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2014-12-18

2014年12月17日 新店五尖峰 - 大丘田山 - 粽串尖 - 安新山縱走 草に埋もれた不人気ルートを歩く

台北華城の開発宅地が山腹に広がる塗潭山から大丘田山への稜線(獅仔頭山から、2012/12撮影)
新北市新店区には、かなり上の方まで開発されている山がある。そのうち特に目立つのが塗潭山から大丘田山へ連なる山並み両側の山腹に開発されている宅地である。付近の獅仔頭山や大丘田山は、過去に訪れている。今回は、大丘田山から塗潭山の稜線上にある五尖峰から南へ大丘田山を越え、獅仔頭山への稜線道から粽串尖へ進んだ。その後は、粽串尖から西へ安新山への尾根を下った。

北側玫瑰中國城からスタート、尾根を安新へ歩く
右のピーク粽串尖から長い尾根を下る
今回の山域は、台北市内からも見える身近な山である。しかし、登山の対象としては人気がない。獅仔頭山と粽串尖の間はまだしっかりした道があるが、その他は草深い道である。特に五尖峰から大丘田山の間は、ほとんど歩かれていないようで踏跡はほとんど消失していた。草むらの中を、ところどころに現れる色があせたりちぎれたりしている標識リボンや地図を頼りに、歩みを進めた。通常の約二倍の時間がかかった。開発が進み、人里が近いのに歩かれていないのは、不思議である。

台北の街に近い山域
吉祥路の突き当りにある階段を登る
今回は、塗潭山から五尖峰の稜線北側山腹に、開発されている玫瑰中國城からスタートである。この開発地はかなりの住宅数があり、バスも頻繁にある。玫瑰中國城中最も高い場所のバス停になる滿堂彩を通る648番バスにのるべく、MRT新店區公所駅に7時に集合する。不人気山域であるが、5名のメンバーが同行する。みな、以前に一緒に歩いている仲間だ。この時間帯は通勤通学時間帯になるので、バスの運行数も多い。7時12分にやって来たバスに乗る。乗客は学生が多い。学生が下車すると多くの通勤客とは反対方向なので、車内はガラガラになる。約20分の乗車で滿堂彩バス停に到着する。

状態のよい雙城步道





標高約100mにあるバス停から、7時40分過ぎに歩きはじめる。玫瑰路57巷から吉祥街へ抜け、右に登っていく。道の突き当りから階段が登っていく。雙城步道である。更に上部にある達觀鎮社区との間を結ぶ歩道である。見たところ、このコミュニティーが管理維持しているようだ。枕木を使った階段や休憩用椅子、あずま屋などがあり、地域住人の散歩道でもある。道標もしっかりしている。二叭子植物園方向へ登っていく。バス停から30分ほど登ってくる。前方に高い住宅ビルが望める。達觀鎮が近い。道なりに進む。8時18分、植物園の標識が現れそのすぐ左上に達觀亭がある。一休みする。

二叭子植物園達觀鎮側の入口
植物園を過ぎ、コンクリ階段を登る、右は工事中
二叭子植物園へ下っていく。道脇に芳香萬壽菊の黄色い花が目立つ。管理家屋の前を通る。BBQエリアなどもあり、家族などで訪れるには良いだろう。ただ、公共交通機関はここまで来ていないので、自家用車でくるか我々のように歩いてくる必要がある。更に道なりに下り、駐車場のある入口を過ぎる。分岐を左にとり進む。コンクリ階段の道を登る。8時45分、展望台までくる。この辺りは工事中で、土が掘り返されている。歩き始めて約1時間、ここから山道が始まる。

水たまりを越して急登が始まる

木製展望台はまだ新しく立派だが、ここまでどれだけの人がやってくるのか疑問だ。山道は、それを物語るように細々とした草の踏跡だ。途中、路面が舗装されている廃棄産業道路を越え、細い沢を渡る。水たまりを越えると、急登が始まる。9時過ぎ、稜線に取り付く。道は最近整理がされたように見える。多くの場所で姑婆芋の太い幹が切断されて、その切断面はまだ新しい。草の間を行く道は、細いが踏跡はしっかりしている。9時16分、隘勇寮遺跡に着く。隘勇寮は、獅仔頭山のものがしっかり保存されているが、この山域の稜線はその昔原住民との実質的な境界であり、そこに警察官が滞在し境界を警備していた。具体的には、獅仔頭山から熊空山、そして西に曲がって白雞山へと続く長い稜線である。理藩政策の進展で原住民の抵抗がなくなると、境界であった隘勇線も意義を失い、隘勇寮も必要無くなり歴史の1ページとして忘れ去られた。

狭い尾根を五尖峰へ登る
ところどころ狭くなる稜線上を急登する。9時半、五尖峰のすぐ下に来る。ここは台北華城の土地になるようで、展望台の周囲は有刺鉄線が張り巡らされている。そのわきを進み、切れ目から展望台下に出る。私有地であるので、囲っているということなのだろう。ただ、草深い山道を登ってくるような登山者は、単に通過して次に向かうだけなので随分と偏狭なことだと思う。立場が違えば、また別の考えになるのかもしれないが。ここは、西側を除いて展望が広がる。展望台に上がると、広い範囲の展望ができる。すぐ下は華城の別荘群だ。遠くには陽明山山塊も望める。近くは、谷を挟んで直潭山から大桶山が見える。直潭山の左遠くは二格山だ。稜線の反対側は、中和の住宅群から立ち上がる外挖子山-南勢角山-五尖山-文筆山の天上山連峰が連なっている。先ほど通過した達觀鎮の住宅ビル群も下に望める。

五尖峰からは広い展望ができる
華城の住宅の向こうに大丘田山(右端の山)
冷たい風が吹きすさぶ展望台を降り、9時45分、次の目標大丘田山へ歩き始める。稜線を進み別荘住宅が並ぶ道(華城三路9巷2弄)を通り過ぎる。宅地の道は左に折れるが、そのまま稜線上の道を行く。舗装路は密生した茅草ヤブの中に消えている。ここからは藪こぎだ。方向を見定め、草の間を進む。踏跡は無い。藪こぎをすること数分、ひょっこり草むらが途切れる。前方に伸びる草の間の踏跡を進む。しばらく進み右に折れると雑木林の下に着く。

道無き道の尾根を進む
藪こぎをして登る
赤い標識テープが木の枝に取り付けてあるが、踏跡は全く無い。覆い重なる草や灌木の間を進む。そのうちに踏み跡らしいもののあるが、とぎれとぎれである。棘の草が行く手を邪魔する。方向を定めて進む。鎌を取り出し、邪魔する草を刈って登る。約30分ほど尾根上を進んでくる。水源保護区であることを表す基石が埋まっている。地図と対照して、コースが間違っていないことを確認する。華城から大丘田山への約中間点である。

下方に草薮が広がりはじめ、大丘田山まであと僅かだ





稜線は、ここから勾配がきつくなる。標高差約100mを登る。相変わらず草をかき分けての行進である。踏跡らしいもは殆ど無い。幸い雨も霧もないので、方向を確認しやすい。11時半、左下に森ではなく草むらが広がり始める。大丘田山直下の開発中止地帯が現れ初めた。11時40分、新しい藍天隊の標識が木に取り付けてある。ここから左に康橋高中や秀岡山荘方向へ草の中に道が下っていく。藍天隊は、ここから先の草刈りをしたようだ。標識のすぐ先をチョット登るとそこが大丘田山の頂上(標高728m)である。五尖峰から約2時間を費やした。藍天隊の道標は50分と記してあるが、現状の道無き道を進むのであれば下りでも不可能な行程時間である。昼食休憩を取る。

大丘田山頂上からの眺め、左は猴洞尖、右は獅仔頭山
高い山留壁の上を行く
これで二度目の大丘田山頂上である。前方には獅仔頭山、谷を挟んで猴洞尖-鹿鵠崙が近い。その間から拔刀爾山-高腰山がのぞいている。12時14分、粽串尖へ道を歩み始める。下ってまもなく右に十七寮山への道が分岐する。今年春に歩いた道だ。左に道を取り、草薮の間の道を下る。急坂が続く。今年春に草が刈られた道は、その直後には多く歩かれたようだが、夏を過ぎたこともあり少し踏跡がはっきりしなくなっている。右に草の中に道が下っていく。とりあえず下っていくと、山留壁の上部に出た。ここはまだ高さが二階建て以上ある場所で、下に見える道に下りるわけにはいかない。左に壁の上を歩いて行く。注意深く歩みを進める。ところどころ灌木や草が覆いかぶさり、慎重に歩く。落ちれば大ケガをするだろう。

山留壁わきから前方のを望む
綠花肖頭芯蘭
左に十数メートル進むと、藍天隊が切り開いた道に着く。壁の高さはここでは1メートルぐらいである。前回無かった灌木の枝で造った梯子が掛けてある。壁を巻いて下に降り、壁沿いに進む。途中、大きく土留壁が切れている場所を過ぎる。大丘田山山頂から約30分ほどで、土留壁部分が終わり、森の中の道となる。更に15分ほど踏跡を進み13時、粽串尖への分岐に来る。左に進めば獅仔頭山だ。右に折れて上り坂を行く。ここはよく歩かれているようで、道筋もはっきりしている。冬の森のなか綠花肖頭蕊蘭の黄色い花が目立つ。13時8分、粽串尖頂上(標高729m)に着く。周囲の灌木が切ってある。大丘田山方向だけでなく、反対側の山々の望める。熊空山や竹坑山から竹崙山への稜線が対岸に長く伸びている。その背後は白雞山の峰々だ。

粽串尖頂上から木が切られて開けた西側を望む
紅葉がいっぱい落ちている
ここからは、基本下りである。ただ、安新山までの稜線は結構長い。下り坂はすぐに補助ロープのある岩場を通り過ぎる。岩に足場が刻んであるので助かる。その後も急坂が続く。別の岩場も現れる。地面いっぱいに紅葉が落ちている。前回霞喀羅古道では見れなかったが、ここではOKだ。13時53分、十字分岐に下りる。右は安新炭鉱跡を経て安新路へ下りる道だ。二年前に歩いた道だ。左は、建安路へ続く。安新山へは尾根上の道を直進する。急坂がまた現れ、補助ロープを頼りに岩場を下る。尾根は結構痩せている場所もある。14時17分、分岐に着く。左に建安路131-7号へ道が下る。ここには、とても立派な道標があるが、このような山道には似合わない。

岩場を下る
忽然と現る木製プラットフォーム
分岐から10分ほどで、人工的に石を積み上げた場所がある。これも隘勇寮遺跡だろう。その先、また岩場が現れる急坂を下る。踏跡は、先の十字分岐までの部分に比べると歩かれている程度が低い。標識リボンも少なく、地形を読んで進む。小ピークから方向が大きく右に曲がって下る部分は、注意が必要だ。14時43分、檳榔林が現れる。だいぶ人里に近づいてきた。とは言っても、安新山までの尾根の約半分地点だ。尾根上を忠実に追っていく。この辺りは、ゆるやかな道が続く。15時木製のプラットフォームが道の真中に突然現れる。テントを張るためのものなのか。しかし、こんな場所に誰がテントを張るだろうか。それ以外の目的であったとしても、このような不人気ルートに金を掛けて、このようなものを造る理由が判らない。予算の無駄遣いとしか、思えない。

新しいベンチがわきに造られている隘勇寮遺跡
道に似合わない立派な道標
15時9分、木製イスが設けてある。まだ新しい。ここで休憩を取る。日暮れまであと2時間、だいぶ日が傾いてきて、黄色い光線が森のなかまで差し込んでくる。更に少し進む。大きめの隘勇寮遺跡とそのわきにベンチが二つ設けてある。この尾根にはこうした遺跡があり、それを身近に歩けるようにベンチなどの施設が造られているのか。しかし、現在の道の状態では、一般ハイカー向けではない。道そのものの整備が必要だ。道脇に板橋市公所とある土地境界コンクリート製柱が現れる。ここは新店市(現在は新北市新店区)であって、板橋ではないが。15時32分、分岐に着く。左に建新路へ続く道がある。ここにも新しい立派な道標と案内板がある。

板橋市公所と記された境界コンクリ柱
15時35分、右に道を分岐する。道は大きな起伏はない。板橋市公所のコンクリ表示が引き続き同一間隔で現れる。15時51分、小暗坑山頂上(標高334m)到着。樹木の中の展望がない山頂である。少し下ったところに、石を積んだ低い壁がある。これも隘勇寮遺跡のように見える。この長い尾根はこの遺跡も含め3箇所の隘勇寮遺跡があり、一世紀前は平地と原住民のテリトリーを分ける境界であったわけだ。少し登り返す。291峰を越すが、なかなか安新山頂上に着かない。踏跡もところどころはっきりしない。五尖峰-大丘田山に比べればずっとましだが、ここも不人気ルートである。16時20分、安新山(標高280m)に着く。三角補点基石が埋められている。陽もだいぶ傾いた。

覆いかぶさる倒木をくぐって安新山へ進む



日暮れ前に下山すべく、下り始める。しばらく尾根上を進んだあと、右に山腹を急斜面で下っていく。補助ロープの急坂も現れる。16時40分、檳榔林が現れ細い道を下る。小沢に下りる。大きな木が根こそぎ倒れている。細々と続く道は、この檳榔林へ続く農道である。沢に降り、ぬかった沢底を歩く。木橋のわきを通り過ぎ、16時56分民家わきに出る。17時に110号道路に突き当たり、右に少し安新バス停に進む。これで今日の歩きはおしまいだ。十数分待ち、日暮れ迫る中779番バスでMRT新店駅へ帰った。

下草が密生する檳榔林を下る
沢の中を進んでまもなく終點だ
今回は約11kmの山道を9時間強を要した。想定以上に道の状態が良くなかったことが影響している。五尖峰-大丘田山間は平均時速0.85km、と通常よりはるかに遅い。粽串尖から安新山までの尾根道も、思っていたより苦労した。困難度はルートはクラス4~5、体力はクラス4である。道の状態が良ければ、上り下りもそれほど大きくなくそれぞれクラス3ぐらいだが。台北の街に近くても、必ずしも状態は良くない。不人気の山に行く場合は、自分で道を踏み分けていくぐらいの心構えが必要だろう。

2014-12-08

2014年12月6日 新竹霞喀羅古道(シャカロ警備道) 日本時代の歴史が残る道

霞喀羅國家步道養老入口標識説明板
日本は台湾を50年間統治した。この間に台湾に様々なものを残している。1900年代に平地での反日行動が下火になったあと、樟脳や森林資源開発の殖民産業を進めるにあたり、山地の原住民(当時は高砂族と総称された)との間に衝突が発生した。台湾各地で衝突が起きた中、北部の泰雅族との抗争は熾烈を極めた。今回訪れた場所に近い李棟山では激しい戦いがあった。この地の泰雅族も激しい抵抗があり、懐柔や鎮圧していく過程でもともと原住民の道を警備道に整備し数カ所の警察駐在所を設けた。最終的には、大砲など圧倒的に有利な武器の力で抵抗を抑抑えこむことになった。それから数十年の年月が流れ、警備道のほぼ中間点に1922年に開設された白石駐在所(日本時代にはサカヤチン駐在所と呼称)は、戦後も現政府のもと十数年警察官が駐在したが住民の移転もあり、閉鎖され歴史に一頁を記した。

霞喀羅古道は新竹県尖石郷の山中にある
養老登山口から白石吊橋を往復
シャカロ警備道は、今は全長22kmの霞喀羅國家步道として政府林務局の管理下にある。東側養老と西側清泉を結ぶ峠越えの山道である。国家歩道であるので当然整備管理があるが、度重なる台風による山崩れで、道は崩壊しもともとの歩道が流失している部分もある。公式には閉鎖になっている。今回は、養老から約10キロ地点の白石吊橋まで歩いたが、途中には規模に差があるが四ヶ所のガケ崩れがあり、これを高巻いたりザレのわきを通り過ぎるようになっている。吊橋は大正十年(1921年)に建てられた全長145m、高さ90mになる大きな吊橋である。当時は鉄線橋とも呼ばれたが、それから約100年未だに歩行に供されている。歩くと揺れ足もと遥か下に沢が流れ、本当に吊橋というものを体験できる。養老から片道10キロの道のりには、都合3箇所の警察駐在所が設けられた。今は建物の存在は確認できないほどになっているが、養老に近い側から、栗園駐在所、馬鞍駐在所、武神駐在所と三ヶ所もある。それだけ、原住民への管理に大変だったということだ。

秀巒檢查所で入山許可を申請
今回は、Taipei Hiker Clubに山行予定を載せたあと多くの参加希望があり、また更に一台のカーシェアの申し出があったので都合11名での行動である。朝6時半にMRT古亭駅に集合、二台の車で向かう。第三高速道路を関西インターチェンジで降り、横山、内湾をすぎ尖石郷の山に入る。これは、李棟山へ行った時と同じだ。新竹県道60号線峠部分にある宇老派出所からは、李棟山とは反対の右に谷をくだる。途中和解広場という、昔異なる部族間での争いが和解したとされ場所を記念した展望台で休み、他の一台を待つ。

歩きやすい道が続く、21kmキロポスト地点
通過は問題がないが手すりが壊れている橋
快晴の空の下では、向こうに李棟山から馬望僧侶山からの山並みや、桃園県復興郷方面の山々が望める。更に山の斜面を下りきり、9時5分谷間の秀巒檢查所に着く。ここから先は乙種入山許可が必要だ。乙種入山許可はその場で申請できる。身分証明書が必要なので、もし申請する場合には忘れずに。我々以外にも多くの人が申請をしている。検査所建物に取り付けられた寒暖計は8度を示している。谷底から対岸の山を登り始める。数分で養老方面の道に入り、約数キロを進む。前方にはマイクロバスや自家用車が登山口に向かって進んでいる。天気のよい休日、登山者が多い。9時40分すぎ、登山口駐車場に着く。約3時間の道のりである。すでに大勢の登山者が出発の準備をしている。標高1300mの山中はとても寒い。手がかじかむ。

山ひだを縫って道は進む
我々も支度をして10時に出発する。全長22キロを往復してくるのは、とても無理なので一応白石駐在所跡を目標に、夕方暗くなりはじめる17時までに戻れるよう、行けるところまで行き引き返す予定で歩き始める。国家歩道となっているぐらいなので、道の状態はすこぶる良い。上り下りも殆どなく進む。松葉の絨毯道を進み、15分ほどではじめの木橋が現れる。少し土砂が崩れ橋はゆがんでいるが、通行は問題がない。10時19分、21キロポストを過ぎる。時速約3kmで快調だ。道は山ひだを縫って進む。10時30分すぎ、日の当たる場所で休憩をとる。30分あるいたので体が温まり、ジャッケを脱ぐ。

崖崩れの場所から谷と対岸の山を望む
馬鞍でのパーティメンバー
状態のよい道を進む。10時56分、炭焼窯跡を過ぎる。このあたりで19kmキロポストだ。幾つか橋を通り過ぎる。手すりが取れたり路面が斜めになっているところもある。11時6分、栗園駐在所跡を過ぎる。孟宗竹林が続く。京都の嵯峨野の竹林は有名だが、ここも負けず劣らずの美しい竹林だ。11時24分、大きな崖崩れ部分を高巻いて通り過ぎる。樹木が流されてしまっているので、谷や対岸の山がよく見える。高巻き部分から古道に降り17kmキロポストを過ぎてまもなく、馬鞍駐在所跡にやってくる。養老山からの枝尾根の先端になる部分で、少し盛り上がった高台に駐在所があったそうだ。今はベンチがあるだけだ。おおぜいのハイカーが休み談笑している。

落ち葉を踏んで白石吊橋を目指す
紅葉は少ない
写真を写したあと、そのまま先に進む。道はゆるやかに沢に向かって降りていく。道には落ち葉がたくさん落ちている。本来楓の紅葉が見られるということだが、今年は残念ながら紅葉は少ない。すでに葉が落ちている樹木も多い。二番目の大きな崖崩れを通り過ぎる。11時54分、沢を長い橋で越える。この橋も台風の大水で歪み、手すりもところどころ折れてしまっている。通過には問題ないが。渡った対岸のたもとから布奴加里山への山道が分岐する。古道は、ここで大きく方向を換え、ゆっくりと登り始める。12時11分、崖崩れを通り過ぎる。補助ロープを頼り下り、反対側に登り返す。さらに進むとオートバイが道端に転がっている。それほど古いものに見えない。おそらく崖崩れで道が無くなる前にやって来たが、道が崩れてしまって戻れなくなり、打ち捨てられたものだろう。12時27分、武神駐在所跡にやってくる。ここは早い時期に閉鎖されたようだ。

沢を長い橋で越える、ここから布奴加里山への道が分岐する
崖崩れのギャップを越える
打ち捨てられたオートバイ
武神駐在所跡
ここから白石吊橋まで約1kmの距離だ。すでに二時間ほど休みらしい休みを取っていないが、メンバーは大丈夫ということで、そのまま進む。日没時間を考えると、今回は白石駐在所跡へは行くのは難しい。少なくとも白石吊橋までは行きたい。12時39分、今までによりさらに規模の大きい崖崩れ部分に来る。木々がないので、谷の向こうに白石吊橋が見える。登山者がちょうど橋を渡っている。ザレ場を横切り小沢にそって下がる。降りた先に半分流されて残っている橋がある。少し登り返し進む。その先も道は流されて木々が倒れている。枝を乗り越え進む。13時5分、長い木製梯子の上部に来る。ここは、以前に道が崩れた場所で補修されている。大人数のパーティとすれ違う。横木で補強された階段道を登り下りする。木製の大きな梯子を登りきり、13時23分、白石吊橋のたもとに着く。ここまで10km、約3時間半の道のりであった。

崖崩れ部分から望む、ステッキに先方向に白石吊橋が見える
吊橋のたもと
吊橋は1921年に建造されたあと、1947年に補修がされているということだ。その時に名前も白石吊橋に改名されたようだ。橋のたもとのアンカーブロックは白く塗られ、橋梁名と大正11年の年号のプレートが取り付けられている。残念ながら心もとない落書きもある。吊橋を渡る。両わきには落下を防ぐためにネット状に鉄線が張ってある。通行人数は最大20名となっている。歩き始めると、吊橋は揺れ始める。天気が良く風もないので、自分たちの歩みが揺れを生じさせているが、風があればもっと揺れるかもしれない。1m足らずの踏み板のわきには、100m近い下に沢が勢いよく流れている。白石吊橋より一文字多い台北市内湖区の白石湖吊橋は、全長116mであるが数年前に建造されたばかりの新工法であるので、通行制限人数も多く揺れも少ない。それに比べると、こちらの方が本当の吊橋を渡るときの感覚だ。

吊橋を渡る
沢は100m近い下を流れる
吊橋での筆者
対岸に渡ると、数名のパーティがたもとで食事休憩をしている。我々メンバーの一人がそこで奇遇なことに30年ぶりの旧友に出くわす。たもとの広場は日陰であるので、少し坂を登り日当の平らな場所を探す。しかし、道は白石駐在所へ向かって坂を上がっていく。適当な場所がないので吊橋を渡り返し、橋のたもとで遅い食事休憩をとる。こちら側は少し日が当たる場所がある。

木製梯子を登り返す




14時8分、養老登山口に向けて折り返し歩き始める。先に下りまた登り返す。大した登りではないが、平らな道が続く中では辛いところだ。崖崩れ部分を通り過ぎる。14時22分、武神駐在所跡を通り過ぎる。数名の登山者とすれ違う。ここでテントを張り一泊するようだ。その後も、大きなリュックを背負った登山者とすれ違う。途中白石駐在所跡で一泊し、古道を清泉まで歩くそうだ。前日登山口近くに泊まり翌朝早く出発しても、一日で歩き終えるだろう。

馬鞍から来た方向を振り返る、太陽が大分傾いてきた
山の陰が深くなって来る
日没までに登山口に戻りたいので、速足で進む。幸い道も良く、メンバーも体力的に問題がないので、距離が伸びる。15時半、馬鞍駐在所跡に着く。ここで帰り道の半分の地点だ。太陽がが少し傾き始め、陽光が森のなかまで差し込んでくる。午前中は日陰だった部分は今は陽があたっている部分もある。しばしの休憩後、また登山口へ向けて歩き始める。崖崩れ高巻き部分から望む山は、大分深い陰を落とし始めている。

栗園駐在所跡近くの竹林、夕陽に映えている
夕陽の中古道を養老登山口へ歩く
松葉を踏んで進む
15時57分、竹林の栗園駐在所跡を通過する。斜めから差し込む陽光の竹林は、また違った趣だ。黄色の夕陽があたる松の落葉を踏みしめ歩く。残りはあと1kmぐらい、時刻はまもなく16時半だ。17時までには登山口に帰れるので、ほっとする。16時44分、21.5kmキロポストを見る。更に5分で国家歩道の標識を過ぎる。展望のきく場所で最後の記念写真を写し、16時57分登山口に戻ってきた。

駐車場に残っている車は少なくなっている。これからここでキャンプする登山者がいるが、我々が今日古道を歩いた最後のパーティのようだ。17時過ぎ、車で台北に向かう。まもなく周囲は暗くなる。登り返して峠の宇老派出所を過ぎるころは18時をまわり、辺りはすっかり闇に包まれ、遠くに内湾方向の街の灯がみえるようになった。

今回は歩行距離約20km、行動時間7時間である。道は、崖崩れの場所を除けばクラス2である。崖崩れ部分は、クラス3~4といったところ。体力的にはクラス3である。日本時代の歴史が色濃く残る古道は、まだ半分を歩いただけ。いずれは全線を歩いてみたいものだ。