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2021-11-19

2021年11月6日~14日 晩秋の馬博拉斯橫斷縱走 寒波到来の九日間山旅

馬博拉斯橫斷縱走路,秀姑巒山(左)と馬博拉斯山を背景に馬利加南山へ登る隊員(二座の鞍部に玉山北峰)
約6年前に始めた台湾高山の登山は、今までだいぶ行ってきた。3000m超峰の中から選ばれた、いわゆる百岳も8割以上を登った。去年の新康橫斷縱走で常に北側に連なっていた馬博拉斯橫斷の峰々が今回の登山対象である。実は、去年秋もこの縦走路を歩くことを試み、東側玉里の中平林道を35K工寮跡まで歩いた。しかし天候が良くなく、そこで諦めて往路を下山した。今回は、西側東埔から登りはじめ、逆方向に玉里へ抜けた。多くの登山者は、西から東へ抜けるコースをとっている。

八通關山から望む 馬博拉斯山 (左)と秀姑巒山、最左に駒盆山
標高3000mを越える山を抱える台湾島の山脈は、北から雪山山脈、中央山脈、そして玉山山脈がある。中央山脈は、宜蘭蘭陽平野の南から立ち上がり台湾島南端まで伸び、実に全長500㎞、幅80㎞に及ぶ。台湾の背骨ともいえる。基本台湾島を南北に走る山脈は、途中でその方向を変え、東西に走る部分がある。馬博拉斯橫斷は、まさに横断という名前が示すようにその東西に走る部分を通過し、中央山脈を横断するルートである。中央山脈を南北に縦走するルートに対し、横断するルートは、ほかにも上記の新康橫斷やいわゆる南三段縦走もある。そのうちで、当横断ルートは、中央山脈中最高峰秀姑巒山〔標高3805m,台灣第六位)と二番目の馬博拉斯山(標高3785m、第七位)を越えていく。

九日間の軌跡
コロナ疫病のために、台湾の登山活動も制限を受けている。今年5月に感染が拡大し警戒レベル三級になり、多くの登山活動が休止した。その後、感染減少に伴い、レベルが下がり制限が緩和されてきているが、山小屋やキャンプ地は、その収容数が半減されている。本縦走も、管理している玉山國家公園へ入園許可を申請したが、その制限のためになかなか許可が下りず、出発前一週間前になってやっと入手できた。それは、今回9日間の活動中、出会ったほかのパーティが二組しかなかったことでも実感できる。

台湾中央山脈を横断する
活動期間半ばで、11月としては40年ぶりに訪れたという強力な寒波に見舞われ、寒さに震えた。また後半に冷たい雨にも出会い、手袋がぬれて指先がかじかむ思いもした。同日に玉山や雪山では冠雪があったという。標高がそこまで高くなかったので、雪にはならなかったのは幸いだった。10月雙十節連休時に襲来した台風のために、山岳では大量の雨が降り、大水のために最終日の沢沿いルートは、その被害を受け道筋も大きく変わっていた。途中でも、その大雨の爪痕を見た。そうした、困難もあったがパーティ全員で力を合わせ、安全に下山できたことは何よりだ。本来高山登山とは、こうしたものだ。晴れの日ばかりではない。それを十分に、でも身の安全の範囲で体験させてくれことに、感謝すべきだろう。

八通關山山頂のメンバー
本ルートの入口は、台湾南投縣東埔である。ここから八通關古道を進み、中央金礦山屋から古道を離れ中央山脈に登る。八通關古道は、先月初旬に玉山登頂の際に通過したばかりなので、身近に感じた。主稜線を北へ秀姑巒山と馬博拉斯山を越える。馬博拉斯山山屋から、一日を費やし駒盆山を往復し、その後東へと方向を変えた主稜線を馬利加南山へと進む。主稜線は、馬利加南山からまた方向を変え北へと進む。橫斷縦走路は、支稜をさらに馬西山と喀西帕南山を越え、太平谷の谷間に降り、そこから続く中平廃棄林道をへて花蓮縣玉里へ下山した。

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第一日 11月6日(土曜日)晴天 台北 - 台中 - 水里 - 東埔 - 八通關古道 樂樂山屋

東埔溫泉バス停から樂樂山屋まで
東埔溫泉に到着
ブヌン族原住民のリリーフと東埔吊橋
今回は、先月の玉山登山とは異なり、出発点と終了点が大きく離れているので、一般交通機関利用だ。週末の南へ向かう交通機関は、混雑する。入園許可が直前になって降りたので、台中へ向かう鉄道や高速バスは、すでにほとんど予約され満席だ。そんなことで、まだ残っていた國光客運6時発の高速バスで台北を出発する。約二時間半で台中に到着、ここで参加メンバーと合流、台中バスターミナル近くの、總達客運発着所へ向かう。11時に水里行バスに乗る。12時40分過ぎ、水里バスターミナルに到着。脇のコンビニで昼食などを求め、13時に員林客運のバスに乗車。14時少し前、終点の東埔溫泉バス停に到着した。
集落にある八通關古道入口
愛玉小站
下に愛玉小站を見て古道を行く
14時過ぎ、支度をして出発する。水など含め約18㎏のザックは重い。東埔溫泉とは反対方向に少し下り、公共駐車場わきから東埔吊橋を渡る。温泉観光地なので、吊橋や遊歩道はとてもよい。温泉から東埔部落へ向かう道に合わさり、14時半部落半ばにある八通關古道入口に着く。休日なので、入園許可のいらない雲龍瀑布までの古道歩きハイカーが多い。我々の大きなザックを見て、いろいろと尋ねてくる。しばらく急坂を登り、部落全体を右下に見ると、14時50分愛玉小站に着く。一休みし、愛玉をいただく。ここからは文明とはしばらくお別れだ。

古道は山腹に取りつく
岩を削って造った古道
15時8分、古道を登り始める。ここでも多くの下山してくるハイカーとすれ違う。八通關古道を歩くのは、上り下りをそれぞれカウントすると、今回で5回目となる。さすがに道のどこがどのような様子かはわかってくる。15時22分、父子斷崖を通過。陳有蘭溪が狭まり、道は岩壁に切り開かれた中腹を進む。木々が少なく、陽光に照らされ、汗ばむ。15時47分、今は閉鎖されている樂樂溫泉への分岐を通過。樂樂は日本語読みでラクラク、ブヌン族の温泉の意味だ。16時、3.5K地点の木陰で休憩をとる。
樂樂溫泉への分岐、閉鎖されている
狭まった陳有蘭溪の谷
3.5Kで休憩
更に登る
雲龍瀑布の下段が見えた
休憩後10分ほど進み、前方に雲龍瀑布が姿を現す。16時25分、滝の前を橋で越す。水量はそれほど多くない。この時間は、ほとんどハイカーは下山していて、二人が瀧脇にいるのみだ。雲龍吊橋を渡る。ここからが、玉山公園の管理範囲で、入園許可が必要だ。16時半、4.5Kポストを過ぎ、その先10分ほどで小沢を横切る。ここで水を補給する。
雲龍吊橋わきのメンバー、左奥に雲龍瀑布
玉山公園の警告板、ここから先は許可が必要
小沢で水を補給
崖崩れ部分
16時58分、5Kをすぎて間もなくがけ崩れに来る。左に高巻き道があるが、前に下って続く道は問題ないので、こちらを進む。古道に戻り、さらに数分進むと、樂樂山屋が左に現れる。3年前の南二段縦走時も、今日と同じバスで東埔に到着し、樂樂山屋にきた。小屋は誰もいないが宿泊には先約がある。そこで、テント設営する。17時半には、暗くなる。19時になっても、先約の登山者は来ない。しかし今更小屋に泊まる必要もない。そのままテントで夜を過ごす。

 樂樂山屋に到着
歩行距離6.5㎞を3時間(休憩込み)かけて歩いた。高度上昇583m、下降51m、コース定数は13となる。

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第二日 11月7日(日曜日)晴天 樂樂山屋 - 對高駐在所遺址 - 觀高坪 - 八通關

八通關古道を樂樂山屋から觀高を経て八通關へ
夜明け前の樂樂山屋
4時半に起床する。昨日コンビニで買っておいた握り飯などで朝食をすます。山小屋は結局誰も宿泊していない。結果的に、テントを張らずに小屋に泊っても問題はなかった。まだ夜が明けきらない6時少し前に出発する。道はすぐに高巻き道で急坂になる。八通關古道の大水窟西側の部分は、比較的高巻きが少ないが、それでも皆無ではない。粘板岩や千枚岩などの水成岩で構成された台湾の高山山脈は、日本統治時代から脆弱な地層に開いた道のがけ崩れが発生しやすい。
高巻きの急坂を登る
乙女瀑布の端を渡る
橋の下に鍋
急坂を登ること十数分で最高部を通り越し、下って本来の古道につながる。その少し先で、左に乙女瀑布を見て橋を渡る。6時54分、8.5Kを通り過ぎて数分で、水の流れる沢を橋で渡る。低い橋下の沢際には、鍋がいくつか転がっている。水場としての利用だ。さらにその先角を曲がると、天幕が張ってある。おそらく、工事の人間がここで宿泊しているようだ。焚火跡もある。
古道上に天幕
橋を渡って進む
整備された道
7時24分、9.5Kを見て間もなく整備されている道を見る。先月は、崩れた土砂で埋まっていたセクションが、土砂が取り除かれ、土砂を入れた網袋を積み重ねて崩れ防止としてある。先ほど見たキャンプの工事人が作業したもののようだ。国家公園なので、その予算でこうした道整備がなされているということだ。歓迎だ。
道脇にベニヒの巨木
陽光が当たりだした谷間
對高駐在所跡で休憩
道は、沢を越えていく。谷間にに朝陽が当たりだす。高度が上がり2000m台になったので、ベニヒ(紅檜)の巨木が現れ始める。この道が約100年前に切り開かれたころは、どのぐらいの大きさだったのだろうか。少し崩れ、道に土砂がのっかっている場所を通り過ぎる。いずれは、整備工事で平らになるのだろう。7時55分、對高駐在所遺址に着き、休憩をとる。

下巻き道の脇に階段用板が置いてある
八通關山主峰(左)と西峰
8時40分、下巻き部分入口に来る。道脇には、新しい階段用の板が積み重ねてある。下りきり、急坂を登り返して古道に戻る。幾重にも重なる山襞を回り込んで進む。突如朝陽の中に八通關山主峰と西峰のツインピークが聳え立つ。そのうち右に玉山北北峰の岩峰も青空を背景に現れる。また、深山に入ってきたのを実感する。9時2分、12.5Kを通過し、すぐ右に一張りだけテントが張れそうな平らな場所があるところで、休憩をとる。

道脇の平らな場所で休憩
道の上に土砂
13Kのヒノキ
所どころ、道に土砂がのっている場所がしばしば現れる。9時27分、ヒノキ大木がある13Kサインをみて間もなく、道はニイタカアカマツ(二葉松)の林を抜け、崩れ部分もなく良い道になっていく。八通關道路が開鑿されたころとあまり違わないだろう。谷を挟んだ対岸に、玉山北峰山頂が高い。気持ちの良い道に思わず足も進む。ニイタカシャジン(玉山沙參)がまだ青紫の花をつけている。10時8分、日差しあふれる觀高坪が現れる。テントが一つ張ってある。休憩をとる。
アカマツの下を行く
道脇のニイタカシャジン
觀高坪の小高い場所に上がる。東には、二日後に登る秀姑巒山から馬博拉斯山への稜線がくっきり空を画す。反対西側は、玉山北峰から北北峰、そしてそこから緩やかに下る尾根が連なっている。それらはみな、富士山よりも高い台湾の高峰群だ。20分ほどの休憩後、出発する。数分で、旧道と左へ進む高巻き道との分岐を過ぎる。今回も旧道を経て八通關へ向かう。

觀高坪、右の山は玉山北峰と北北峰
館高坪から見る秀姑巒山(右)と馬博拉斯山
旧道(右)と高巻きとの分岐
旧道も前半は問題ない
大きく崩れたことで、高巻き道が開かれ、玉山公園は通行しないようにという警告看板もある旧道だが、経験ある登山者にはそれほど通行困難ではない。もちろん自分の責任で進むのは当然だが。八通關山のすそ野をまいていく道は、陳有蘭溪の上流上部でもあり、視野が換わり、玉山北峰下の壮絶な金門峒斷崖が視線に入る。断崖のすぐ上に、かろうじて残っている草原は八通關草原の一部だ。そしてその上には、玉山主峰と東峰がその頭を見せる。

金門峒斷崖とその上に玉山北峰、左に主峰と東峰
大崩れで道が下る
警告板の分岐から20分ほどは、程度は少し落ちるものの、何の問題もないよい道だ。11時11分、初めの大崩れ部分に来る。大きく水に流され崩れた沢に下り、登り返す。振り返れば、崩れた谷の向こうに群大山も姿を現す。全員がギャップを登り切りさらに数分進む。階段が現れ、11時32分、登り詰めたところで休憩をとる。
大崩れ部分、遠くに郡大山
小さな崩れ部分を通過
ひっくり返った橋の脇を登る
崩れた場所があるものの、問題なく数分進む。11時56分、またギャップに来る。本来の鉄橋がひっくり返った姿を晒し、いかにも大変なように見える。そのわきにロープが架かっている急坂を登り、通り過ぎる。急坂が現れ登っていく。登り切り、その先に三番目の大崩れが現れる。ザレがざらざらを流れていく箇所を過ぎる。振り返れば、視野が換わり郡大山の奥に西巒大山へと連なる山々、郡大溪の谷間、そしてその東には、三日後に訪れる予定の駒盆山も望める。

最後の大崩れ部分を登る
大崩れ上部から遠望する、左は郡大山
八通關草原へ下る
更に崩れた場所を通り過ぎ、間もなく森に入って、12時32分高巻き道との分岐に着く。ここにも警告板がある。現在はすでに玉山公園管理外になる旧道は、正式なメンテが行われない。今後大きな災害があれば、通行は不能になるかもしれない。分岐のある小高い場所から下れば、今日のキャンプ地八通關は目と鼻の先だ。12時42分、八通關0K起点を過ぎ、2,3分でキャンプ地の台地に着く。太陽は燦燦と照らし、実に気分が良い。
八通關0K
八通關キャンプ地
門が残る八通關駐在所跡
水場で水を汲む
設営をすまし、水場へと降りる。緩やかな草原には、水鹿の糞がたくさんある。先月と同じ場所で、また一晩過ごせるのは実に感激だ。付近を少し歩くが、ここにある空ビール瓶などは、ほかの遺跡とは違い日本時代の物はほとんどないようだ。重要な駐在所だったので、いろいろあったはずだが、すでに大部分が持ちされれているのだろう。山の天気は変わりやすい。そのうち霧が出てきて視野を遮る。夕方になると、また晴れて星が瞬く。19時までには就寝する。
霧が出てきた
道のり10.2㎞、累計登坂1200m、下降53m、休憩込み行動時間6時間50分。コース定数は27となる。標高約1660mの樂樂山屋から約28000mの八通關まで半日の歩きで、がけ崩れ分を除き、ゆっくりとした登りでそれほどの苦労は感じなかった。道が良かった日本時代は、東埔から八通關まで一日で来ることも、まったく問題なかった。

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第三日 11月8日(月曜日)晴天 八通關 - 八通關山往返 - 中央金礦山屋 - 白洋金礦山屋

八通關から途中八通關山を往復白洋金礦山屋へ
八通關から右へ古道を進む
夜中にキョンという鳴き声と、大きな動物が歩き回る気配を感じた。おそらく水鹿がテント近くまでやってきたのだろう。4時に起床し、5時半に出発する。日の出前の陽光が雲を茜色に染める。昨日通り過ぎた分岐へ戻る。そこから八通關山のすそ野をまいていく、平らな道を進み始める。まもなく高巻きの標識を見て、左に登りが始まる。幸いこの高巻きは大したことなく、数分で沢わきの本道に戻る。
高巻き道から古道に戻る
一晩過ごした八通關を見る
アカマツ林の道を行く
対岸の山に朝陽が当たる
6時7分、右下に明るくなってきた八通關草原のキャンプ地が見える。古い当時の写真に写る八通關駐在所はこの辺りから写したものか。今は、育ったアカマツの枝が邪魔をするが。まもなく、対岸の山の上部が赤く輝きだす。アカマツ林を行く八通關古道は実に快適だ。ほとんど上り下りがない。日本時代の警備道は、等高線にそって開鑿された、という記事を見る。まったく等高線に沿っていては、上下できないので非常に緩い坂で作られているわけだが、ここは中央金礦山屋までまさに等高線に沿って進む。

塔芬尖山
玉山東峰
松葉を踏んで前進
6時28分、八通關から1.5K地点付近で衣服調整も含めて休憩する。少し進み、開けた場所から鈍い尖峰の搭芬尖山が、荖濃溪の谷の向こうに見える。そしてさらに右に稜線を伸ばし、雲峰まで見える。振り返り見上げれば、玉山東峰の岩峰がひときわ高い。平らな道は軽快に前進する。右の谷はだんだん深くなっていく。6時52分,2.5Kを過ぎて間もなく、少し壊れた丸太橋を過ぎる。もともとの丸太橋は鉄製の新しい橋にかなり取り換えられているが、ここはまだ。左の山壁から流れる沢は次々と現れ、水場には苦労しない。
丸木橋を渡る
新しい橋の脇に以前の丸木橋
八通關山登山口
アカマツの急坂を登る
7時、八通關山登山口(標高約2840m)につく。別パーティの荷物と留守番の二名がいる。南二段縦走を終え、今日中に下山するということだ。軽装になり、急坂を登り始める。3335mの山頂まで約500mの高度差だ。すぐに登頂を終えた三名とすれ違う。アカマツの間を行く登山道は、どんどん高度が上がり、周辺の山が姿を現す。7時38分、約250mほど登ってきた地点で振り返ると、前を遮っていた山はすでに下になり、南二段の山々が脈々と続く。雲峰の右肩遠くには、三角ピークの去年縦走した南一段の關山が姿を現す。

南二段の雲峰の右に關山
岩壁の八通關山が現れた
7時52分、荒々しい岩壁に守られた八通關山山頂がアカマツの枝先に姿を現し、間もなく八通關山西峰からとの分岐点を過ぎる。8時15分、尾根上に上がる。展望は開け、西側には玉山山脈が連なる。北側には、陳有蘭溪の谷間が長く続ている。同富近くの赤いアーチ橋まで見える。実に天気が良い。尾根上を東に進み、少しの岩場を通過すると、山頂だ。時刻は8時34分、登山口から約1時間半だ。

陳有蘭溪の谷間を見下ろす
玉山を背後に八通關山山頂を目指す
八通關山山頂から東を望む、左から馬博拉斯山,秀姑巒山,大水窟山
郡大山から西巒大山への山並み、手前鞍部に觀高登山服務處の建物
郡大溪を挟んで西/東郡大山、手前の低い平らな山頂が駒盆山、右の大きな山は馬博拉斯山
南側は南二段とその奥に新康橫斷の峰々が連なる、最右には關山
山頂の筆者
4年前の夏、八通關古道の全線を歩いたとき、觀高を出発し、西峰を越えてここに来たときは、ガスってしまい全く展望がなかった。今日は、想像した山並みが目の前に展開する。北には、馬博拉斯山、秀姑巒山、大水窟山の三山が並ぶ。馬博拉斯山から左に降りる尾根の向こうには駒盆山が丸い頭を見せる。その奥は、東郡大山などの南三段の山々だ。視線を転じて西を見れば、そこには玉山の南峰から東/主峰をへて北峰へと続く玉山がデンと座っている。南峰をさらに左に追えば、不遇の 3000m峰玉穗山が關山の前に存在を訴えている。南二段稜線の向こうには、三叉山から新康山へと続く峰々も姿を示す。足元には觀高の林務局旧宿舎などの建物も望める。ここは、実に素晴らしい山岳展望台だ。
岩場を下る
玉山を前面にみて稜線を下る
9時17分、気づかずに40分もいた山頂を後にする。再び訪れる可能性は少ないが、悔いはない。急な坂は、下りは速い。9時33分、西峰への分岐を通過。この時期でもまだ花を残すコダマギクを見る。10時に登山口に降り着く。下りは43分であった。小休憩後、10時15分再び重いザックを担ぎ歩き始める。10時45分、4.5Kにあるバナイコ(巴奈伊克)駐在所跡を通過する。古い山小屋は大分壊れているが、その前下の平らな場所に設営することもできる。水はすぐわきにある橋の元の沢から汲める。
まだ花をつけるコダマギク
古道を行く
岩を切り開いた古道
バナイコ駐在所跡、古い山小屋が残る
ここから右への道はもう廃棄同然
11時2分、山の鼻を回る。道しるべにはすでにないが、以前はここからいったん沢に下りまた八通關古道へと登り返す道があった。地図にはあるが、もう歩く登山者はいないだろう。それもあって、道しるべも変更されている。道は、変わらず平らで、いくつかの橋を越えていく。11時20分、大きながけ崩れ部分を通過、さらに進むこと数分で小沢を渡って登り返し、中央金礦山屋に着く。三年前に一泊した小屋だ。その時は寒かった小屋も、今はあふれる陽光の小屋前のテーブルは、とても暑く小屋の軒下で昼食をとる。
崖崩れを過ぎると中央金礦山屋はすぐだ
中央金礦山屋
長い登りを行く
12時7分、歩き始める。標高約2850mの中央金礦山屋から、今日の目的地白洋金礦山屋までは、500mほどの標高差を登らなければならない。今までの平らな道とは違い、苦労の始まりだ。単に登りだけでなく、水が流れるジメジメした枯木が塞ぐ場所など、さらに苦労を強いられる。天気が良く、陽光が森の中を照らすのが救いだ。13時10分、7Kを過ぎると、厄介な鎖場やロープのセクションが終わり、しばし緩やかな道となる。その先で休憩をとる。
小沢を越える
急坂を登る
山腹を行く、背後に玉山と八通關山
少し急な坂を登りつめ、また緩やかな道が山腹をぬっていく。山襞に沿って行き、樹木が少なく日差しに晒されて、ここも前半と違う要素で苦労する。登るにつれ、高度が上がったので、谷間の向こうには玉山連峰や、先ほどのぼった八通關山も見え始める。14時6分、8.5Kを過ぎその少し先で休憩をとる。
日差しの下の登りはつらい
登りもあと少し
玉山小米花
14時45分、9.5Kを見て急坂が始まる。日当たりに玉山小米花の小さな花が咲いている。十数分登り、スレートを積み上げて作った、土地公祠を見る。神像はすでになく、石が置いてある。当時は、金鉱で働いていた鉱夫たちの心のよりどころだったはずだ。さらに2,3分登り眼前に白洋金礦山屋(標高3370m)の白い壁がに西陽にまぶしく現れる。メンバーは次々に登ってくる。この山小屋は、我々だけだ。水場がこのすぐ裏にある、水が豊富に流れている。窪みの向こうは金鉱坑道入口だ。
土地公
白洋金礦山屋
陽があたっているうちは、まだ温かい。みんな小屋前に濡れたものを干す。16時半過ぎに夕食をとる。17時少し過ぎに、太陽が玉山の稜線に沈む。夕陽が、大空の雲を赤く染める。電波を届く場所で確認した天気予報では、寒波がやってくるという。三日間は素晴らしい天気だったが、これからどうなるか。19時までには就寝する。

小屋裏の水場と廃棄金鉱坑道入口
玉山の稜線に陽が沈む
距離10.8㎞を休憩込みで9時間半で歩いた。登坂は1128m、下降578mである。コース定数は32だ。前半は楽だったが、後半白洋金礦山屋への登りは少し骨だった。









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第四日 11月9日(火曜日)曇天 白洋金礦山屋 - 秀姑巒山 - 馬博拉斯山屋

秀姑巒山を越えて馬博拉斯山屋へ
ザレ道を秀姑坪へ登る
秀姑坪の分岐
昨日は、穏やかでとても素晴らしい夕陽を見せてくれた。今朝は、風が吹いている。空は雲が多い。4時半起床、5時半出発だ。山小屋泊りで、テント撤収がないので助かる。未明のザレ道を登る。背後の玉山は八通關から雲が吹きあがっている。5時58分、秀姑坪の分岐へ着くころには、ヘッドランプは不要になる。稜線上のこの分岐は、右へ行けば南二段、左に行けば馬博拉斯橫斷の分岐だ。

朝陽を受けて雲が炎のように赤く染まる
玉山も朝陽を受けて赤く染まる
枯れたビャクシンの枝
尾根の向こう、東側から昇ってくる陽光を受けた雲は、まるで炎のように赤く燃え上がる。これは天候変化の兆しか。朝陽を受けた草原も、赤く燃える。枯れたビャクシン(圓柏)の枝がまるで白骨のようだ。2、300年前に火事で焼失したビャクシンの原生林は、低い灌木と枯れて白くなった樹幹だけだ。6時25分、道が稜線を越えて東側になるその地点で休憩をとる。

秀姑坪を行く、玉山には笠雲がかかる、左は大水窟山
雲海が谷を埋める、右に新康山
頭上の雲層は厚く、東側の谷間には雲海が白く埋める。時々、雲が風にあおられ、谷間の雲海と上層雲との間を白いベールでつなぐ。雲海の対岸には、四日後に歩く馬西山から喀西帕南山へと続く山並みが浮かんでいる。高い中央山脈主稜線に遮られ見えなかった東の山々が姿を現す。雲海の南岸には、新康山がその将棋の駒のような頭で存在を示している。

山腹を下り気味に進む

ビャクシンの森を行く
山道は、大きな山容の秀姑巒山の東側を下り気味にへつって進む。所々露岩のトラバースを過ぎる。そのうち、道は方向を変えた山腹を登り始める。道脇にはキオン(黃苑)の黄色い花が目を引く。ビャクシンの森は、低い灌木となり、9時34分右に山腹を進む道を分ける分岐(標高約3610m)に来る。道しるべは秀姑坪へは1㎞、山頂へは0.7㎞と示す。
キオンの花が残っている
風を避けて灌木間で休憩
高度が上がり、上層を覆う雲の中に入ってきたようで、周囲は霧が濃くなる。すでに森林限界を超え、ビャクシンは地上を這う。岩が多くなり、8時24分濃霧の中で山頂へと続く尾根に上がったことを知る。晴れていれば、山頂は目と鼻の先だろう。さらに数分、強い風の中を進み、8時30分山頂の標識を見る。
山腹巻き道との分岐
秀姑巒山山頂
風を避け、ビャクシンの脇で休む。メンバーは元気に写真を写している。そのうち、突然霧が切れて青空が見える。急いで周囲の風景を観察撮影し、集合写真を写す。玉山はほぼ雲に隠されている。その頭には笠雲が出ている。馬博拉斯山は姿を現しては、すぐに隠れる。ここからの展望は、残念ながら期待できない。前回に続いて、十分な展望ができないのは残念だ。しかし、濃霧が一時でも切れて、青空がのぞいたことに感謝すべきなのかもしれない。

瞬時雲が腫れて西側の景色が現れる
玉山は笠雲をかぶっている
赤く紅葉したヘビノボラズ、背後は馬博拉斯山
9時、下り始める。晴れていれば、前方に大きな馬博拉斯山を見ながらの下りだろうが、しきりに尾根を越えていく雲に隠れている。八通關草原ではまだ緑だった、ニイタカヘビノボラズ(玉山小櫱)は、すでに真っ赤に紅葉し常緑のビャクシンと対をなす。9時25分、道は東側に下り、骨組みだけが残る旧山小屋の分岐に来る。ここから、先ほどの南側へ山腹道が分かれるが、二年前にこの道で滑落死亡した遭難事件が発生している。その時は雪だったそうだ。

廃棄山小屋の残る分岐
ビャクシンの森を抜ける
雲に隠れる秀姑巒山を背後に下る
鞍部までまだ距離がある
稜線道は濃霧の中を下っていく。途中でしばしばビャクシンの森を抜ける。地面は緑の苔が敷き詰められ、くねくねと曲がるビャクシンの樹幹や枝と相まって、おとぎの国の森の様だ。10時も半を回り、標高も3600mを切ると、雲から抜け出て前方に雲をいただいた馬博拉斯山が次第に高くなっていく。10時39分、ロープの架かる岩の急坂を下る。また、二、三度ビャクシンの森を抜けていく。キオンはすでに花が枯れて、白い種がまた別の花のように群生している。11時前、その森の一つで休憩をとる。
ロープの岩場を下る
石瀑を横切る
枯れて種だけのキオン
ビャクシンの森で休憩
ヤタケの間を下る
更に下る。ニイタカセキチク(玉山石竹)が一輪だけ最後の紫の花をつけている。厳しい季節はもうすぐそこだ。現れたヤタケをぬけ、11時34分最低鞍部を通過する。石に3434m最低鞍部と記してある。これから長い登りの始まりだ。まもなく大きな石の石瀑を過ぎ、馬博拉斯山へ1.4Kポストを見る。こちら側もビャクシンの灌木帯や森林帯をぬけていく。12時20分、風の当たらない場所で休憩をとる。最低鞍部から高度差の半分以上約150m登り返した。
最低鞍部を通過
石瀑を登る、まだまだ高い

馬博拉斯山屋への分岐
更に登る。13時5分、馬博拉斯山への分岐(標高約3730m)に着く。馬博拉斯山は遠くないが、明日駒盆山への往復の際に通過する。今日は右に、山小屋へ下る。高度が上がったので、また雲の中。周囲は霧で遠望はない。13時18分、山小屋まで0.4㎞の標識を見る。霧のビャクシンの森は幻想的だ。13時30分、馬博拉斯山屋(標高3570m)に着く。二日過ごす、山の砦だ。

山小屋へ下る
馬博拉斯山屋
扉を開けて中に入ると、協作が一人いる。一階部分は前客がシュラフや荷物を広げている。駒盆山に行っているそうだ。わわわれは一部二階に上がる。休んでいると、16時過ぎに三人パーティが戻ってくる。小屋はひと時にぎやかになる。17時過ぎに小屋の外の展望できる場所に行く。新康山が雲海の向こうに浮かぶ。左には、馬西山と布干山が前方の山稜の向こうに並んでいる。上には、ぶ厚い雲層。寒波が入ってきている現象か。寒さを感じ小屋に戻る。明日は長丁場だ、食事後18時に点灯した灯火を消し、19時までには就寝する。
小屋の近くから眺める、上層雲が厚い
左に馬西山や布干山、右は新康山
行程5.6㎞と、距離は短い。登坂731m、下降500mとこれも少ない。所要時間はそれでも7時間50分を費やした。コース定数は23である。寒波が到来しはじめ、寒く風が強かった。

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第五日 11月10日(水曜日)曇天 馬博拉斯山屋 - 馬博拉斯山 - 駒盆山 - 馬博拉斯山 - 馬博拉斯山屋

馬博拉斯山を越えて駒盆山を往復
濃霧の中小屋を未明に出発
山旅も今日が折り返し点だ。朝4時に起床、5時に軽装で出発する。小屋の外は濃霧だ。まだ日の出までには時間がある。ヘッドランプを頼りに、昨日下ってきた道を登る。半時間ほどで、秀姑巒山への分岐を通過、馬博拉斯山山頂へ向かう。6時濃霧の中の山頂に到着。周囲は明るくなり始める。風が強く、すぐに下り始める。周囲の低いシャクナゲ(玉山杜鵑)などの樹木は、霧の水気でぬれている。出発時から雨ズボンを穿いてきている。強風から守るためにも大切だ。

霧の中の馬博拉斯山山頂
濃霧の道を下る
ほぼ尾根沿いに下る。灌木のあるところは良いが、それが切れると風を感じる。今日はこのまま下って行って、大丈夫だろうか。不安が頭をもたげる。6時50分、風のない場所で休憩をとる。さらに下っていく。7時半、携帯が繋がるところに来る。山頂でも標識がありつながるはずだが、霧が濃いためだろう、ほぼダメだった。早速気象情報を確認する。寒波でこのような霧だが、全体が大きく崩れる様子はない。レーダー反射図でも雨雲は近くにない。そこで、予定通りにへ行くことを決める。もし風雨が強くなるような様子では、帰りに大変な苦労になる恐れがあるので、状況が悪ければ中止も考えた。

携帯電波アクセス可能地点で天気予報を確認
草原を下る
二日前には八通關山からくっきり見えていた尾根を、今は濃霧の中を進む。そのうち草原の中を下っていく。8時、高度は3250mまで下がり、雲層からでて遠方が見えるようになる。つまり今日の気象は、寒波がもたらした冷たい空気が3300mぐらい以上に雲をつくっている、ということだろう。さらに20分ほど草原を下る。前方に目的地の駒盆山とその右手前に駒盆山中峰が緩やかな頭を並べている。目的地が見えると、気持ちは楽になる。
前方に駒盆山と中峰(右)が見える
更に草原を下る
草原の鞍部
アカマツ林を駒盆山中峰へ登る
台地状の草原から下り、8時38分広い谷間の草原を過ぎる。駒盆山中峰への登りが始まる。アカマツ林の間の道を登ること30分、道は山頂へ向かわず左に巻いていき、また少し下る。ゴルフ場かと見まがうぐらい広い草原を過ぎ、駒盆山へ最後の登りを行く。振り返れば、やってきた尾根もその上の馬博拉斯山も見える。そしてその右には秀姑巒山がある。太陽が昇り気温が上がって、雲層が散逸したのだろう。9時35分、アカマツに囲まれた駒盆山の山頂(標高3022m)につく。三角点がなければ、山頂という感じはない。5時に出発して、約4時間だ。

ゴルフ場のような広い草原を横切り駒盆山へ
背後の山が姿を現す、最左は馬博拉斯山
平らな駒盆山山頂
駒盆山三角点
駒盆山は、盆駒山とも呼ばれる。「百岳」によると元来群大溪に生活していたブヌン族の言葉で、この山はウマボンゴと呼ばれた。それを日本語読みで漢字を当て、馬盆駒と書かれ、それがそのうちに馬が取れたりして、今の名称になったという。台湾の、特に原住民の領域であった山の名前は、その地元民の呼び名を伝える際に、このように漢字に置き替えられたものは、その後変化があるものもある。漢字に換えずにカタカナで記述していた山名は、その後日本が去ると漢字をあてられた。

時々青空がのぞく
広い草原を戻る
駒盆山をあとに、中峰へ登り返す、
40分ほど山頂で過ごし、10時14分帰路に着く。時々青空が雲間にのぞくが、すぐに隠れる。今日は、天気がこれ以上良くなる可能性はないようだ。帰りは700m以上の登り返しだ。その前に、中峰への登りもある。思うとうんざりする。百岳が選出されたころは、当山のすぐ西に群大林道が通っており、林業関係の車に乗ればそのまま下山できた。林道はとおの昔に廃棄され、今ではこのように高所から降りてまた登り返すしかない。台湾の百岳には、このように時代の変遷で登山道が大きく変化しているものが少なくない。
台地を登りかえす
広い尾根の西側を登る、駒盆山もう低い
草原の登り、右下に水鹿の白骨
11時、駒盆山中峰から下り、長い登りが始まる。途中で一度休みをとり、急坂を登りつめ、台地状の草原に出る。道は、幅のある尾根の西側断崖近くを登っていく。振り返れば駒盆山は、もう低い。往路では霧が薄れ始めた場所では、朝には気づかなった水鹿の白骨を見る。ニイタカトドマツ(冷杉)の林を抜ける。そしてまた草原を進む。登りでなければ、実の楽しいだろう。薄日もさしてきた。草原の向こうには、東群大山の山並みが連なる。12時20分、道は左に曲がり、右には秀姑巒山が屏風のように立ちはだかる。
ニイタカトドマツの林を登る
馬博拉斯山はまだ遠い
北方向を望む、正面に西巒大山,右に無雙山
眼前に秀姑巒山
馬博拉斯山を正面にみて前進
鹿野忠雄は、その「山と雲と蕃人と」の中で秀姑巒山や馬博拉斯山の登山記録(1931年)を記している。その時は駒盆山南峰の上から南へ馬博拉斯山の危険な斜面をトラバースし、秀姑巒山との鞍部へ出ている。その後別の機会に、馬利加南山登頂後、馬博拉斯山をもう一度登り、我々が歩いている馬博拉斯山から南峰をへて駒盆山へ戻り、無雙の駐在所へと下った。つまり、我々が歩いているこの尾根道は、彼は90年前に登り下りしているわけだ。
駒盆山南峰を越え進む
また霧の中の登りになる
天気が良いと、気分も軽い。12時50分、駒盆山南峰(標高3435m)の脇を過ぎる。道は山頂を通らない。馬博拉斯山への急坂が始まる。先ほどまでは良く見えていた山頂は、雲が去来し始める。ニイタカトドマツ林を過ぎ、低い灌木の坂道となる。風が次第に強まり、灌木のないところでは歩きづらい。気温は0度に近いようなので、体感温度はおそらく零下だ。14時に風の当たらないところで休憩をとる。
山頂を目指し急坂を登る
よく見ると、ビャクシンの枝に白骨が混じる
濃霧の中の登り道
大石のセクションを通り越し、14時50分ついに馬博拉斯山山頂に登りつく。濃霧で残念ながら展望は皆無だ。早々に下山を始める。15時10分、分岐を通過。15時半,馬博拉斯山屋に着く。昨日同宿だったパーティはすでに旅立ち、今日は我々だけだ。先ほど濃霧の中で風にあおられ、とても寒い。シュラフに潜り込み、温まるのを待つ。小型ザックで往復したが、入れるべきダウンジャケットを忘れたため、体温を奪われたのだろう。低体温症までとはなっていないだろうが、反省すべき点である。

馬博拉斯山山頂のメンバー





18時半、シュラフからでて夕食を準備し食べる。体が温まり、20時までには就寝する。往復13.3㎞、累計登坂1322m、下降1320m、所要時間は10時間20分であるコース定数はいみじくも37である。

霧のビャクシン林を過ぎれば小屋はすぐだ







馬博拉斯は、カタカナでマボラス、本来ブヌン族の老人を意味する言葉だ。そしてこのマボラスは、本来秀姑巒山のことである。秀姑巒山は冬白く雪をかぶり、老人を連想させることからだそうだ。馬博拉斯山は、ブヌン族の山名はウラモンである。なぜこのような名づけ違いがい起きたのか、それは日本時代に作成された蕃地地図に誤記されたことによる。既にこの呼び名が一般的になり、その後訂正されることなく今日に至っている。








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第六日 11月11日(木曜日)晴天 馬博拉斯山屋 - 烏拉孟斷崖 - 馬利亞文路山 - 馬利加南山 - 馬利加南東峰山屋

ウラモン断崖、マリガナン山を越えて馬利加南東峰山屋へ
厚い氷
昨晩は、山小屋の中でもはく息が白く、とても寒かった。4時には目が覚める。雨水のタンクから出る水を受けるバケツには厚い氷が張っている。昨晩は零下になったようだ。寒いわけだ。気温は低いが、空は快晴。昨日の苦労や疲れが吹っ飛ぶ。6時過ぎには準備ができ、出発する。

左に布干山、中央に新康山、右に秀姑巒山がオレンジ色の朝陽に染まる
馬博拉斯山
朝陽の中の馬利加南山
小屋わきの広場から、朝陽のドラマが展開する。東の尾根から姿を見せ始めた太陽は、すっかり雲を脱ぎ払った秀姑巒山をオレンジ色に染める。こんなに近かったのかと驚く。目で尾根を追っていけば、馬博拉斯山が高い。拉庫拉庫溪の谷を埋め尽くす雲海に浮かぶ新康山列峰は、海を進む軍艦のようだ。

朝陽のビャクシンの森
ニイタカトドマツの森から出る
ビャクシンの森をぬけると、これから進む尾根筋が現れる。前方には、岩のコブが盛り上がった馬利加南山が逆光気味の中、他を抑えてひときわ高い。ビャクシンの森や灌木帯をどんどん下り、6時50分ウラモン(烏拉孟)断崖の入口に来る。ブヌン族の馬博拉斯山を示す山名ウラモンは、この断崖に残っている。かなり大きな範囲で崩落が進み、両側が切れ落ち、本縦走路中の難所である。核心部にはロープが何本もかけられている。

ウラモン断崖入口
逆光の中難所へ踏み出す
昭和12〔1937)年夏に、千々岩助太郎一行が大水窟山から中央山脈を北上、丹大山へ縦走している。その際に、ウラモン断崖を通過している。千々岩の「思い出の山々」の中で次のように記している。「...9時50分山地名オフハラの断崖に到着。地形図3,488m峰(山地名マリアブ・ブンヌル)の西側の崖であるがこのコース中の最大の悪場である。...ざらざらの粘板岩に足場を刻みながら進む。」千々岩自身は、ここで滑落してしまった。幸いにすぐ止まり大事には至らなかった。上記ではオフハラの断崖と呼んでいるが、今日のウラモンである。

前半部を進む
何本ものロープが架かる核心部
確かにザラザラのザレが一面に広がる悪場だ。常に浸食を受け、形は変わっているのだろう。前の部分を越し最低部の核心地まで下り、急な坂を上り返す。最近は多くの登山者が歩いているので、踏み跡はしっかりし、自分で足場を蹴りだす必要はない。今日は天気もよく、心配も少ない。
核心部通過中のメンバー
烏拉孟斷崖全景
ウラモン断崖終了点
全員が通過し、ニイタカトドマツの森を挟んで、まだ悪場はつづく。7時38分、烏拉孟斷崖出口の表示を見る。最も困難なセクションはこれで終わりだ。馬利亞文路山へ向けて登る。途中尾根左側がパックリ口を開け、ウリバンホル(烏利班霍爾)溪へ切れ落ちている。ここでも、大規模な崩壊が進行中だ。谷の向こうには、東群大山の山並みが屏風のように立ち並ぶ。
稜線北側はウリバンホル溪へずっぱり切れ落ちる
馬利亞文路山へ登る
馬利亞文路山はもう少しだ
つかむと痛い針の刺柏も混じる灌木帯や、ニイタカトドマツの森が次々と現れる。振り返れば馬博拉斯山が両側に羽を広げて高い。8時25分、ひだまりで休憩をとる。悪場を通り過ぎたのでホッとする。今日は穏やかな快晴、昨日の強風や濃霧が、まるで悪夢だったかのようだ。途中の小ピークを一つ一つ越していく。登るにつれ、周囲の山が低くなり、秀姑巒山と馬博拉斯山との鞍部から玉山北峰が頭を現す。8時56分、馬利亞文路山山頂(標高3483m)に着く。

馬博拉斯山(右)からだいぶやってきた
馬利亞文路山山頂、左に馬利加南山、正面中央に馬西山と布干山
たおやかな稜線を馬利亞文路山東峰へ
烏拉孟斷崖を背景に登る
20分ほど過ごし、たおやかな稜線道を進む。前方は、南三段の山々が長く屏風のように続く。今年の夏、もしコロナ疫病がなければ訪れる予定だった。10日を要する南三段縦走は、来年できるだろうか。今までの台湾高山歩きの中で、唯一残っている長期縦走路である。低い灌木やヤタケの草原しかないこのセクションは、実に展望台を行くようなものだ。先ほど通り過ぎたウラモン断崖が、馬博拉斯山からくだってくる尾根上に、灰色の異様なさまを示す。9時44分、馬利加南山東峰山屋へ5Kのポストを過ぎる。いくつかの小ピークを越してきたあと、9時57分、馬利亞文路山東峰(標高3444m)山頂の道しるべを見る。
馬利亞文路山東峰山頂
分水嶺の稜線、北(左)は濁水溪となり台湾海峡へ 、南(右)は拉庫拉庫溪となり太平洋へ注ぐ
拉庫拉庫溪流域の谷を望む
馬利加南山への稜線
時間はまだ早い。このような素晴らしい天気に道を急いでは、もったいない。東峰山頂でゆっくり山を眺め、この山々に過去起きた事象に思いをはせる。南側に展開する馬博拉斯溪の下流拉庫拉庫溪では、日本時代にブヌン族との衝突があった。明後日に登る予定の喀西帕南山の山名カシバナは、1915年に起きた地元ブヌン族による駐在所襲撃事件の場所だ。その後大分事件が続いて起き、同じく駐在所所員全員が首を刈られた。そうした事件に対応するため、八通關越道路が切り開かれた。眼前の穏やかな日差しの下の山野は、それが別の世界の出来ことだったかのようだ。
刺柏の密生する坂を下る
岩塔を登る
40分ほどゆっくり過ごし、10時38分いよいよ馬利加南山へ向かう。馬利加南山は近いようで遠い。一度3270mの鞍部へ下り、それから3577mの山頂へ、約300mほどの高度差を登り返すのだ。下りの途中でも小ピークを越す。鞍部を過ぎ、今日の行程中一番長い登坂を始める。11時15分、4Kを過ぎる。今日の行程の中間点だ。ニイタカトドマツやビャクシンの林を過ぎていく。11時38分、前方に尖った岩峰が近づいてくる。そしてその岩峰にはロープが取り付けてある。どうやらあれを登る必要があるようだ。さらに3,4分で岩峰基部に着く。遠くから見るほど困難なく岩峰の上(標高約3340m)に立つ。馬利加南山は大分近づいた。12時19分、休憩をとる。日差しは強く、暑いぐらいだ。
岩塔から馬利加南山を望む
3Kポスト、山頂まで残りは少しだ
最後のザレ道を登る
20数分の休憩後、いよいよ登りの本番だ。12時47分、3Kを過ぎる。山頂の岩突起は、ますます目立ち、砦のように見える。もう森林帯はない、すべてが見渡せる。一歩一歩近づいてく。足元のニイタカセキチクはすでに枯れた花と、最後の花を咲かせている。13時半を回ると、標高は3500mを越え、足元は赤みがった砕石が重なる。ザレの急坂を登っていく。快晴のもと、重荷を担いでザレをひたすら登る。半世紀前の高校時代山岳部の夏合宿で30㎏近いザックを担ぎ日本アルプスを縦走し、頂上を目指した自分を思い出す。13時43分、坂は終わり360度の展望が広がる。山頂だ!若い時分の自分と重なり、感動に震える。50年の歳月は人生に二度ない。思わず眼がしらが熱くなる。

馬利加南山山頂
マリガナン山山頂の筆者
鹿野忠雄は1931年9月に、マリガナン山に登っている。こう記す「ここは海抜一一、七七〇尺(三、五六九米)、その高距のみから言っても、日本領土内有数の高峰であり、...その東端を飾って突如として聳え立つ偉容は秀姑巒山脈の一峰として決して愧じるものではない。...山頂の展望とその感銘は想像を裏切らなかった。そこには我々を立ちどころ夢の世界に溶け込ます悠遠と寂寞の状が四辺を取り巻いていた。...」 台湾島の南北を500㎞に貫く中央山脈の臍の位置にある当山、我々は入山六日目にして初めて到達した。
新康山山列
南三段の山々
馬西山(左),喀西帕南山(中),布干山
秀姑巒山はすでに遠い。雲海に浮かぶ新康山は、ここから見ると将棋の駒の肩がとれて、さらに鋭角だ。遠く關山のかなたも雲海だ。南三段の峰々のさらに遠く、干卓萬の連峰や幾重にも続く峰々。東南にはこれから訪れる馬西山や喀西帕南山、その手前に布干山の草原をいただいた山頂、そしてそれに連なる稜線。高い雄大な峰々、深い幽谷、これが台湾の山岳だ!これをこの好天のもとに眺められることに、感謝の気持ちであふれる。

馬利加南山山頂を後にする
山頂はもう遠い、右奥に南三段の山並み
馬利加南山東峰山屋へ最後の登り
馬利加南山東峰山屋まではまだ距離がある。14時15分、山頂を後にする。岩峰を下り、矢竹の草原を突っ切る。山頂から見えていたザレを横切り下ると、道は稜線の北側を進む。大きめの草原を左に見て、比較的上り下りが少ない道を急ぐ。振り返れば、馬利加南山はすでに遠く高い。途中最後の休憩をとり、100m足らずのピークを越して下れば、馬利加南山東峰山屋(標高3280m)だ。鞍部の狭い場所に小屋は建っている。時刻は15時46分、まだ陽は高いが日陰は気温が下がってきている。
馬利加南山東峰山屋
この小屋は水は雨水タンクに十分あり問題ないが、太陽発電の灯火は点灯しない。故障のようだ。この小屋も我々だけだ。18時半過ぎに夕食をとり、1時間後には床についた。距離7.7㎞、登坂500m、下降815m。天気も良く、休憩を多めにとったこともあり、この距離に対し9時間半を費やしている。コース定数は24だ。

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第七日 11月12日(金曜日)曇り 馬利加南東峰山屋 - 塔比拉斷崖 - 馬布谷山屋

馬布谷山屋までの楽なコース
小屋を6時に出発
利加南山東峰へ登る
残りもあと三日、食料も減ってきてザックは軽くなる。今日は、九日行程中一番楽な一日だ。6時に出発する。昨日と打って変わって、今日は曇りで登っていくと霧が深い。6時30分、馬利加南山東峰(標高3377m)を過ぎる。まもなくに塔比拉斷崖が霧にまとわれ現れる。ここは両側が崩れたナイフリッジだ。雨が降っていないので、それほど神経質にならずに済む。道は、一人が十分通過できる幅がある。前後の坂もきつくない。初めのナイフリッジを過ぎると、草地を越し、またナイフリッジになる。こちらは霧に包まれ、より険悪だ。ナイフリッジを過ぎると道は左に巻いて、悪場は終わる。

塔比拉斷崖
塔比拉斷崖第二セクション
ロープの急坂
今日のルートは、下りメインで、所々の登り返しがある。といっても、距離が短いので、楽だ。7時7分、馬布谷山屋4.8Kを過ぎる。道は森の中を行く部分が多い。霧が濃いので、開けたところでも遠景はない。7時20分、休憩をとる。
ロープの坂が続いて現れる
アカマツ林の中の2.8K
ロープの岩場急坂を下り、アカマツ林に入る。道は尾根の左右をぬって進む。時々尾根上を行く。8時5分、周囲を樹木に囲まれた草原のキャンプ地を過ぎる。9時、2.8Kを見る。もう今日の行程の半分だ。道には風で落とされたのか多くの松ぼっくりを見る。アカマツだけでなく小さなタイワンツガの物と、紫色のニイタカトドマツの物もある。ここは混合林だ。最後の登り返しを登る。9時44分、1.8Kを過ぎる。ガスが去来し、遠景はない。今日も二日前と同じよう、高層の雲が3200、3300メートル以上を覆い隠しているようだ

馬西山が瞬時現れる
折れた枝が多い
道脇には、まだ折れて間もない枝や、そこそこ太さの幹が転がっている。おそらく10月の台風のために吹き倒されたり折れたりしたものだろう。まだ成熟してない松ぼっくりを持った枝もある。10時16分、谷間に入ったところで、休憩をとる。下っていくと、樹木を通して奥に馬西山が高い。明日はあれを登るのだ。10時50分、アカマツ林から出て、草原に降りる。進むにつれ、草原の幅は広がり、そのうち小屋が草原の端に見える。草原の真ん中には沢があるが、水はない。11時、馬布谷山屋(標高2980m)に着く。馬布谷は、馬西山と布干山との間にできた窪地で、その二つの山名をとっての命名だ。
森から草原に出る
草原の端に馬布谷山屋
反対側のタンクも含めて全く水がない
昼前に到着し、午後はゆっくりと時間を過ごすつもりであった。ところが、小屋の雨水タンクを見に行ったメンバーが、二つあるタンクはどちらも空だという。タンクは壊れ、水が貯められていない。メンバーの持っている水も少ない。まだ新しいペットボトルに水が残しておいてある。我々の前のメンバーが残したもののようだ。資料では、ここはタンク以外に水はないという。地図を持ち出し、検討する。草原から南東に下っていく沢は、或いはその下のほうで伏流が終わり水が流れている可能性がある。メンバーの4名は、自ら探しに出かける。行く前に、GPSを携帯し1時間下ってもなければ諦めて引き返すように、伝える。
山小屋内部、このタイプはどれもほぼ同じ室内
小屋前から草原を見る
この沢を下って水場探し
出発して2時間半たっても、メンバーは戻ってこない。13時半、心配なので沢を下っていく。大きな石がごろごろする沢である。大声で名前を呼ぶとこだまが帰る。下ること20数分、そのこだまに反応がある。無事で帰ってくる。水も見つかったという。四人全員が上がってくるのを待ち、一緒に小屋へ帰る。結局標高差200mほど下ったところで、水が出ていたそうだ。小屋で水場の情報をメモに残す。とにかく、水を得たことで一安心だ。残っていたウィスキーで乾杯する。

メンバーが戻り一安心
残りのウィスキーで乾杯
動きの速い雲に半月
小屋の外は、時々薄日が差すものの風が吹き、寒々としている。15時半過ぎ、小屋で食事をつくり早めに夕食をとる。17時過ぎ、小屋の外に出る。雲の去来が激しい。上空には、その雲が切れた瞬間、半月がかかっている。この小屋も電灯が故障して点かない。今日は途中、携帯電波が届くところがなく、天気予報は見れなかった。明日の天気が心配だ。

歩行距離5.5㎞、登坂268m、下降597m、所要時間5時間である。コース定数は14だ。








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第八日 11月13日(土曜日)雨のち曇 馬布谷山屋 - 馬西山 - 喀西帕南山 - 太平谷 - 中平林道43K工寮 - 林道41K

縦走路を離れ林道へ
松茸ご飯で腹ごしらえ
3時半に起床。昨日心配した天気は、いよいよ雨になった。晩秋の3000m峰で降られる雨は、嬉しくないがこの現実は変えられない。雨の中の長丁場、しっかりと朝食をとる。雨の中では写真を撮るのおっくうだ。食料が減ってだいぶ空いたザックにカメラバックをしまう。まだ暗い中、雨具に身を固め5時半に小屋を出発する。
馬西山山頂への分岐
広い山頂は展望なし
小屋から標高3448mの馬西山まで、標高差約450mの登りとなる。昨日水をもとめて下っていった涸れ沢を渡り、急坂にとりつく。ヘッドランプ頼りの登りは、足元だけ見て歩くので、ある意味、あまり考えずに意外に高度を稼ぐ。さらに雨なので、ひたすら歩くだけだ。6時9分、急坂が終わり、あたりは明るくなる。初めの休憩をとる。緩くなった坂道を進み、6時45分、馬西山山頂への道の分岐に着く。空身で山頂へ向かう。30分足らずで山頂に着く。晴れていれば広い視野があるはずの、だだっ広い草原の山頂は、霧が去来する冷雨だ。写真をとり、すぐに分岐へ折り返す。
馬西山山頂のメンバー
喀西帕南山への分岐
手袋は水にぬれ、絞ると水が滴る。引き続きはめる。ザックを担いで歩き始める。道は森を出るところもあるが、おおむねあまり風を感じずに済む。9時20分、休みをとり行動食を口にする。9時55分、分岐が現れる。右は喀西帕南山山腹を巻いていく道、左は山頂への道だ。登っていくほうが体も冷えないし、そのまま重装備で左の道を登っていく。30分ほどで山頂への分岐に着き、そのまま2,3分進んで喀西帕南山山頂(標高3276m)を踏む。霧で全く景色はなく、すぐに引き返す。下りは、一部岩場をこえると、緩やかな道になり、11時18分巻き道との分岐鞍部(標高3120m)に降りる。これで山頂登りは終わりだ。
喀西帕南山山頂のメンバー
鞍部分岐、ここから長い下りだ
アカマツ林の坂を下る
風が強い鞍部から、ひとたび坂を下り始めると、風はない。高度がだいぶ下がったせいもあるだろう、雨も止んできた。アカマツの急坂をどんどん下る。11時40分、馬布谷山屋5K,太平谷1.8Kサインを過ぎる。12時6分、坂が緩やかになったところ(標高2730m)で、休憩をとる。周囲の木々には多くのサルオガセ(松羅)が垂れ下がり、湿気の多い場所であることを示している。霧も晴れ雨も止み、ほっとする。ザックからカメラを取り出す。
更に下る
涸れ沢を行く
少し進むと、道は涸れ沢に降りる。涸れ沢の中を少し行き、そのわきに上がりまた進む。枝にはサルオガセが垂れ下がり、岩には緑の苔がみっしりと張り付いている。ちょっと幻想的な世界だ。今まで中級山でも見ているが、ここは雨の直後のせいか、みずみずしい。12時50分、おそらく水に洗われてしまったのだろう、文字が全く消えたキロポストを見る。おそらく太平谷1.3Kだろう。そのすぐ先で、沢が合流し水が現れる。ここで水を補給する。今日はどこまで下って野営するか決めていないが、どこでもできるよう、水を持っていく。
サルオガセと苔の幻想的な森
沢で水を補給
コバルトブルーの水
倒木を乗り越す
沢は伏流となる
水補給後、本流に沿い下る。谷はだんだん広がる。倒木も多く現れる。13時半、本流はまた伏流となり水がなくなる。その河床を少し進むと、太平谷の端に出る。眼前の草原はだんだん開けていく。枯れた草もあり、全体には緑と茶色の草原だ。よく見ると、周囲には多くの枝などが転がっている。草原なのにこれだけの枝があるということは、先月の大雨の時、この草原は水につかったということだ。大変な量の雨が降ったようだ。進んでいくと、13時36分ちょうど草原の中心あたりに、玉山公園の道しるべと太平谷營地(標高2720m)の表示がある。ここが公園管理範囲の最後のようだ。道しるべは、中平林道、そして馬布谷山屋6.8Kと書いてある。
太平谷の道しるべ
草原を行くメンバー
ここから谷間に入る
こちらもサルオガセに苔の森
草原の道を進む。あと二つ同じく標識があるが、こちらは太平村、太平谷という表示だ。長さ1㎞以上ある谷は、14時05分に歩き終え、また谷間に入る。林業時代の水を作業宿舎などに運ぶためのホースが何本も走っている。狭まった谷の道は、ここも緑の世界が広がっている。倒木を乗り越えたり、沢の急なところを巻いたり進み、実に歩きにくく、時間のわりに距離が延びない。
障害物が多くなかなかはかどらない
やっかいな倒木
林道まであとわずかだ
もう終わりかと思い角を曲がると、また登りや下りが続く。やっと15時7分に地面に埋まるワイヤーが、林道が近いことを示す。最後に上り坂を行き、林道終点に上がる。林道はすこぶる歩きやすい。15時18分、43K工寮に着く。当時の宿舎建物は、壊れているがまだ建ってはいる。その前で休憩をとる。メンバーの中で、すでに山蛭にやられた人が驚きの声を上げる。この林道周辺は、蛭が多いことで有名だ。去年は35K工寮まで登った。その時は宿泊時でも、また歩いている際でも、かなりの蛭に取りつかれた。
やっと林道だ
43K工寮
今日の宿泊は、できるだけ蛭の被害を少なくできることを選ぶ。35Kは蛭の巣窟なので、その前の適切なところで設営するつもりで、林道を進む。少し登り気味の林道は、状態は悪くない。距離的に2キロ足らず進んだところ(標高約2600m)で設営を決める。山襞の鼻の部分で飛び出し、比較的乾き草もない。蛭は草に取りついていて、近くを通る獲物にジャンプする。ここは上はアカマツだが、風が吹き蛭はおそらくいないだろう。少し勾配があるが、そこそこ表面は平らでテント三張りは問題ない。時間的にも16時近く、これ以上進んでも地図上で見る限り、あまり良いところはない。
林道を進む
41K設営地
設営を終え、山中最後の夕食をとる。みんなはすでに明日下山後の食事などを、思い思いに語っている。夕食を終え、18時過ぎには床に就く。明日の天気は大丈夫なようだ。歩行距離11.1㎞、登坂709m、下降1076m、所要時間10時間45分。コース定数は30となる。

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第九日 11月14日(日曜日) 曇り 中平林道41K - 35K工寮 - 玉林橋(遺失) - 19K登山口

林道19Kへ下山
木々の向こうに里の灯火
いよいよ下山だ。3時に起床、食事は簡単に済ませ4時半に出発する。まだ暗いが、林道なのでヘッドランプがあれば、まったく問題ない。キャンプ地から道は下りはじめ、想像したように野営に適切な場所は皆無だ。昨晩は蛭は、まったく問題なかった。下り気味の道は速い。右遠くに玉里の灯火が見える。今日は文明の世界に戻るのだ。

近道入口
近道から林道に降りる
5時45分ごろになると、森を通した空が白み始める。林道から近道で下の林道に降り。その先また2,3か所近道を通る。6時を回り、木々を通して山が赤く染まる。6時26分、道際に黄色い廃棄された発電機を見る。その少し先で沢を渡り、初めての休憩をとる。これからは、蛭が多い場所を通過する。そこでメンバーの一人が持ってきた蛭避け用のサロンパスをみんなの体にスプレーする。

休憩をとり蛭対策をする
沢底を行く
廃棄放置された発電機
35K分岐
道はまた沢に降り、それに沿って大岩を乗り越え進む。途中で捨てられた発電機2台を過ぎ、7時に35K工寮(標高1970m)への分岐を通る。去年見た半壊の建物が樹木の向こうある。そのまま林道を進む。、林道のこのセクションは、今は朝日が差し込み明るいが、ぬかるみが多くいかにも蛭にとってはよいところだ。7時19分林道から急な坂道に入る。ここからはずっと、山腹を下る坂道だ。去年歩いたことを思い出す。雨の中を登り、そして下った。今日は霧だが、雨はない。おそらくこの高度は、雲海の標高なのだろう。
林道が終わり山道を下る
ロープの岩場
坂道はどんどん下る。途中ロープのセクションは慎重に降りる。去年見た紅檜の巨木も健在だ。8時38分坂を下り切り、玉林橋の谷にでる。玉林橋というが、林道のこの部分はとおの昔に全部流され、今は橋どころか林道がどうなっていたのかすらわからないほど、大きく変わっている。それに加え10月の大雨で、これまた大変な変化が起きている。ちょうどその大雨に出会い、軽装で馬博橫斷ルートをトレールランしてきた4名は、ここで渡ることもできず、35Kに引き返し待機したという。もともと物を持たないトレールランなので、食事も衣料装備も少なく、かなり難儀したようだ。最終的には救助を依頼し、地元の救助隊が出動、4日後に下山した。
ベニヒ脇を行く
玉林橋の崩れ、変化に唖然とする
幸いケルンや踏跡を追って沢を下る
沢の右岸に渡り進む
去年歩いた道筋は、きれいさっぱり流されている。幸い、我々が第一ではないので、足跡などが残っているので、これを参考に下る。下って9時、沢の二股の部分で休憩する。去年はそこでテントが張れる場所もあったが、今は全く駄目だ。沢沿いに数百メートル下るのだが、どのルートをとるべきか思案する。見渡すと、ケルンが積んである。それを目標に渡渉をし、右岸に渡る。するとそこには、前回と同じような道筋が続いている。9時56分、前方に大きく崩れた斜面がある。前はこの辺りから沢を離れた。
右の大崩れの脇を上がる
マーカーのところから空身で偵察に行く
メンバーがさらに下のほうにも踏み跡があるという。しかし、それはルートではないようだ。そこで、マーカーとケルンがある入口から登り様子を探る。どうもこの可能性が強い。メンバー二人が、偵察確認にこれを登る。果たしてこの入口が正しかった。登っていくと、以前よりかなり大きく流されたザレの斜面をトラバースする。そして林道めがけて登っていく。11時11分、林道に上がる。

崖かずれの端を登りトラバース
沢はもうだいぶ下だ
林道途中の崩れ部分
ここまでくれば、もう大丈夫だ。林道上には高巻きや下巻きがあるが、道筋ははっきりしている。崩れてザレたた場所もあるが、問題ない。迎えの車は12時の約束だ。高巻きなどや時間がかかり、厄介だ。3,4か所沢を越え、12時45分、遅れて19Kの登山口に着く。四駆の車が待っていた。これで縦走は終了だ!歩行距離 10.9㎞、登坂141m、下降1499m、所要時間8時間15分、コース定数20である。
最後の大きな渡渉
19K出迎えの車
玉里駅
全員が歩き終えて到着、車で林道を下る。乗るときに注意したはずだが、蛭がまだまだ出てくる。筆者も最後になって雨ズボンを脱いだ際に、手の指の間に吸い付かれた。座っている間にも二匹捕まえる。後ろのメンバーも、次々と蛭を見つけ対応に忙しい。14時14分、林道を下り切り車道を進む。14時30分、玉里の街に着く。駅前の民宿で風呂を浴びる。服を脱ぐと胸に血痕がある。知らない間に蛭にやられていた。9日間の汗と汚れを洗い流し、近くの玉里麵の店で食事をし、里に下りたことを実感する。17時13分発の急行列車で帰途に着いた。

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玉里のマスコット
念願の馬博拉斯橫斷縦走は、これで完了した。三年前から計画し、天候のため出発前に中止、また去年は実際に行ったが、悪天で退却であった。そうしたことから、完了したときの喜び、達成感もまたひとしおである。九日間の累計は、距離81.6㎞、登坂6582m、下降6488m、コース定数222となる。

寒波や冷雨に見舞われ、天気は半々というところだが、肝心な部分はしっかりと堪能できた。自然は思う通りには天気を与えてくれない。全員無事に終了し、尚且つ思い出多い山旅ができたことに感謝する。自分の年齢を考えれば、再び行く可能性は低い。しかし、自分で荷物を担ぎ仲間を連れて歩いたことは、決して忘れることはないだろう。

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