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能高古道西側を行く、背後には峠鞍部と卡賀爾山・能高山南峰(中央奥) |
能高越嶺古道を訪れるのは、筆者にとっては三度目となる。はじめは
2017年秋、能高安東軍縦走を終え下山のルートとして、二度目は
2019年12月に南華山と奇萊山南峰の登山時に往復した。しかし、山脈を越えて東側花蓮に下ることはなかった。それは、現在国家歩道として管理している林務局が封鎖していたためだ。今年になり再び古道は開放された。100年前に開かれた能高越嶺警備道は、当初は沿線原住民の管理や郵便物運搬、いざというときの軍事用であった。その後、原住民の反抗がなくなり治安に問題がなくなると、3000m級の峠を越えていく高山ハイキングとして、多くの人々がこの道をたどった。警備道上の特定の駐在所は、登山者に宿泊や食事などを提供し(もちろん有料だが)、今の山小屋的な役割をしていたのも、ハイキングが手軽にできた要因の一つである。
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古道鞍部、光被八裱碑のメンバー全員 |
日本時代は交通手段が今ほどではなく、西側埔里から東側花蓮初音までの84㎞をすべて自分の足で歩かなければならなかった。最少で三日、ゆっくり行けば六日ほどを必要とする行程である。それはそれで、高度を上げるにつれ亜熱帯から亜寒帯までと変化する自然形態に触れる貴重な体験だ。今は台14線の西側終点屯原登山口から、東側の登山口を経て台湾電力が開いた道をたどり、天長隧道東入口までの35㎞の行程である。二日で、古道の一番高山らしい自然を体験できるのは、忙しい現代人にとってはありがたい。
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西から東へ中央山脈を越えて歩く |
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二日間の歩行高度 |
今回の山行は、筆者を含め14名と高山活動としてはちょっと多いパーティだ。しかし、道の状態も少数のがけ崩れ部分を除きおおむね良好であり、期間も二日と短いので参加を希望したメンバーを皆受け入れた。大正15(1926)年7月に、当時の台湾山岳会会員佐藤春吉が、台北第一中学校(現在の建国高校の前身)学生十数名を引率して、能高越えを行っている。それと同じようなパーティサイズだ。前回二回の訪問時に比べ、盛夏の山には高山植物が咲き乱れ、枯れた矢竹が多い秋冬とは異なる風景が出現していた。天候にも恵まれ、日差しは強いものの、高山の爽快な気候の中、素晴らしい山歩きができた。
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古道鞍部近くに多く咲く玉山當歸の花 |
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まだ暗い中屯原登山口を出発 |
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崖崩れ部分から馬海僕富士山と再生山(左)が見える |
今日は3時に起床、3時半に朝食、まだ暗い中4時に出発する。午後雨になる可能性があるので、できるだけ早く出発したい。台14線を進む。この道は、もともと能高越警備道を拡張したものだ。日本統治時代の末期、現在の登山口屯原駐在所まで拡張されたが、終戦を迎えその先は中止された。現在は駐在所跡は駐車場になり、登山者はここまで車で来ることができる。国民政府は、能高越嶺步道を利用し花蓮まで自動車道にすることを計画した。西側は勾配も緩く問題ないが、東側は勾配がきつくまた地質が脆弱であるため、実行されなかった。東側も、瀧澗から東側は台14線となっている。
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古道4Kキロポストを過ぎる |
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雲海保線所 |
支度をすませ、4時50分に歩きはじめる。まだ暗いのでヘッドランプを点けて進む。そのうち白んでくる。5時15分、1Kキロポストを過ぎる。明るくなってきた谷間を挟んで、
馬海僕富士山がそしてその向こうに干卓萬の山並みがたたずんでいる。馬海僕富士山の馬海僕は、モナ・ルダオの部落マヘボ社のことである。霧社事件のあと、マヘボ社の住民は移住させられ,部落はなくなった。まだ気温も低く、順調に歩みを進める。6時15分、4Kをすぎ左に
尾上山への登山口を見ると、間もなく吊橋を渡る。6時24分、雲海保線所につく。ここは尾上駐在所の跡地だ。
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雲海保線所から望む守城大山、左遠くに埔里盆地 |
台北第一中學の学生を引率して能高越警備道を歩いた佐藤春吉は、1926年7月13日屯原(トンバラ)駐在所から能高駐在所(天池山荘)まで歩いている。その道のりを、次のように記している。「七月十三日、此の日もまたそれ晴れて風なし。朝八時「トンバラ」を發す。荷物運搬の人夫は「ボアルン」社より徴發せるもの、彼等は能高に其の負荷せる荷物を送り更に下りて蕃社に歸る、その全程は十一里標高差四千尺を上下して得る處の賃金僅かに六十錢なり。此の日の行程は緩斜の山道變化に乏しきも、涼風肌に迫り、殆ど無樹の草野帯は歩一歩視界開けて山靈の崇高さを感ぜしむ。十時過尾上駐在所に着きて小憩す。同所は谷頭の凹地なれば針葉樹の密林に蔽われ、初めて高山に入りし氣分滿々たり。標高七千八百七十四尺に達す。」ちなみに当時の尾上駐在所は、現在の場所より西に1㎞ほど行ったところであったという。1930年に起きた霧社事件で焼失した後、今の雲海保線所の位置に再建された。ボアルンは今の廬山で、昨晩の宿泊地だ。
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5.5Kがけ崩れ近くから望む能高山 |
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がけ崩れ部分を行く |
しばし休憩をしたあと、先に少し下りまた登り返していく。谷間の向こうには、能高山が幅広くそびえている。古道上からはいろいろな場所から見えるが、進むにつれてその姿を変えていく。7時15分、大きな崩壊斜面を横切る。ここは大雨のあと、よく崩れて古道が封鎖される原因の場所だ。今日は日曜日、土日を利用して訪れ、下山して来る登山者とすれ違う。崩壊部分を過ぎると6Kキロポスト、天地山荘までの約半分を来た。
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天地山荘近くから見る能高山は三角ピラミッドだ |
佐藤春吉は、屯原から約5時間半を要して霧社事件で焼失した檜木御殿と呼ばれた能高駐在所に投宿し、こう記している。「能高駐在所は標高九千四百三十七尺、横断路中の最高点にして、八通關駐在所より高きこと百餘尺、実に日本全國中最高所にある住宅なり。所謂能高御殿は總檜造りの壯麗なるもの、前に能高主山後に
能高南峯を近く望み、その脈遠く白石山、安東軍山に延ぶ。その右方蜿蜒として蚊龍の伏するにも似たる溪谷は是れ濁水溪の一源流にして遠く霧社方面に連なる。… 気温はなはだ低く人皆な冬衣を纏う。快晴温暖の日なるも今朝華氏五十九度(15℃)、正午七十一度(22℃)、午後六時六十五度の低温なり。是れ頃日の標準的のもの、障子を閉じ火鉢を擁して下界暑熱の苦を偲ぶ。」
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多くの登山客がくつろぐ天池山荘 |
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天池山荘と背後の深堀山 |
山荘の前には多くの登山客がくつろいでいる。下山を始める団体を見送る。昼食を取り、11時15分、工事のためにけたたましく大きな音を発する機械の脇を、鞍部へと進む。道の開けたところには、多くのテントが張ってある。山荘が改修中で使用できないため、多くの登山者に対応するためだ。15分ほど進むと右に山荘と、その背後に深堀山が見える。1897年調査探検のためにこの地を訪れ、13名の部下とともに原住民に殺害されてしまった、深堀大尉にちなんで名づけられた。さらに進み、今回の古道中の最高点を過ぎる。道は森からでて右側が開ける。日当たりのよい場所は、玉山當歸の白い花が満開で、斜面を埋め尽くす場所もある。去年12月は、思いもよらかなった光景だ。當歸は、その根が漢方薬に使われる。ここの當歸は台湾固有種だ。
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能高山への分岐(右)を過ぎ、下り始める |
佐藤春吉は、こう記す。「此の地標高八千九百六十六尺、中央山脈中東西両斜面の分水界にして、能高主山と能高北山との間に位す、西方に蜿蜒たる濁水溪の溪谷は埔里の盆地に盡き、盆地の西方遠く平野を俯瞰するも海陸の分界を認めべからず。東は木瓜溪の溪谷叉迂餘曲折し花蓮溪口の海に注ぐあたり、白浪岩に砕けて海波遠く漂渺たるを見る。天幸ひ晴れて展望を遮るもなく爽快實に極まりなし。時の移るを忘れて歡談莊語之を久ふす。九時行を整へて下山の途につく。」
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急坂で高度を下げていく |
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湿気の多いため、苔が繁殖する森の脇を進む |
12時半過ぎ、我々も下山を始める。5分足らずで、右に能高山への道を分け、高度を下げていく。間もなく道はつづら折れになり、高度をどんどん下げる。草原の道脇には目立つピンクのミヤマナデシコ以外にも、台灣劉寄奴や一枝黄花などの黄色いが咲き誇っている。日陰のないこの坂は、昼下がりの陽光で暑いぐらいだ。鞍部までの道に比べると、歩く登山者の数が少ないため、道は草がかぶさる部分もあるが、道筋ははっきりしている。途中苔が幹にこびりつく小さな森などを抜けていく。この谷間は霧が良く発生するので、こうした植生が育つ。13時、17Kを通り過ぎ、間もなく鉄製の橋を越える。つづら折りの坂道は終わりだ。その少し先の木々の下で休憩をとる。
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17Kキロポストを過ぎる |
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上檜奇吊橋の下を行く |
歩きはじめてすぐ、上檜奇吊橋がある。通行できないので、その下を道は巻いていく。その後道は山腹の森の中を抜けていく。13時50分、がけ崩れの部分を通過する。危ない場所にはロープが渡してある。その先10分足らずで、またがけ崩れを通過する。こちらは水が流れている。周囲は霧が出てきて遠くは見えない。後方メンバーが追い付くのを待ち、さらに下っていく。さらに二カ所の小さな崖部分を通過すると、しっかりとした道が続き、そのうちヒノキの大木が次々と道脇に出現する。メンバーは、驚きの声が絶えない。14時52分、左に小滝のある沢を橋で越え、20Kを見て間もなく15時10分今日の宿泊地、檜林保線所に着く。ここは、もともと東能高駐在所があった場所だ。標高は2100mほど、鞍部から約700m下ってきた。今日は約20㎞を、休憩込みで約10時間20分で歩いた。
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ジグザグに下る |
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霧の中のヒノキ林を行く |
鞍部から東能高駐在所までの道のりについて、佐藤春吉は次のように記している。「鞍部より東に下るの道路は、大斷層線の斷層面を下るにより險阻を極め、一里の間に二千尺を直下して東能高駐在所に至る。この間斷崖壁立片岩壘積の狀雄渾を極む。東斜面の緩斜なるは粘板岩の層面を辿るもにして岩種にも變化なく地形概して單調なるに、大斜面に至りてはその趣全然異なり、大斷層山脈としての中央山脈を望見すべし。」
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檜林保線所 |
保線所の前には、平らな場所がありそこにテントを設営する。保線所は一般には開放されていない。建物脇には先ほどの小滝の沢から引かれた水場がある。鞍部から東側はヤマビルが多いと聞いていた。実際、メンバー中血を吸われた者もいる。食事をすませ、20時までには就寝する。今日は、最後の部分で少し雨粒を感じたが大降りにはならなかった。ところが夕方遠くで聞こえていた雷は、20時を過ぎて近づきかなりの大降りの雨が一時間ほど続いた。
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第ニ日 7月27日(月)檜林保線所 - 五甲崩山 - 古道登山口 - 奇萊山莊 - 天長隧道
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崖崩れ部分を過ぎる、背後は中央山脈 |
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五甲崩山へジグザグ道を登る |
佐藤春吉一行は、能高駐在所から東能高駐在所と奇萊駐在所を通過し、坂邊駐在所まで足を伸ばしている。東能高駐在所を過ぎて、次のように記している。「東能高よりは檜其の他の密林深く閉ざして、その間高さ數丈、徑五六寸に達する蓪達木や、高さ十餘間徑尺餘に至るサルスベリ等の巨木を交ふ。左まで險なりと言ふに非ざるも、臺中洲下に比して道路大に劣る、地質の差又已むなきなり。東より登攀することの困難少なかざるを思はしむ。」その後、五甲崩山の山腹を横切り、奇萊駐在所へ下っている。
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奇萊連峰を望む |
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登山口へ下る |
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巨大な崩落部分の上を進む |
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送電鉄塔と背後の奇萊連峰 |
十数分の休憩後、下り始める。ここからは基本下り一本だ。すぐに左側が開け、
奇萊主峰から
奇萊北峰への連峰が高く連なっている。道は雑木林の中を下っていく。途中、道脇に送電鉄塔を見て下り、9時過ぎに右に大きな崩壊部分の上を過ぎる。この崩壊部分は、以前能高越警備道が横切っていたはずだ。これだけの大きな崩壊だと、まったく残っていないだろう。また森の中を下り、9時半26.5Kキロポストを見て古道入り口に着く。これで古道歩きは終了だ。もともとは、ここまで車で来れたが、度重なる台風などでがけ崩れが多く発生し、この先まだ10㎞ほど歩かなければならない。先に休憩をとる。
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東側登山口のメンバー |
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廃棄された車道を下る |
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天長斷崖に廃棄された道筋が見える |
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車道のがけ崩れ部分を行く |
台湾電力が開いた道は、車が通れるように広く勾配も緩く造られている。少し進むと、崖崩れや路面に大きな岩が転がっていて、車は到底通行できないことがわかる。下っていくと、天長溪と丸田溪とが合わさって、木瓜溪と名を変える合流点上方の山腹に右に登り気味に横切っていく道が見える。そしてところどころがけ崩れで途切れている。天長斷崖を行く廃棄された古道である。佐藤春吉一行はこの道を歩いて進んだ。
崩壊が激しい天長斷崖をいくセクションは、昔のハイキング中の難所でもあった。佐藤春吉の感想は、「 …鐵線橋を渡り、緩斜の山道を行くこと約十町にして、天長山の險坂前に開く。この坂道は二十餘の電光形を切って二十四町二千餘尺を上がるもの、我が行全程中の最難所たり。… 両側共に削剝崩壊せる山體の雄偉なる風景はむしろ悽滄の感あり。此の崩壊は遠く木瓜溪對岸の大崩壊と相連なりて偉觀極まりなし。」登りつめ振り返れば、その大岩壁の壮絶さは彼をして、「往年日本アルプスに槍、穂高の風蝕と、焼岳の火山作用によるその雄偉なるに驚きたりしも、今此の大觀に接しては、到底兒戲の感なき能わず。高山國の臺灣、炎熱多雨の此の高山にして始めてその雄大を誇り得べし。」といわせている。
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奇萊山莊 |
我々は、台電の奇萊路を進む。沢をコンクリ橋で横切り、天長溪の上流方向に進んでいく。このセクションもがけ崩れが起きている。11時5分、台電の工事で殉死した社員などをねぎらうための萬善堂の前を通過し、数分で奇萊山莊に着く。ここで一時間近い昼食休憩をとる。今は、殆ど使われていない。
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天長溪に掛かる鉄橋 |
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滝のように水が落ちる |
12時10分過ぎ、天長隧道までの最後のセクションを歩きはじめる。残りは5Kmほどだ。道はほぼ平らに、天長溪の上流に向かって進み、その奥でトンネルを抜け、橋で沢を越える。橋は鋼鉄トラスの立派なものだが、その役目はすでに終わっている。天長溪の左岸を進む。少し行くと、崖が崩れ樹木で作った簡単な桟道を渡る。その先、上から滝のように水が流れ落ちる場所にくる。その少し先は、落石を防ぐトンネルになっている。出迎えのシャトルサービスの車との約束時間まで余裕があるので、そこで休憩をとり、水遊びをする。
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トンネル東口で車に乗車 |
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滝の上にはかつて集落と駐在所があった |
全員がトンネルから出て車に分乗する。銅門に向けて下り始める。路面は凸凹でかなり揺れるものの、崖崩れや路盤の流失はなく、四駆であれば通行できる。銅門までのセクションは、原住民だけの地区に指定されているので、台北から往復を担当する車は入ってこれない。素掘りのトンネルなど、台湾電力が開いた道だ。日本時代の能高越警備道は、その下にあった。右の深い谷を挟んで、対岸に磐石保線所が見える。しかしなかなかたどり着かない。雲がかかってきているが、谷は深くその岩壁は壮絶に落ち込む。山脈東側は、西側にくらべ実に雄偉だ。30分ほど山腹をほぼ平らに進み、磐石保線所につく。ここから道はつづら折れで、大きく高度を下げる。運転手は筆者が日本人と知って、途中で車を停め、滝の上の平らな場所にはかつて集落と(おそらく桐里)駐在所があったと、教えてくれる。15時17分、発電所のある龍澗に着き、小休憩をとる。
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多く見かけたミヤマナデシコ(玉山石竹) |
実質二日の行程は、雨に降られず素晴らしい景観も楽しめ、また時間的にも余裕があったので、愉快な高山ハイキングができた。古道ができて100年がたち、脆弱な地質を行く部分は、途切れてしまったところもある。しかし、文中でも引用したように、古道を取り巻く山谷や自然は変わらない。登山者の気持ちや感動も変わらない。日本人の先輩たちが歩き、感じたことを、自分も身をもって体験できたことは、とてもうれしい。少し困難な場所や、交通の不便、また一泊も必要なこともあるが、日本の登山者にもぜひ歩いてもらいたいと願う。なお、佐藤春吉の文章は、昭和二 (1927)年に台湾山岳に投稿された「能高越」からの引用である。