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安通越嶺古道西側入口 |
東海岸を南北に130余㎞にわたり伸びる海岸山脈は、東海岸と花東縱谷と間の交通を妨げる障害でもある。その昔から、山脈両サイドの阿美族原住民はこの峰々越えて、通婚などの交流をおこなっていた。その一つが安通越嶺古道の前身である。清朝の台湾統治末期に日本が出兵した牡丹事件(1874年)などを通じて、それまでほとんど顧みなかったいわゆる後山である台湾東地区に、政府は対応し始める。その一つが清朝軍によって開かれた中央山脈の東西を結ぶ八通關路(一般的に
日本時代の八通關越嶺道路に対し清八通關古道と呼ばれる)であり、璞石閣(今日の玉里)からさらに東海岸の成廣澳(今日の成功鎮)までの山越え道が開かれた。当時は成廣澳道路と称され、璞石閣に駐屯する清朝の基地などへの物資供給のために利用された。もちろん地元民の往来や商業活動、布教活動にも利用された。日本時代には、改修され紅莝越嶺道と称された。
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玉里付近から望む安通與嶺古道が越す稜線、右端が安通越山 |
台湾の他地区の古道がそうであるように、自動車道などの交通システムが整備されると、古道は歩かれなくなり、打ち捨てられた自然に戻っていった。その後当地の熱心な人士により古道は再び光が当てられ、林務局などにより2008年に峠越え道の西側が、そして2016年には東側が整備され、今日のように東西を峠を越えて結ぶ古道がハイキングルートとして再び歩かれるようになった。
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西から東へ山越え |
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玉里三日間の登山位置 |
今回三日間の登山活動は、台北から遠い東部の山をできるだけ一回の往復で登れるようにとの企画である。前の二か所は、まる一日を要する長丁場だが、古道歩きは道の状態も良くそれほどではない。その日のうちに帰京できる。そうしたことで、最後に行うことにした。当初は東側から入り玉里へ戻るというプランだったが、前二日は厳しい行動だったので、進行方向を変え西から入り、東海岸に降りるということに変更した。これにより、登坂高度は800mから300mぐらいに減り、時間も余裕ができた。そこで安通越山も訪れた。天気が回復したので、朝のうちまだ雲が出る前に、広い景色を展望できることも、方向を逆にした理由の一つである。
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秀姑巒溪の端から早朝の海岸山脈を望む |
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檳榔樹の間を登る |
三日泊った民宿も今日でチェックアウト、荷物をまとめて民宿フロントに預け、6時に出発する。台30号線の秀姑巒溪橋を渡るころには、空が白みはじめ対岸の海岸山脈のスカイラインが浮かび上がる。安通溫泉を通り過ぎ、左に西側登山口に向けて登り始める。周囲はすべて檳榔樹である。細い檳榔樹を通して、猫の耳のような二つのピークを持つ烏帽山がそびえる。地元民は猫頭山と呼ぶそうだが、そちらのようがより適切だ。舗装はされているが、ヘアピンカーブでは切り返しも必要で、なお勾配が相当きついので、四駆車でないと無理だ。6時50分、西口登山口に到着する。標高はすでに約580mである。
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古道入口 |
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前方に烏帽子山 |
7時に歩き始める。道の両サイドは檳榔樹で、しばらくは舗装道路が続く。ここまでの道は檳榔を栽培収穫するための農道でもある。そのうち舗装が終わり土の道になる。道幅は同じく広い。周囲は雑木林に換わる。山の斜面の傾斜はきついので、つづら折りで高度を上げていく。階段が所々現れる。西側には、花東縱谷の谷間に集落などが点在し、その奥には中央山脈の高山郡が圧倒的なボリュームを以って聳える。以前歩いた
新康山や、その北には
昨年秋の馬博橫斷縱走の山々、喀西帕南山からの長い尾根には
一昨日登った玉里山など、朝陽にたたずんでいる。この時間はまだ霧も発生せず、進行方向を換えて良かったと思う。
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早朝の中央山脈と花東縱谷、中央の山は新康山 |
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橋を渡ると長い階段道 |
7時33分、太鼓橋を渡る。道は勾配が強くなり、つづら折りの階段道となる。途切れなく続く階段道は汗が流れる。7時46分稜線に上がる。東側に展望台(標高893m)がある。眼下には東海岸と太平洋が広がる。台湾では樹木が育つのが早く、展望台はその視野が半分遮れて残念だ。休憩をとる。
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階段道を登る |
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展望台から海岸線を望む |
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古道はしばらく稜線上を行く |
古道は、しばらく南に尾根上を行く。道はかなりぬかったところが多い。道脇に様々な解説板はまだ新しい。8時8分、展望台がある。しかし、樹木に遮られ遠望はできない。小さな尾根上の上下を行き、8時15分古道は左に下る。ここから先に尾根上を安通越山へと往復する。林務局によってメンテされている古道とは違い、安通越山への稜線道は登山者によるものだ。道は少し頼りないが、マーカーリボンなどはそこそこあり、問題ない。山頂までは直線距離で約750m、標高差も数十メートルだ。
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途中の展望台は樹木に囲まれ展望できない |
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安通越山へは直進 |
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草深い道を安通越山へ |
一部注意が必要だが、黃藤なども刈り取らている。小さなコブを乗り越えて進む。途中にはロープのある急坂がある。表面の土は濡れてとても滑りやすい。8時47分、三角点の埋まる小さな山頂(標高994m)に到着する。周囲は樹木と背の高い草で展望はない。これら障害物がなければ、太平洋と中央山脈を同時に眺められるのだが。20分ほど過ごし、往路を引き返す。9時32分分岐に戻り、小休をとる。あとは、下り道だけだ。
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安通越山山頂 |
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下りの途中所々下方に海岸線が見える |
東側への下りは、急な階段の坂道で始まる。所々とても滑りやすいが、幸い階段があるので助かる。つづら折りのコーナーの場所などから、樹木を越えて大海原が見える。数分下ると、サルスベリの大木を通り過ぎる。さらに下ると、ベンチとガジュマル(榕樹)類の説明板がある。10時14分、古道 3Kポストを過ぎる。高度はまだ680mだ。
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ベンチとガジュマル解説板 |
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まだ海岸線は遠い |
10時25分ごろから、階段が少なくなり勾配も緩くなる。その先数分で、クスノキに関する説明板とベンチ、そしてすぐに3.5Kポストがある。10時42分、分岐に降りる。標高は370m、大分降りてきた。ここから道は平らになる。地形的には台地状の上を進んでいく。小さな登り返しもある。数分進んで4.5Kポスト地点で、少し早いが昼食にする。残りはもうあまり多くない。
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クスノキの説明板とベンチ |
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3.5Kキロポスト |
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平らな道を進む |
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昼食休憩 |
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残りはわずかだ |
ゆっくり昼食休憩を過ごし、11時35分最後のセクションにとりかかる。道は山腹をつづら折りで高度を下げる。台地から下っていく。5Kそ過ぎると、林にはサルスベリがとても多くなる。サツスベリは木質が固く薪によく、原住民はこの樹木を礼品にしたという。11時54分、道の右わきに大きな用水池がある。その昔この周辺は阿美族の馬太鞍部落があり、この用水池を利用し、耕作したという、説明板がある。この辺りは、地形も緩やかで、所々に段々に造られている。用水池から数分で、最後の急坂を降りる。おり切ると、東側南竹湖の登山口だ。
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サルスベリの林を下る |
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用水池 |
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砂防ダムを渡り対岸をあるく |
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崖崩れ部分を越す、倒木は切られ除かれている |
目前の石門溪の砂防ダムを渡り、廃棄された用水路に沿って歩く。最近の物と見受けられる土砂崩れを過ぎ、その先鉄製橋を渡ると、道は広く舗装路になる。12時33分、約束していた乗車場所(標高121m)に着く。もともと13時過ぎに到着の予定であり、下山途中で連絡して早めに来てもらうように手配したが、時間がかかっているようだ。木陰のない場所は少し暑い。
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鉄製橋を渡る |
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石門溪の谷の向こうは海だ |
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車乗車場所の古道説明板 |
待つこと20分ほどで車がやってきた。早速乗車し、下り始める。この辺りもかなりの勾配で四駆車が必要だ。しばらく進むと、シャベルカーが道で土砂を取り除く作業をしている。13時を少し回るころ、前方に青い海が見え始める。日差しは強く、まるで夏のようだ。13時8分、東海岸を行く台11線に出て南に進み、台30線へと曲がる。車道は山を登っていく。山の上部はすでに雲をかぶっている。峠のトンネルに入ると、海側とはサヨナラだ。トンネルを抜け、右に先ほど歩いた安通越嶺古道の稜線を見る。13時45分、民宿に帰り着いた。
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路面土砂取り除き作業中のシャベルカー |
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玉里に戻った |
本来は夕方の汽車を予定していたが、かなり早く玉里に戻った。メンバーはそれぞれ早い汽車の切符に換えて帰京する。筆者も14時53分発の自強號で玉里を後にした。途中ちょうど花蓮地区で地震があったためか、列車は20分ほど遅れ、18時40分過ぎに台北に到着した。
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登りが少ないように変更したので、所要時間も大幅に少なかった。長めの休憩を含め5時間40分だ。距離は9.4㎞、累計登坂386m、下降845m、コース定数は17となる。反対に歩いた場合は、500mほど多く登らなければらならかったわけだ。
三日の玉里登山で、台北からは一番遠い場所の山を登った。海岸山脈を二か所登ったのは、よかった。今後も、筆者にとってはまだまだ未知の海岸山脈や花東縱谷周辺の山域を登っていきたいと思う。
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