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小粗坑古道の峠から基隆山と麓の九份を望む |
台北の北東に位置する瑞芳地区は、近年有名になった九份等の賑わいで、観光地として活気を取り戻している。九份や金瓜石の近くには、金鉱で活況を呈していた当時、金鉱関係の集落があった。金鉱がさびれ忘れ去られ、その集落との往来に使用されていた道も歴史の彼方に埋もれた。近年、こうした道が整備され、登山目的で歩かれている。今回訪れた小粗坑古道は、金鉱の集落であった小粗坑を九份、侯硐と結ぶ道である。以前歩いた
貂山古道や
大粗坑古道も同じような金鉱に絡んだ道である。一方、下りに歩いた金字碑古道は、鉄道に取って代わられる前に台北と宜蘭を結ぶ主要な街道、淡蘭道の一部だ。以前歩いた
草嶺古道も淡蘭道の一部である。当時は、台北から宜蘭へは三日がかりの旅だったと聞く。台北から基隆河を船で暖暖まで遡り瑞芳で一泊、翌日金字碑古道を経て雙溪で更に一泊、その後草嶺古道を歩いて頭城,宜蘭に着いたということである。
金瓜石のゴールドラッシュは、1892年に九份の背後の山、小金瓜のあたりで金脈が発見されたことに端を発する。それ以前にも基隆河では砂金が発見されており、上流でその元を探った結果である。この事が知られると、一攫千金を目論んだ多くの金鉱堀りが山に入り発展した。小粗坑集落は、この流れのなかで形成された。最盛期には、二百人からの住人が住んでおり小学校分校もあった。今はもちろん誰も住んでおらず、当時の遺跡が残っている。
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金字碑 |
淡蘭道は、基隆河から更に奥に進むには、三貂嶺の尾根を越えなければならない。金字碑古道は、三貂嶺の鞍部を峠として越えていく道である。基隆河は、遡って行くと平溪の上流にたどり着くが、侯硐を過ぎると河の両脇は崖が迫り、当時は道を開くのが大変だったので、このルートが選ばれたのだろう。金字碑の名前は、峠が近くなる上部に清朝總兵(知事と同じ役割)である劉明燈の残した詩文が刻まれた石碑にちなんで名付けられている。当時は金箔が文字に貼られていたので金字碑ということである。今はもちろん金箔はない。劉明燈は、草嶺古道でも詩文を残している。有名な虎字碑などがそうである。
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侯硐から北側の小粗坑古道を登り、南側の金字碑古道を下る |
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高度プロファイル |
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以前歩いた古道も併記 |
今日の二つの古道は、侯硐のスタート地点は近いが、小粗坑古道は北方向に、金字碑古道は南方向に進むので、この二つを歩くためには途中を移動して結ぶ必要がある。今回は、小粗坑古道の峠をこえた後すぐ、東方向に大粗坑山、小金瓜へ歩き、その後102号県道を南方向に歩いて金字碑古道の入口へつないだ。小粗坑古道の峠を過ぎると、東北角の山の特徴である草の山となる。展望は抜群だが、陽射しが強いと苦労する。今日は、寒波が遠のき久しぶりの好天だが、雲も多くこうした山を歩くには最適だった。ただ、旧暦正月の五日目、まだ休暇中なので帰りは付近が観光地となっている侯硐駅は大混雑であった。
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侯硐から小、大粗坑山を望む |
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瑞侯公路から小粗坑山を望む |
家を7時に出発、MRTで南港駅へ、台鉄の電車に乗り換える。まだ時間が早いので、車内は混んでいない。約45分の乗車で侯硐駅に着いた。8時43分に駅から歩き始める。駅周辺の商店は、大勢来るであろう観光客を迎えるため準備に忙しい。集落を抜けると、開けた基隆河のわきから、今日歩く小粗坑山から大粗坑山への尾根筋とその右には牡丹山が、くっきり見える。振り返ると、
去年八月に登った獅子嘴岩の特徴ある稜線が、侯硐駅の奥に座っている。介壽橋で基隆河を渡り、侯硐の集落を抜けていく。その先、弓橋を越える。ここから金字碑古道と大粗坑古道へ続く産業道路が分岐する。更に瑞侯公路を進み、侯硐国小のわきを過ぎる。バイパス道との合流点に小粗坑古道の入口がある。侯硐駅から約30分の歩きだ。
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小粗坑古道の鉄製橋 |
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昔ながらの石段道 |
はじめの部分は舗装路だ。すぐに登りが始まり、10分足らずでベンチと案内板がある土の古道の入口が現れる。鉄製の立派な橋を二つ越す。昔ながらの石の階段道が始まる。ここの石段は、表面を凸凹に加工してあるので滑りにくい。8時半、瑞侯公路から約20分の登りで土地公に着く。その少し先で、また沢を越える。道は山腹に取り付き登り始める。道脇には、苔むしているが石垣が積み上げてあり、もともとしっかり整備された道であることを示している。瑞芳地区の古道はたくさんあるが、ほかはセメントで覆われたり、花崗岩の石段に取り替えられたりしているが、小粗坑古道は昔ながらの石段のままで最も古道の風情がある。別な見方をすれば、もともとそれだけ程度が高い道だったのだろう。階段道を登りつめ、少し山腹をトラバースしていくと小粗坑集落に着いた。土地公から約20分である。
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小粗坑集落の分岐部、左は粗坑口山へ続く |
小粗坑集落跡は、苔むした石の壁や石積みが沢山残っている。人気のない路地には、ツツジの花が満開だ。説明板によれば、ここには最盛期には二百数十人住人がいたとのこと。また、日本統治時代初期には、ここを拠点に抗日活動があったということだ。小学校分校もあり、低学年が登校していた。中高学年は、麓の本校まで毎日この山道を通っていた。集落跡の道を登ると、正面には門のある建物がある。山中道場とあるので、ここは修行のために人がいるのか。古道はここを右に折れ登っていく。石段や土の道を登っていく。山神廟が現れる。祠の前の祭壇には、一冊のサインブックが置いていある。開いてみると、外国人も含めいろいろな人がサインをしている。
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小粗坑集落の廃屋群 |
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山神廟 |
道は左に山腹を巻いていく。木の柵がある。その内側には穴が開いている。金鉱入口なのか。このすぐ先で、右に細い踏み跡が登っていく。小粗坑山へ尾根を伝っていく山道だ。これを取り、急な坂道を登る。10分ほど登り、10時半少し前頂上(標高485m)についた。北方向が開けた頂上からは、基隆港、基隆山と麓の九份の街、そして茶壺山と半平山までの広い範囲が眺められる。東側は、これから歩く大粗坑山への尾根が続いている。侯硐駅から歩き始め約1時間50分、ここでしばし休憩する。
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小粗坑山頂上からの展望(クリックで拡大) |
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右に鉄塔保線路が続く |
小粗坑山頂上からは、尾根を忠実に伝っていく道があるがほとんど歩かれておらず、背の高い草薮に覆われている。ここを一人でかき分けていくのは大変なので、一旦小粗坑古道へ下る。下るとちょうど古道の峠部分だ。ベンチも造られている。古道を少し下ると左に折れていく。ここからは鉄塔保線路が分岐して、東に進む。保線路を少しいくと左に良い道が分岐するが、保線路は右に登っていく道だ。しばらく続いた雨のため、赤土の道はぬかっている。坂を登っていくと、右の草むらの灌木の枝に古い標識リボンが結んである。小粗坑山頂上から尾根伝いに来る道だろうが、草に埋もれて全くわからない。送電鉄塔に着く。台座は少し高くなっているので、展望できる。侯硐駅とその谷あいが見える。更にその右奥の方には、三爪子坑山と更に遠くに平溪の
中央尖と
峰頭尖が判別できる。その左側は
獅公髻尾山だ。
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鉄塔と保線路 |
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鉄塔の下から侯硐方面を望む |
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平渓方面の山が見える |
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大粗坑山の近く、奥に河馬の頭に見えるのが小金瓜 |
保線路を更に登る。10分ほどで大粗坑山の下、小金瓜への分岐に来る。
去年五月以来だ。こちらから見る小金瓜は、河馬の頭のように見える。大粗坑山頂上(標高576m)へ登る。ほんの僅かで鉄塔のある山頂に着く。道には米粒が落ちている。道沿いにずっと落ちているので、誰かが何かの目的で撒いたものだろう。この鉄塔台座も格好の展望台だ。これから歩く102号県道やその上の牡丹山、さらに下ると一つ無名の草原の山の右に三貂嶺山がある。
五分山の球状レーダーが目立つ。反対側は、基隆山と九份だ。今まで登ってきた方向には、小粗坑山のピークとその先には、瑞芳の街が見える。その遠く向こうは陽明山山系だ。天気は良いが、海側からうっすりと霧がかかってきている。海に浮かぶ基隆嶼も白い雲を頭に冠っている。時刻は11時40分過ぎ、ここで食事休憩をする。
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大粗坑山からの展望:手前のピークが小粗坑山、左の谷間に瑞芳の街、遠くの山は陽明山山系 |
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五分山方向を望む |
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大粗坑山の下りから見る、奥の中央のピークが三貂嶺山、金字碑古道はこの山の鞍部から下る |
頂上から下り102号県道へ向かう。数名の観光客が道を歩いている。車を県道に停めて散策しているようだ。鉄ゲートを通り102号県道を右に進む。すぐに大粗坑古道入口を過ぎる。道ははじめ下り気味だ。車やバイクが時々通り過ぎていく。10年ぐらい前、自分も車を運転して通り過ぎたが、歩いてみると変わりゆく山並みや、大粗坑の谷の様子を発見する。大粗坑古道の天橋とそのたもとの廃屋が見える。侯硐の谷にもうっすらと霧が流れ込んでいる。一度下った県道は、少し登り気味になる。歩いて25分で、不厭亭のあずま屋がある展望広場がある。多くの観光客や自転車ライダーがいる。そのあずま屋の名の通り、ここからの展望はいつまで見ていても飽きない。通信中継アンテナのところから牡丹山への山道があるようだが、これも草に埋もれているようだ。
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102号県道から見る侯硐の谷あい、霧がうっすらとかかっている |
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県道と不厭亭、奥は牡丹山 |
102号県道を更に下る。右に草の山があるので、ここからはもっぱら雙溪方面の展望となる。
貂山古道から下ったあと歩いた谷あいがよく見える。雙溪の奥の山々はまだあまり知らないが、
桃源谷の灣坑頭山は変わった形状なので、判別できる。そのずっと左のほうで
草嶺古道が峠を越える。単独に咲く山桜や満開の白ツバキの花を見ながら、不厭亭展望台から20分ほど歩くと、金字碑古道の入口が現れた。時刻は13時。金字碑古道は、牡丹側に下る部分もあるが、これはいずれの機会に歩こう。古道ははじめ数分登り、三貂嶺山鞍部の峠に着く。奥まったところに探幽亭あずま屋、中央に奉憲示禁碑がある。奉憲示禁碑は苔に覆われて判読できないが、ネット上の資料ではむやみに樹木を伐採するなということが書かれているそうだ。以前からも自然保護の認識があったのだ。あずま屋には家族連れハイカーが数名が休憩している。
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県道から見る桃源谷の山並み |
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峠の奉憲示禁碑 |
峠の土地公の祠のわきから山道が続いている。三貂嶺山への道だ。もともとは予定していなかったが、そう遠くもないので登ってみる。道は森の中を進む。急坂を過ぎると、今度は岩の間を進む。水気が多く濡れた岩は滑りやすい。15分ほどの登りで三貂嶺山頂上(標高550m)に着いた。狭い頂上は展望も全くなく、そのままきた道を戻る。下りの途中、大岩を下る所で木々の間に、遠く燦光寮山とその右奥の草山が見えた。峠に戻ると、先の家族ハイカーはまだ休んでいる。泥だらけの筆者の靴をみて、尾根道は大変かと訪ねてきた。用意が無ければ歩かないほうが無難だと答えた。時刻は13時40分過ぎ、ここで少し休憩する。
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金字碑古道の様子 |
金字碑古道は、コンクリ製の板が敷き詰めてある。表面は濡れており苔が生えているので、滑りやすい。つづら折りの道を10分ほど下ると、右の岩壁に彫り込まれた金字碑が現れた。大きな碑だ。劉明燈は1867年にここを訪れ、この詩文を残したということなので、すでに150年近く経っているが、金箔はないもの文字はくっきり残っている。更に下ると坂は少しゆるやかになる。道の両脇は大樹で、昔からの街道であることを感じさせる。水場を過ぎて行くと、左に山道が分岐する。後凹古道だ。この道は侯硐の街の上に直接下っていく。途中休憩場を過ぎ、14時38分に金字碑古道入口に着いた。1.8キロの道のりを50分ほどで下ってきた。この道は、全線路面にセメント製敷石が敷かれ、一部はコンクリ舗装され整備されている。ただ、古道という雰囲気は、金字碑や奉憲示禁碑などの文物だけで、道自体はあまりそれを感じない。古いままの石段が残る小粗坑古道とは対照的だ。
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大粗坑渓にかかる淡蘭橋から歩いた稜線を見上げる |
淡蘭橋をわたると、大粗坑古道からの産業道路に合流する。振り返ると大粗坑溪の上には、先ほど歩いた山並みが高い。旧侯硐小学校の建物を過ぎ、瑞侯公路に合流する。ここからすぐ基隆河にかかる橋を渡り、ビジターセンターのわきを通りすぎて侯硐駅へ向かう。車が多く通り過ぎる。駐車も多い。やっと来た休暇中の晴天日、周囲は多くの観光客があふれている。山中では、あまり人に出会わず静かだったので、この賑わいはひときわだ。駅に着くと構内は、人でごったがえしている。人であふれる階段を登り、ホームに着くとちょうど18分遅れの台北行きの電車がやって来た。帰りは1時間かかって南港駅に着き、MRTで帰宅した。
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煤礦博物館の橋から大、小粗坑を振返る |
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東京のラッシュアワー並の混雑 |
今回の行程は距離約11.5km、休憩込みの所要時間6時間20分、登攀高度累計811mである。瑞侯公路や102号県道が約4kmを占めるので、山道は三分の二というところだ。そのうち、苦労する道は小粗坑山への尾根道と三貂嶺山頂上への往復だけで、他は歩きやすい道だった。
瑞芳の周囲には、歴史的にも意義深い古道が多い。それぞれ特徴をがある。今までの歩いた道では、国を越えた愛情物語が秘められた無名墓のある貂山古道、金鉱と運命を共にした大、小粗坑古道、そして清朝時代台湾で初めて設定された官道淡蘭道の一部である金字碑古道がある。それ以外にもまだまだあるようなので、おいおい歩いてみるつもりだ。
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