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2014-05-28

2014年5月25日 宜蘭外澳石空古道 - 太和山 - 象寮古道

太和山頂上から蘭陽平野を望む、右は香炉
宜蘭の山は、北端になる桃源谷周辺を除いて、まだまだ不案内である。一方それに接する雙溪泰平地区の山や古道は過去数回の山行で様子がわかってきた。泰平の更に奥には灣潭がある。ここも宜蘭県頭城鎮と接している。実は、灣潭にしても泰平にしても、その開拓は百数十年前に頭城から峠を越えて入っていった移民によって行われてきた。頭城の外澳から西に山を越えて行く古道は、これら集落開拓を支えた道である。今回の山行は、外澳から石空古道を経て太和山を登り、下りはもうひとつの古道象寮古道を経て外澳へ戻った。

南側の石空古道から登り、北側の象寮古道を下る
下りは途中明湖徳安宮までの高度プロファイル
これら古道もまた山々も、初めての訪問である。そこで無理をせず、この地域の様子を肌で感じることを目標に歩いた。太和山は、頂上からの展望がとてもよい。重なる峰々や谷を望み、その大きさや深さをつかむことができた。今後灣潭から頭城にかけた地域の山を歩くつもりだが、その時の参考にするつもりだ。

宜蘭県北部の山々、海には亀頭島
外澳駅わきの石空古道入口
今日の山行は単独行である。もともとは、以前雨で退散した雙溪虎豹潭の横山から三方向山を経て、西山への稜線を歩くつもりであった。午後の天候が不安定になりそうなので、少し早めに切り上げられること、また午前中の好天を利用して眺めができる太和山を登ることに変更した。4138番区間電車で外澳へ向かう。鈍行なので、途中特急に抜かれ台北から約2時間をかけ8時半に到着する。下車したのは筆者以外は、地元の人と思われる老夫婦とサーファーの若者二人だけだ。無人駅のホームから線路を渡り、進行方向右にある石空古道入口に行く。空は雲が多いが、青空もすこしのぞける。古道はコンクリの土留壁の間から登っていく。昨晩雨が降ったようで、道は濡れている。

石空古道の登りで見る龜山島と外澳海岸
榕嶺の峠
畑を抜けた後、森の中を進む。相思樹の黄色い花が道に落ちている。高さが上がると、海岸とその向こうに龜山島が見えてくる。塩ビの水管がずっと道にそってはっている。道の状態はとてもよい。雑草も殆ど無い。歩き始め15分ほどで、榕嶺と呼ばれる峠に着く。説明の石板が建てられている。この古道は地元の努力でしっかり守られている。造林される前は、ここに大きな榕樹(ガジュマロ)があって、それが名付の由来だそうだ。ガジュマロの大樹は今はすでに無いが、海際からひと登りしてきた旅人が、木陰でホッと一息ついた場所だろう。

二つの沢の合流部に建てられた土地公
渡渉し水際を進む
道はゆるやかに下る。左下に沢音が聞こえ始め、沢に下りてくる。二つの沢が合わさり、渡渉する場所に土地公の祠がある。立派な香炉もあり、今でも焼香が絶えないようだ。渡渉する。梅雨でずっと降り続いているため、水量は多い。沢の左岸水わきを登っていく。水際を行く古道は虎豹潭でもあるが、苔に覆われて緑なのにくらべ、こちらはよく歩かれているので、苔はあまり着いていない。沢から少し上に上がったり、また水際を進んだり、約5分歩く。青潭と呼ばれる、小さい滝壺をすぎる。9時15分、右に象寮古道へと続く保線路を分岐する。
店仔地の小屋
石のゴロゴロした急坂を登る
9時20分、店仔地と呼ばれる小屋のある場所につく。筆筒樹を柱にした小屋が建てられているが、古道整備の際に再建されたものだろう。説明板によると、旅人にお茶を出したところだそうだ。路程表示では1.4kmとなっている。道は沢を離れ、山腹を登っていく。石のゴロゴロする急坂を登りきり、赤土が現れた緩やかな道となる。五叉路と表示された分岐を左に少し登り、産業道路に出る。9時34分、外澳駅登山口から約1時間である。五叉路は、直進すると廟があり、それから産業道路にも通じる。

石空古道から産業道路に進む
石空旧集落近くの橋、地図と説明板がある
産業道路は下り始める。沢が現れ、橋が掛かっている。数台の車が駐車している。その先は、太和山の登山口である。橋のたもとには、石空集落の説明板がある。住人はすべて山を下り、今は誰も住んでいないが、旧住民はこの地に強い愛着を感じている。太和山への登山口は、もうひとつ産業道路をさらに進んだ、金頂接天宮の裏からもある。更に道を下り橋を渡ったあと、登り返す。9時50分、接天宮に着く。

儀式進行中の金頂接天宮
タケノコ採りで残された竹の皮
1822年に中国福建省泉州から玄天宮の神像を携え台湾に渡ってきた移民は、この地に茅葺きの廟をたて神像を収めた。接天宮は、この地開拓の精神的支柱であった。開拓民の子孫は、今はこの地に住んでいないが、この廟はしっかり守られ焼香が絶えない。廟の前庭には、十数名の信者が、御札を折ったものを放射状にならべ、その周囲で儀式を行っている。一人の信者に特別な節日なのかと、尋ねたがそうではないということ。と、いうことは常時おこなわれているようだ。

杉林のわきの広い太和登山道

廟のわきで一休み後、山道を進み始める。道幅は狭いが、この道も雑草が少なく、よく歩かれていることが判る。竹林の中を進む。タケノコを採ったあとのようで、皮が大量に道に落ちている。10分ほど登り、広い道に合流する。この道は、先ほどの石空集落跡からの道だ。自動車も通れるほどの良い道だ。つづら折りに進み道には、山道の近道が横切って行く。雑木や竹の林のわきを、かなりの勾配で道は登っていく。道幅が広く歩きやすが見通しがきくので、細い普通の山道比べ、気分的にかえって辛い。40分ほど登ってくると、杉林が現れる。道も少しゆるやかになる。日差しが強いので全く同じではないが、日本の山道のような感じだ。右に山道が急坂で分岐する。石空山への道だ。

太和山と鶯仔嶺や坪溪へ続く道との分岐点
頂上での儀式を終太和山歩道を下る信者たち
太和山登山道をさらに進む。道は最近整備されたようで、踏むと地面が柔らかいところがある。更に10分ほど登ると、右に灣潭へとつながる坪溪古道へ分岐する。真新しい土地公の祠がある。神像も真新しい。住民の信仰心は厚い。ちょっと下ると鞍部に来る。右に別れる道は、沢沿いに鶯子嶺へと続く山道だ。10時53分、少し休憩する。ズボンの裾をめくるとヤマビルが血を吸っている。草むらを通りすぎる場所はほとんどなかったので、少し油断していた。

太和山へ向けて急坂を登る
太和山への登山道、林を抜けだした
休憩していると、子どもや老人を含めた大勢の人達が山から下りてくる。こちらがこれから登る様子を見ると、頑張れと声をかけてくる。背中に儀式に使う道具を担いだ人もいる。先ほど山の上の方から、爆竹のような音が聞こえてきたが、太和山頂上に設けられた、接天宮の分宮で儀式をやっていたようだ。今日は、先ほどの石空金頂接天宮での儀式と言い、宗教活動の日のようだ。

道は、ここから急坂になる。登り10分ほどで、森から抜け周囲の景色が望める。空はすっかり晴れ、日差しがとても強い。左に海、右に山。とても雄大な眺めを見ながら、登り続ける。補助ロープの急坂を過ぎ、右に山腹を横切る。その先、また一登りで太和山前峰に着く。ここにも、石空集落跡近くの橋のたもとでみた、説明文がある。主峰はほんの少し先だ。頂上に建つ分宮の建物とその後ろには、鶯子嶺が高くある。11時30分、太和山山頂(標高705m)に着いた。標高だけ見るとそれほど高くはないが、海辺からの登山なのでほぼ標高と同じ高さを登ってきた。石空古道入口から道のり約5km、約3時間の登山である。

太和山前峰からみる主峰(分宮の屋根が見える)と背後の鶯仔嶺
海側から鶯仔嶺(右端のピーク)へのパノラマ、海には龜山島が浮かぶ
山側のパノラマ、左が鶯仔嶺、右端は七兄弟山
蘭陽平野の海岸線
頂上の分宮
頂上は分宮の建物があるが、遮るもの無く周囲360度がすべて見渡せる。海側は沖に龜山島が浮かんでる。南側には蘭陽平野が広がっている。鶯子嶺から礁水坑山へと続く尾根に平野の西側は遮られているが、頭城から蘇澳へと続く海岸線ははっきり判る。その先の山々も青く見えている。目を山側に移すと、鶯子嶺から坪溪山へと長い尾根が続いている。北側は七兄弟山の山塊だ。豎旗山やその奥には瑞芳の山々も見えている。一番高いのは燦光寮山だ。その右には草山も横山の上から頂上を出している。ほぼ真上から照らす強い日差しのもとで、わずかにある廟のひさしの下の日陰に座り休憩、食事をする。
石空山登山道入口、左に登っていく
道脇の野いちご
40分ほどゆっくりと休憩したあと、12時10分同じ道を下り始める。そのまま直進して鶯子嶺へ登り返す道も続くが、これはまたの機会にする。道端に野牡丹の花が咲き始めている。15分ほどで、新しい土地公のある鞍部へ戻ってくる。更に進み、12時33分に石空山への分岐につく。左に折れ、石空山を目指す。山道は、太和山登山道とは打って変わった草深い道である。太和山は、宗教活動などを含め多くの通行があるが、石空山は僅かな登山者が歩くだけの道である。道標なども古ぼけた物がかろうじて残っているだけだ。一度十字の分岐を過ぎ、12時42分、基石のある石空山頂上(標高515m)に着く。周囲は樹木で展望がない。かろうじて先ほどの太和山が樹木の間に見える。基石わきには壊れた山名板が残っている。

基石のある石空山頂上


頂上から右と左に道が分岐する。共に道標はない。先に右を取り下るが、予定の象寮古道へと下る道とは方向が違う。さらに踏跡もあまりはっきりしていない。頂上に戻りもう一つの道を取る。入口は草に覆われているが、そのうち踏跡がはっきりする。方向もこちらが正しい。急坂が続く。濡れた土の上に枯葉がのり、とても滑りやすい。十数分くだり、象寮古道に出る。左の登っていけば峠を越えて坪溪へと続く。いずれは歩くつもりだ。今日は道を右にとり、下り始める。象寮古道は、石空古道に比べると明らかに歩かれている程度は落ちる。雑草も茂り、雨水が道を深くほり込んでいる場所もある。それでも危険な場所は、補助ロープが設けられている場所も現れる。

石空山から象寮古道へ下る
象寮古道、竹林のわきを下る
十数分下ってくる。山道は方向が大きく左に曲がり、竹林のわきを進んでいく。竹には黄色のテープが縛ってあり、中に入らないようにとの意図のようだ。13時25分、左右に別れる分岐がある。竹株のもとに道標が置いてある。右側は、石空古道方向だ。左側は指示がないが、地図からみて象寮古道のようだ。こちらを更に下っていく。竹林や雑木林を進み、13時40分、産業道路に出る。古道はこの産業道路を横切り、更に先に下っていく。数分の下りで、また別の産業道路にでる。ここには、木製の立派な道標がある。左は頭城農場へ続く。歩いてきた道は烏山古道と標している。烏山古道は、灣潭にある古道だが、もともとは外澳から続くこの象寮古道は、烏山古道と呼ばれていたのか。右にとり産業道路を行く。梗枋溪を緑色の鉄橋で越え、舗装された坂道を登り返す。13時54分、ガジュマロ大樹の下にある池の畔の明湖徳安宮に着く。一休みする。

ガジュマロ大樹下の徳安宮、ここは左の道をいく
空模様が怪しくなってきた。遠くでゴロゴロ雷の音がしている。そろそろ夕立がやってきそうだ。休憩後、右にお手洗いのわきを登っていく道路を登る。しかし、方向がどうもおかしい。徳安宮へ戻り、別の道を取る。新築中の建物のわきを過ぎていくと、そこには道標と山豬窟舊聚落の説明板がある。30数年前までは住人がいた、ということだ。ただ、写真に写っている廃屋は周囲に見当たらない。

象寮古道わきの山豬窟舊聚落の説明板
象寮古道入口付近から見る、右は慶天宮
同じく象寮古道だが、海へ下るこのセクションは、道の状態がよい。下り始めると、嶺頭という場所、更に百二崁仔という急坂を通り過ぎる。説明板が取り付けれ、この道の歴史を感じることができる。潮騒や濱海公路を行く車の騒音が大きくなる。14時45分、古道の入口に着く。車道を進む。左に農作業をしている人が声をかけてきた。もともと祖先は雙溪に住んでいたそうだ。太和山で出会った人達もそうだが、とても人なつこい。自分の土地に誇りと愛着をもっていることを感じ取れる。線路をくぐり慶天宮わきで濱海公路に出る。烏山古道の説明板がある。この古道は、土地では烏山古道と呼ばれているのだろう。

海岸線のパノラマ
濱海公路わきのアラビヤ式豪邸
濱海公路を渡り海岸沿いの道に出る。暗くなった空の下、龜山島が水面に浮かんでる。いよいよポツポツ雨が降り出した。傘を出して歩き始める。白いギリシャの家屋を思わせる民宿を過ぎ、公路を進む。左に、アラブの世界で中国料理店を経営し、大成功したという宜蘭出身の人が建てたアラビア風大邸宅わきを進む。場違いな感じは否めない。15時6分、外澳駅に戻ってきた。駅に入り、まもなく雨脚は強くなった。今日は濡れずにすんでラッキーだ。着替えをすませ、15時52分にやってきた区間電車で台北へ帰った。

外澳駅入口
今回の山行は、歩行距離10.8kmである。休憩込みで約6時間半の行動時間だった。登りは、累計840mほどになる。太和山登山は問題ないが、石空山などは道標もない場所があり、尚且つ脇道も多いので、地図を携え確認することが必要だ。この地の山は、台北から日帰りはアクセスに2時間ほどの時間が必要だが、海も山も、そしてこの土地に誇りをもつ人達の出会いも含め、とても魅力的なところだ。まだ登っていない山、歩いてない古道をこれから訪れるつもりだ。

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