷物を降ろした後、一部のメンバーを残し背後の立霧山を登った。二日目は、夜明け前に民宿を出発、大同部落(旧名はサカダン=砂卡礑)で荷物を降ろし、千里眼山を往復した。下山後昼食をとり、砂卡礑歩道を経て砂卡礑溪の三間屋に下り、沢沿いの歩道を太魯閣遊客中心に戻った。天気は、二日とも行動中に雨が降り、それほど良いわけではなかったが、ダーダオさんに会うことができ、また原住民の人情に触れることができたことで、十分満足である。

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第一日 2月4日 台北 - 新城 - 太魯閣遊客中心 - 大禮部落 - 達道之家 - 立霧山

ビジターセンターから出発、12㎞の歩き
高度プロファイル
バスを降りてすぐ前の羅東駅で電車に乗り換え
今回は、清水大山の時に比べて、さらに1時間早い出発である。台北轉運站を4:35初の羅東行始発バスで出発する。このバスは各駅停車ということで、途中の停留所に停まっていく。6時半過ぎに到着、約2時間の乗車だ。6時58分の区間電車で新城へ向かう。途中雨が降ってきて、天候が心配だ。8時19分、新城駅に到着。曇りで雨は降っていない。周囲の山も望める。

台湾好行バスでビジターセンターに到着
長い階段を登る
8時32分の台湾好行バスで太魯閣遊客中心へ向かう。十数分で到着、支度をする。大同部落へ入るには入山許可書が必要だ。今回は事前にネットで申請していたので、それを持ってビジターセンターの派出所へ立ち寄る。9時10分、歩き始める。登山口から少しのぼり、ケーブルの中継地点を経由する近道の分岐に来る。前回はこの道を登ったが、今回は右に進む。9時25分、長い階段の最下部に着く。ここからは、途切れることがないかと思うほど、階段が続いていく。9時40分、展望台の部分で休憩をとる。眼下には立霧溪を挟んで三角錐山の三角ピークがそびえている。

登りの途中展望台から見る三角錐山と立霧溪の谷間
急坂を登る
更に階段道を進む。10時4分右へ蘇花公路へ下る道との分岐に来る。階段道はここで終了し、土のジグザグ道が続く。途中で休憩を一度とり、10時24分に近道と合流する。ここで登りの半分だ。そのうち雨が降り出した。皆は傘や雨具を取り出し対応する。今回の山行は、天気予報では降雨率40%と、あまり期待できるものではなかったが、やはり雨となった。11時27分、キロポストで2.4㎞、標高差800mの登りを終了し、砂卡礑林道の末端に着く。雨は幸いに止んだ。

大禮部落についた








1980年まで操業されていた森林伐採で、森からここまで丸太を林道で運送、ここからはケーブルを利用して麓まで降ろしていた。その後このケーブル施設は、台風で壊れてしまい、今は物資はすべて人が担いで登っている。先ほどの登りの際にも、荷物担ぎの若者が荷物を降ろして下ってきた。現在大禮や大同の部落に居住する人も多くなく、修理する経済効果があまりない、ということなのだろう。

部落の最上部にある駐在所跡
一休み後、林道を少し進み大禮部落へ下る道の分岐に来る。雨も止みまだ時間も早いので、原住民名でハハスと呼ばれた大禮部落へ立ち寄ることにする。11時50分、荷物を分岐に残し、部落へ下る。15分ほどで部落に着く。幸い霧が晴れてきて、対岸が見え始める。駐在所の廃屋が現れ、さらに下っていく。左に旧礼拝堂へ向かう。霧がまとう山々をバックに、礼拝堂が建っている。今はもう使われていない礼拝堂は、屋根の一部が壊れている。手前の広場には、赤い山桜がちょうど満開だ。

霧が去来する山をバックに建つ旧礼拝堂
山桜が満開だ
12時26分、分岐へ戻り始める。礼拝堂の上には、まだ人が住んでいる木造の家がある。ちょうど住人が現れあいさつする。彼はこのあと我々が行く民宿のダーダオさんの息子だとのこと。またこの家は、部族の頭目の家だそうだ。部族の人々は多く移住してしまったので、今は住む人は少ない。日本でいう過疎化である。12時40分、砂卡礑林道の分岐へもどり食事休憩をとる。

砂卡礑林道から見る立霧山
達道之家の分岐、右に行く
13時、林道を歩き始める。今回で2度目の歩きになるので、だいたいの様子は覚えている。10分ほど歩くと、シートがかけてある建築現場を過ぎる。この場所から下を見ると、先ほどの大禮部落が真下にある。右方向には、立霧山が望める。緩い林道の登りを行く。14時、林道終端から約4㎞ほどの歩きで、達道之家への分岐にくる。最近太魯閣公園が新たしい道標を立てている。民宿方向へは、道標は立霧山2.2㎞と記してある。

広い道を達道之家へ向かう
分岐を右にとり、登っていく。すぐに立霧山の登山口を過ぎる。木々の切れ目から左下に大同部落が望める。二年前に泊まった彩虹之家のカラフルな建物も見える。先ほどであったダーダオさんの息子さんは、彩虹之家の場所はもともと学校があったところだという。確かに広い庭があり、その昔は校庭だったのだろう。15分ほど歩き、右に山道が登っていく。地図で照らし合わせると、近道のようだ。これを登っていき、14時26分に民宿に到着した。

達道之家民宿
素朴な民宿の内部
民宿は、立霧山の中腹を切り開いたところに建っている。広い庭の端からは、大同部落が見下ろせる。この地はダーダオさんが40年ほどまえに選んで、切り開いたそうだ。我々以外にもう一パーティの人たちがすでに着いていた。我々も荷物をおろし、一休みする。80数歳になるダーダオさんは、小柄だが手はとても大きい。まだまだとても元気で、頭ももちろんしっかりしている。外見は、日本人のおじいさんと言ってもいいような風貌だ。話すと日本語が達者だ。本人も中国語より日本語のほうが話せるという。今回は筆者以外に二人の日本人で、それを聞いて少し嬉しそうだ。一緒に写真などを写す。

民宿からの眺め、千里眼山や清水大山は残念ながら雲の中だ、左下に大同部落が見える
清水断崖が霧の中に見える
15時に、今回のメンバー中まだ立霧山を登ったことがないメンバー6名を連れて、出発する。民宿後ろから登っていく。土の道は、とても滑りやすい。20数分登り、稜線にあがる。ここは高度差1000mの断崖の上部である。下方には霧が晴れて太平洋と南方向には新城の街が見える。さらに遠くには花蓮の街も望める。反対北方向は清水断崖が海にストレートに落ちている。

海岸線沿いに新城やその向こうに花蓮の街が見える。
立霧山へ向かう
立霧山は、民宿から標高差100数十メートルで大したことがないと、たかを括っていたが、実はこちらの道はあまり歩かれていないようで、多くの倒木を乗り越えたりかなり大変だ。16時5分に頂上(標高1274m)に到着する。筆者にとっては二度目の登頂だ。10分ほどの休憩後、やってきた道を折り返のではなく、前回の時のもう一つの道を下る。こちら側も特に良いわけではないが、明らかに歩かれている程度が高い。16時48分、登山口に着き、右に先ほど通った道を、民宿へ登り返す。

たき火のそばでダーダオさんと談笑
17時に民宿に戻り着く。残ったメンバーは、たき火のそばでダーダオさんと話をしている。自分も夕食前の少しの間一緒に話を聞く。夕食をとっているうちに暗くなり、19時までにはメンバーそれぞれ就寝した。









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第二日 2月5日  達道之家 - 大同部落古老竹屋民宿登山口 - 千里眼山 - 登山口 - 砂卡礑步道 - 太魯閣遊客中心

二日目のルート、約18㎞
千里眼山を登ったあとは、高度差約1500mの下り

夜明け前に食事
夜中にかなり強い雨脚の音を聞いていた。4時前に起きて外に出ると、意外なことに星空だ。光害のないこの山の中では、星座が広がる。またたく星を見ていると、古人が星座を考えたのは、自然な成り行きだったと思う。それほど自然に何かを連想させる。4時半に朝食が出る。山登りにくる客がメインの民宿なので、こうした時間での朝食を出してくれる。

空が白んできた、対岸に三角錐山が見える
5時20分、ヘッドライトを使い出発する。ダーダオさんも握手をして見送ってくれる。昨日登ってきた道を下る。広い道なので暗くても問題ない。分岐から右に大同部落へ下っていく。約3㎞の道のりだ。6時を回り少し明るくなる。6時7分、砂卡礑步道の分岐を過ぎる。6時16分、千里眼山への登山口がある古老竹屋民宿に着く。不必要な荷物は、ここに置き身軽になる。民宿はいくつかの独立の小屋があるが、その一番表側の屋根のある場所に荷物を置く。そのうちに民宿の人がきて、荷物を置くことに快く承諾してくれた。

前方に千里眼山
千里眼を見ながら進む
6時30分、千里眼山に向けて出発する。いくつかの小屋の脇を登り、ステンレスタンクのところから山道が始まる。前方には目的地の千里眼山が朝の空に立っている。しばらく水パイプにそって登っていく。周辺は開墾された形跡があるが、今は農作物は植えられていない。7時過ぎ、竹林を過ぎたところで初めの休憩をとる。

急坂を登る
稜線から望む三角錐山
登るにつれ、後方の山も見え始める。すぐ近くのピラミッドは三角錐山、遠くのピラミッドは塔山だ。7時30分前、いままで開けた開墾あとと思われる場所が終わり、森の中に入る。同時に坂が勾配を大きく増す。ロープを取り付けた坂も現れる。サルオガセが樹木の枝に掛かり、高度が高いことを示している。急坂が終了し緩やかになった道を進み、7時50分稜線に上がる。稜線の東側は太平洋だ。樹木と通して海面が見える。

木々の向こうに千里眼山
ガレ場を登る、霧がでてきた
ほんの瞬間に清水大山の稜線が雲間に現れた
残念なことに霧が発生してきた。8時7分、岩場の開けた場所に来る。霧がなければ大海原が望めるポイントだ。平らな稜線道を10分ほど進み、頂上に向けての登りが始まる。8時29分、森がきれてガレ場に出る。ここも晴れていれば大展望ができる場所だ。メンバーの5名は、ここに残り霧が晴れるのを待つという。そこで残りの6名で頂上を目指す。すぐ上の別のガレ場では、青空が瞬時広がり清水大山の稜線が雲間に見える。また森に入り、最後の急坂を登る。急坂が終了し、緩い坂をすぎ8時49分に山頂(標高1624m)の三角点に着く。周囲は樹木で展望はない。休憩をとる。

千里眼山山頂のメンバー
雲間に海面が見える
9時10分過ぎ、往路を下り始める。霧は去来し、前方に立霧山が瞬時現れる。ガレ場の上部で少し霧が晴れるのを待つ。霧はなかなか去らないが、その間から下方に海面が望める。標高約1600mから望む海面だ。山側は、大同部落も大禮部落も瞬間見える。先ほど残った5名と合流、更に下っていく。霧は濃くなる一方で、この後の展望は難しいようだ。平らな稜線を過ぎ、急坂を下る。森を抜け道は緩やかになるが、泥の道は非常に滑りやすい。皆しりもちをついている。11時25分、登山口に戻る。ここでゆっくりと食事休憩をとる。

下りに眺める展望、雲がかかってきている
サルオガセ
12時10分過ぎ出発する。古老竹屋民宿のすぐ近くに、昨日達道之家で働いていた原住民のおばさんの家がある。この家の敷地には、日本時代の神社跡があるということで、見せてもらう。戦後取り壊され今は石の土台しかない。おばさんは自分で植えたミカンをみんなにくれた。皮が厚いが中身はとても甘い。メンバー一人が達道之家に忘れたものも、持ってきてくれていた。とても親切で人情に篤い。12時20分、別れを告げ下り始める。

小学校があったという場所に彩虹屋民宿が建っている
日本時代の神社跡、苔の土台と手前に最近建てられた太魯閣戦争の忠霊碑
砂卡礑步道を下る
12時30分、分岐を右にとり 砂卡礑步道を下り始める。少しの間は、林道と同じように舗装されているが、張家莊を過ぎると土の道になる。その先わずかで、平らな道は終わり急坂が始まる。大同部落がある台地から砂卡礑溪までの落差700mの下りの始まりだ。道は常に歩かれているので状態がよい。鉄梯子や橋が設けられている。12時56分、分岐にやってくる。直進する道は大禮部落へ続く。右の砂卡礑歩道は、入口にひもが引かれて入らないようにとの意味だ。ただ、我々は自分のリスクでこの道を取る。雨が降り出してきた。

大禮部落への分岐
三間屋に向かい最後の下り
ジグザグの道が続き、高度はどんどん下がっていく。13時28分、鉄の橋を過ぎる。橋は少し壊れているが、注意して渡れば問題ない。この道を通行しないようにさせているのは、この橋のためだろう。13時58分、もう一つの大禮部落への道を分ける。道標では大禮まで2.4㎞となっている。大同部落までは1.7㎞だ。右に三間屋まで0.7㎞となっている道を取る。下りはやはり急だ。沢音が聞こえてきてまもなく、14時21分三間屋に到着する。急な下り道はこれで終わりだ。休憩をとる。雨は止んだ。

三間屋で休憩
広い河原脇を行く、前方左にダムの給水口が見える
ここまでやってくれば、あとは安心だ。幅の広い河原の右岸を広い道が進む。現在は五間屋までが一般に開放され、三間屋との間はクローズとなっている。ただ、すでに流された道もほとんど復旧工事が終わり、まったく問題ない。五間屋からやってくるハイカーたちとも行違う。15時にダムの脇を通過する。このダムは日本時代1940年に立霧水力発電所への給水口として建設された。砂卡礑歩道は、このダム建設のために開かれた道だ。ここでも日本時代の遺跡が残っている。

渓谷の脇を行く、前方には岩をくりぬいた道が続く
導水管が谷を渡る
更に10分ほど行くと、岩壁をくぐりぬいてできた部分を通り過ぎる。今は手すりの工事が進行中だ。谷は幅が狭くなり、河床には大小の様々な色と模様の岩が転がっている。15時15分、太い導水管が谷を頭上を横切っている。先ほどのダムから引いた水を送るための導水管だ。また谷がひろくなり15時25分に五間屋に着く。ここから先は観光地だ。食べ物やなどが並んでいる。遊楽客も多い。我々もここで休憩をとる。

五間屋から最後のセクションを行く
砂卡礑橋
20分ほどの休憩後、最後の1.5㎞を歩き始める。また雨が降り始めた。谷は狭まり、岩をくり抜いた道が続く。当時のものと思われる碍子が岩壁に取り付けられている。ここはまさに渓谷を行く道だ。赤い砂卡礑橋が前方に現れ、16時10分歩道歩きは終わりだ。階段を登り橋の上に出る。そこから長い砂卡礑隧道をくぐり16時半、遊客中心に戻る。すぐに803番バスがやってきた。グッドタイミングだ。16時43分、新城駅につき、16時53分の自強号で羅東へ、さらに噶瑪蘭客運18時発のバスで帰京した。

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今回は、分類からすると中級山登山だ。しかし、今回は登山ということよりも、原住民太魯閣族のダーダオさんに会い、また土地の人たちの親切さにふれた、心の旅の意味も大きい。筆者が30数年前初めて台湾にきて暮らした頃は、日本時代の教育を受け日本語を話せる人が多かった。今はそうした日本時代の生き証人がとても少なくなっている。今後さらに少なくなる。そうしたタイミングで、訪れることができたのはとても良かった。二日とも雨に降られ、また展望ももう一つだったが、山での土地の人との触れ合いはそれを補って余りある。
メンバー全員@砂卡礑步道入口
千里眼山や立霧山を登ること自体は、天気のよいときは素晴らしい展望ができるので、それはそれでもちろん意義がある。千里眼山は標高1600mだが、ほぼその標高差を自分で二日かけて初めて歩ける山である。マーカーリボンなどがあるが、基本は経験者向けの山だ。二日で合計30㎞強歩いた。困難度はルート、体力ともクラス4だ。もし山に登らず達道之家だけを訪れるのであれば、それぞれクラス3というところである。

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