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2020-06-01

2020年5月30日 宜蘭梵梵山 日本時代の原住民との戦場を訪ねる

大きな切り株の残る梵梵山登山道
梵梵山(標高1713m)は、日本語読みではボンボン山である。中国語読みよりその音の方が本来のタイヤル族の言葉に近い。近くに盆盆山(標高1014m)という山峰があり、説明では別名梵梵山とあるが、それは別のピークだ。台北近くで淡水河に流入する大漢溪の上流で分水嶺となる梵梵山は、その山裾を台七線北横公路が通る。100年以上前大漢溪上流の山岳地帯は、タイヤル(泰雅)族のテリトリーであった。この山も、実は日本統治時代に原住民との討伐戦場として登場する。タイヤル族部落民にしてみれば、自分の領域にやってきてそれを侵す日本統治政府に対抗するのは、当然の成り行きだった。

73.5Kから山頂を往復
歩行高度表
蘭陽溪(当時は濁水溪と呼ばれた)沿いの警備道を開削中の工事隊に対し、梵梵山稜線の向こう側大漢溪流域のタイヤル族科嵌部族民が襲撃をする。これが原因で、梵梵山事件が発生する。1910年5月、政府側は1800人からの討伐隊を組織し、梵梵山山頂を目指し進軍する。しかし、苦戦を強いられる。7月に2300人を再組織し宜蘭側と桃園側から攻撃し、梵梵山山頂を手中に収める。最終的には山頂に大砲を設置、警備道が大漢溪にそって開削が進んできて背後からも挟み撃ちになり、10月に帰順し銃砲を引き渡し、本事件は決着する。記録のある日本側は100人を超える死者をだした。タイヤル族側は正式な記録はないようだが、少なくないだろう。第五代総督佐久間左馬太の理蕃政策による、数ある熾烈な歴史の一コマだ。

梵梵山山頂にて
今回の訪問は、実はこの山だけではない。最大の目的は、翌31日に予定した日本時代に始まった大平山林場の遺跡が残る加羅神社や神代山などの縦走である。梵梵山は、そのメインイベント前の前奏であるが、やはり同じく日本時代に関係する場所として、この山を選んだ。タイヤル族部落をにらんだ大砲はもはや跡形もなかった。戦後の林場として設置された、瞭望台や作業小屋など半壊の建物は残っていた。梵梵山を中心として烏山から婆羅山への山脈の縦走もできるが、時間制限もあるので登山口から山頂を往復した。

第五高速道路は渋滞
今回は一泊二日の山行予定だ。メンバーが運転する三台の車で、台北の違う場所から7時に出発する。武漢肺炎の感染問題がだいぶ収まり、その反動のせいか外出する人がとても多い。台北から宜蘭へ向かう第五号高速は、入口から渋滞だ。ノロノロと進み、石碇を過ぎて少しましになるが、雪山トンネルに入るとまたスピードが落ちる。8時22分、やっとのことでトンネルを出て宜蘭に入る。空が晴れて蘭陽平野を縁取る山並みもはっきり見える。高速道路を降り、市街を抜け台七線を進む。9時12分、集合予定場所の玉蘭に着く。一台はかなり前に着いていたようだ。三台目はさらに30分ほど後にやってくる。ここで11人全員がそろう。

宜蘭は快晴だ
73,5K登山口
9時47分、梵梵山登山口のある台七線73.5K地点へ向け三台で向かう。蘭陽溪沿いを行く道を進み、10時4分さらに蘭陽溪をさかのぼっていく台7甲線を分け、山を登り始める。ジグザグに高度を上げていく。この部分を通るのは、筆者にとって実に40年ぶりだ。当時は未舗装の砂利道、バイクに乗ってこの坂道を下ってきた。峠からかなり長い下りが続いたことが記憶にある。10時28分、73.5K地点に着く。ここには中華電信の通信設備小屋がある。入口の柵の前に車を泊め、支度をする。

中華電信の通信設備小屋を後に出発
赤色の道標
想定より少し遅めだが、もともときついコースではない。11時10分前に小屋の脇から歩きはじめる。標高1713mの梵梵山は、いわゆる中級山だが人気のある山ではない。マーカーリボンは新しいものはあまり多くない。すぐに赤い道標を見る。林務局の設置する道標だ。実は、すぐ右に梵梵山への道を分岐するが気づかず、少し進んで気づいて戻る。梵梵山登山道は、その人気度を表し道はすっかり草をかぶっている。数日続いた雨のせいで、滑りやすい。

草が道筋を覆い隠す
旗山主峰
碍子が右の幹に残る登山道
伐採が終了して時間がたっているようで、人造林の杉も高く太い。倒木もかなり現れ、邪魔をする。倒木があると、道筋が途切れてしまい道を探さなければならない。11時28分、ひょこり旗山主峰が現れる。山頂というよりは稜線上にある基石の場所、という感じだ。少し下り、稜線上を追っていく。登りはそれほどきつくない。しかし、ところどころ道がはっきりせず、道筋を探す。道に碍子が転がっている。この道は以前の植林作業道だったと思われる。天気は良いが、稜線上は少し風があり助かる。かなり昔に伐採されたと見える、大きなヒノキの切り株が苔をまとって次々道端に現れる。12時18分、少し開けた場所の脇で休憩をとる。

切り株や倒木が多い
 婆羅山(右)への分岐
緩い坂道を進む
そのうち、道は稜線のすぐ左下を行くようになる。枯れた倒木は、様々な形を表し想像を掻き立てる。12時54分、婆羅山への分岐を過ぎる。赤い道標は、道は遠くヤタケは密生しているので、単独で行くなと記している。左に尾根道をを追っていく。緩い登りをさらに進み、13時22分、梵梵山山頂への分岐が現れる。山頂へは短いが、急坂だ。数分で坂が終わり、トタン板の見晴台(瞭望台)がある。骨組みと一部の壁は残っているが、半壊状態だ。途中で見かけた碍子は、ここへ電力を供給する電線のための物だったのだろう。見晴らし台のすぐ先が山頂(標高1713m)だ。ちょっと狭い山頂は、樹木に囲まれている。日本時代に設けられた砲台は、見晴らし台のある平らな場所に設置されたのだろう。13時半、昼食休憩をとる。

龍の口のように見える枯れた倒木
山頂の廃棄見晴台のタン壁
往路を下る
14時過ぎ、往路を戻り始める。同じ道を戻るわけだが、下りに取るとまた道筋を探さなければない場所もある。15時21分休憩をとり、その後すぐに旗山主峰を通り過ぎる。天気予報では、午後90%の降雨確率だったが、少し雨粒を感じるだけだ。本降りにならず助かる。そのまま下っていく。16時、登山口近くの分岐に降りる。登りでは気づかなった、半倒壊した作業小屋が左にある。すぐに登山口の中華電信小屋が現れ、登山は終了だ。休憩込みで約5時間を要した。

車に分乗し、台七線を下る。右方向高く、おそらく梵梵山辺りではないかと思われる山が、少し雲をかぶっている。台7甲線を進み、17時20分今日宿泊予定の南山村莎韻民宿に到着。夕食や入浴をすませ21時には就寝する。明日は三時起きだ。


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