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五峰部落から望む鬼澤山 |
数日前の新竹縣尖石鄉麥樹仁山登山は、やぶ蚊と暑さに閉口した。その反動で、今回は同じく新竹縣にある尖石鄉の隣五峰鄉にある山に出かけた。少し離れた二座の登山だが、行動時間も短く、昼間は和平部落の生活館というタイヤル(泰雅)族原住民文化的色彩の集会所兼展示場でゆっくりとピクニックを楽しんだ。その標高は数百メートルだが、吹き抜ける風は快適で、やぶ蚊もほとんどなく、対照的な山行をエンジョイした。
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和平部落と鬼澤山 扇子排山 |
鬼澤は、日本人の苗字でもある。資料によれば全国で数千人、筆者の苗字もそれほど多くはないが、それよりもさらに希少ということだ。この鬼澤がこの地の山に冠されていることも珍しい。日本統治時代には、現在の新竹県(当時の新竹州)の山間部には、原住民部族の集落を結んだ警備道が張めぐされていた。それぞれの部落には駐在所が設けられ、警察官が在住していた。当地近くで有名な
霞喀羅古道は、当時のシャカロー・サカヤチン警備道の現存する一部である。その警備道の始点である十八兒(シバジー)から上坪溪を挟んだ鬼澤山の北側山麓にはマイバライ部落(現在の和平部落)があり、駐在所もあった。当座の南側にはシャカロー警備道の桃山から沢を越えてマイバライや、タコナン(現在の羅平)へと結ぶ警備道上分岐点がオニザワ(現在の忠興)部落で、そこに鬼澤駐在所があった。当座の名前はこれに由来しているようだ。
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鬼澤山とその付近の地形 |
午前中に鬼澤山を登頂した後、和平部落の生活館と称する部落民の集会やお祭りなどを行う場所でゆっくりと昼食をとった。その時に、地元の若い人たちがやってきて録画を始めた。そのうちのリーダー格の人が、地元の歴史などについて話してくれた。マイバライ駐在所に勤務していた警察官の息子(といっても8,90歳の高齢)が、家族を伴って部落を訪れ、地元民と交流したという。当人は、とても懐かしがっていたとのこと。数十年の年月を経て幼少の頃の地を訪れ、実に思いが深かったのではないと思う。日本統治時代には、特に1920年ごろまでは地元原住民との衝突もあった。しかし少年には楽しい思い出があったのだろう。歴史は変えられない。発生した史実を受け止め乗り越えて、初めての真の交友がある。
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和平部落生活館、全面は瞭望台、背後は鬼澤山 |
マイバライは、タイヤル族の言葉で傾斜が緩やかな土地のことだそうだ。鬼澤山の北山麓に位置して、昔は耕作などもできた場所だ。今は多くのキャンプ場や観光農園になっている。鬼澤山の東南には
マイバライ(麥巴來)山がある。その急峻な山容で知られている。本来のマイバライとは正反対の山容を呈する山に、なぜこの名前が付けられたのか。しかもマイバライ部落より距離がある。
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@鬼澤山山頂 |
鬼澤山の北東に位置する扇子排山は、訪れる登山客も少ない人気のない山である。和平部落から羅平產道をさらに進み、羅平部落を通り過ぎてしばらく、谷亮露營地の北側に位置する。鬼澤山だけでは、せっかく新竹までやってきたのでそのまま帰るのはもったいない、ということでおまけ的な意図で計画した。地元民によって整備されている鬼澤山の山道と比べると、扇子排山は草深く、竹林には倒れた竹が折り重なる、つまりは悪路である。さらに急な斜面で竹をつかんでよじ登らなければならない。距離は1キロほど、高度差も100mほどだが、往復には1時間を要した。
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前方に五指山を望み竹東に入る |
今日の山行は、車一台5名である。7時に台北を出発、第三高速を南下、7時58分竹東インターチェンジでおりる。頭前溪にそって68号快速道路を進む。前方に特徴ある
五指山や
鵝公髻山が近づくと、8時7分竹東の街に入る。台122号線を頭前溪の支流である上坪溪に沿って進む。この道は、今まで何度も通った。一部は、
樟之細路の一部として徒歩で歩いたこともある。もうすっかり馴染みだ。
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上坪溪にかかる和平橋の脇で駐車 |
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登山口 |
上坪の街をぬけ、8時半五峰に着く。以前のシパジー(十八兒)部落であり、シャカロー警備道はここが起点だった。正面には鬼澤山がそびえる。五峰の入口を見守る山である。台122号線を離れ左に沢へ下る。和平橋を渡る。原住民部落入口によくある山門をくぐり、車を停める。鬼澤山登山口(標高328m)が左にある。キャンプ場の案内道しるべがたくさん並ぶ。8時43分、支度を済ませ木製桟道で始まる山道を歩き始める。
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ゴム管が並行して走る山道 |
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竹林の道 |
山道の状態はよい。道脇には沢から水を引くゴム管がしばらく並行していく。ジグザグで高度を上げると、道はしばらく山腹を緩めにトラバースしていく。桂竹が目立つ。9時10分緑に苔むした岩を過ぎ、分岐が現れる。左に登る。右に乾いた岩盤の河床が見える沢をみてすぐ、枝尾根に取りつく。道はおおむね雑木林の中を進む。道幅が少し広がり、その先に木製階段が見える。9時27分、階段を登り羅平產道に出る。標高は約650m、約45分の歩きであった。休憩する。
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羅平產道に出る |
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戈巴倫露營區の看板が目立つ入口 |
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桃園鐮刀隊の道しるべの分岐 |
鬼澤山へは、右に少し行き左に登っていく道をとる。入口には戈巴倫露營區という大きな看板にくらべ、申し訳なさそうに鬼澤山古道と記された小さな登山道の表示がある。道はすぐに右へキャンプ場への道を分け、山腹を登っていく。分岐の桃園鐮刀隊道しるべは90分としていある。近づいてきた足音を聞いて、餌を与えてくれるのかと道端の檻の中の放し飼いアヒルや鶏が騒がしい。その先、道端にちょうど熟しているヤマモモ(楊梅)の木がある。手を伸ばし一つ二つ味見する。少し酸っぱいが、悪くはない。
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楊梅(ヤマモモ)の実 |
9時51分、車が一、二台停められる場所(標高744m)がある。多くの登山者は、ここまで車で来て登頂するようだ。ここからだと落差200mほどしかない。バイクが四台停めてある。その少し先で、道は左に分岐する。分岐右側の少し先は、樹木が途切れ北方向の展望ができる。上坪溪の谷を挟んで左には、五指山が、そのふもとには五峰の集落が斜面に展開する。右遠くには、午後登山予定の扇子排山も見える。
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駐車可能場所 |
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北側の展望 |
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勾配がきつくなる |
道を少し行くと四人休んでいる。生態資源維護隊という半被を着ている。彼らは登山道などの整備をしている地元の人たちだ。先ほどのバイクは彼らのだった。道はここから尾根に取りつき勾配がきつくなる。十数分休憩し、頂上を目指す。竹林の間の道は、とても状態がよい。しばらく天気が良いためか、道も乾いている。登ること数分で、岩が現れ勾配がきつい部分が続く。ロープや竹を使って手すりが設けられている。10分ほどで岩場セクションを通過、また竹林の間の急坂を登る。10時53分、勾配が緩くなるとほどなく山頂(標高1040m)に到着する。樹木に囲まれた山頂は、その中心に光がスポットライトのよう差し込んでいる。休憩込みで、登山口から2時間10分であった。
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竹林の間の登り道 |
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鬼澤山山頂 |
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急坂を下る |
今日は気楽な登山である。メンバーのビールをいただく。まだ冷えていて旨い。山頂で25分ほど過ごし、11時18分往路を下る。急な坂は下りは速い。20分足らずで、車が停められる場所に着く。先ほどの四台のバイクはすでにない。さらに下っていく。途中京都嵯峨野のような竹林を通るとき、竹の葉が風に舞っている。11時57分、羅平產道を横切り、さらに山道を下る。山棕の濃厚な香りを感じる。近くに黄色の花が咲いている。12時26分、登山口に降り立つ。往復で3時間43分である。距離は5.1㎞、落差は710mといったところ。コース定数は16となる。
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ミニ嵯峨野竹林 |
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山道の石段 |
鬼澤山古道と先ほどの道しるべにあった。我々が歩いた道は、実は日本統治時代にマイバライと十八兒をつないでた警備道ではないだろうか。道幅もそこそこあり、地理的にも合致する。羅平產道上の分岐から右にほんの少し進めば、和平部落である。羅平產道から上の部分も、山頂への一部を除いて鬼澤駐在所へと連なる警備道だったのかもしれない。
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和平部落生活館の入口 |
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泰雅文物館の内部 |
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集会所 |
車に乗り羅平產道を登っていく。徒歩では40分だった高度差は、車では10分足らず、和平部落に着く。その昔は駐在所があったのでは、と思われる道脇の高台は、今は生活館として催事の広場とその周辺に、あずま屋や一階に展示場を兼ねた瞭望台、トイレなどの施設がある。我々はあずま屋を借りて、ゆっくりと食事をとる。メンバーのひとりは牛肉を持参してその場で料理してシェアしてくれる。ビールもある。微風が吹き抜け、実に快適で豪華な昼食だ。ピクニックというべきだろう。
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集会所内部 |
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地元青年の活動 |
そのうち、地元の青年たちが数名でやってくる。活動記録の撮影ということだ。我々に対し、村の歴史などを教えてくれる。思いがけない収穫だ。資料館をのぞくと、昔の部落民の写真や様々な道具、そして捕獲した動物の頭蓋骨などが並べてある。また、広場の一角には部落の重要な決定をする集会所のレプリカも造られていゐる。以前は限られたメンバーしか入室できなかったということだ。
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沿路見る雲をかぶった麥巴來山 |
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谷亮露營區の道を登る |
14時50分、2時間以上過ごした生活館を後にする。羅平產道は山腹を山襞にそって進む。おそらくこの道も以前はマイバライとタコナン、そしてメホマン(現在の花園)を結ぶ警備道を拡張したものだと推測する。15時、羅平派出所を過ぎる。ここは日本時代はタコナン駐在所があった場所ではないか。少し下りはじめ、右に谷を挟んで麥巴來山が雲をかぶってその大きな山容を呈する。15時13分、谷亮露營區に着く。
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キャンプ場最上部 |
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草に埋もれた道 |
車を停め、誰もいないキャンプ地脇の道を登る。前方に高く扇子排山がかぶさる。最上部のキャンプグランドから山道が始まる。山道といっても、入り口も定かでない。それらしいところに入ると、踏み跡とマーカーリボンがある。竹林の間を少し行くと、坂が急になる。道は草深く、登るにつれ竹をつかまないと登れないほどの勾配になる。おまけに倒れた竹が道を塞ぐ。ところどころふさがれた場所を巻き、15時44分稜線に上がる。その先少しで扇子排山山頂(標高955m)が現れる。
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扇子排山山頂 |
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竹林を下る |
山頂は樹木囲まれ展望はない。この先扇子排山西北峰〔標高920m)への道が続くが、時間も遅いし展望もないので、下山を始める。下りは往路を行くので、迷うことはないが、悪路であることは変わらない。16時15分、先ほどのキャンプグランドにでる。脇のトイレなどはすでに使われずに壊れている。訪れるキャンプ客も多くないのだろう。グラインドも草ぼうぼうだ。犬が吠えるなか、入口にもどり車へと進む。距離1.1㎞、高度差約100m、1時間5分であった。最後のビールを開け、16時35分帰途に着く。花園部落へ下り、竹62縣道経由で五峰橋を渡り、上坪から竹東を出て台北に帰った。
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山登り自体は、楽なものであった。涼しいなかのピクニックや、現地のタイヤル族住民との交流もでき、非常に意義ある山行でもあった。朝から晩まで、山を駆けるのも山行であれば、今回のように余裕のあるスケジュールで尚且つ現地での体験を得るのも山行である。山登りは誰かに自分の体力や経験を誇示するものでなはい。ましてや競うものでもない。自分で納得のいく山行ができれば、それで十分だ。体験を重ね、台湾の地理歴史に対する認識が高まることは、筆者の望むところである。
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