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2016-03-27

2016年3月26日 苗栗馬那邦山 日本統治時代の歴史が残る小百岳

130号線の峠から見る馬那邦山と背後の雪山山脈
台北から南へ約百数十キロに位置する苗栗縣は、客家人のふるさととして有名だ。客家人とは、2000年前黄河流域から戦火を逃れて、南に移住していった中国漢民族の一派と言われ、広東省や福建省、江西省などが現在多く居住する地区だ。もともとの原住民に対し、そとから来たので客家と称し、独自の文化言語をずっと守ってきた。台湾へ移住しても、同じである。福建省からの移民は、平野に多く移民したが、後発の客家人は山がちの場所が主要な移住先である。苗栗縣もまさに、小高い山や丘が多く続く土地だ。

雪山(右)と聖稜線
苗栗縣の大湖は、イチゴ狩りの有名な土地だ。このイチゴ畑の上部にそびえる山が、今回の登山目的地馬那邦山である。山名は、原住民泰雅族のマナパン(壮麗な山という意味だそうだ)を漢字読みしたものである。標高1406mの山頂は、東側が開けていて天気が良ければ雪山山脈の壮麗な山々が望める。台湾の高山は、日本統治にスポーツ登山としての登攀が行われている。昭和2年(1927年)に、当時の台湾山岳会重鎮沼井鉄太郎によって、初めて縦走された大霸尖山から雪山(当時は次高山)への稜線は、沼井の神聖なる稜線という形容の言葉が今でもそのまま、聖稜線として呼称されている。その稜線が遠くに連なって望めるのだ。

古戦場紀念碑の小広場
馬那邦山は、また別の意味で日本統治時代とつながりが強い。日本は1895年に台湾を接収したあと、平地の抗日運動の他、山岳地帯では原住民の強力な反抗を受けた。この地でも、1902年に大きな戦役があった。台湾北部でも見かける原住民との境界としての隘勇線とその歩哨基地は、馬那邦山にも残る。一つが馬那邦山古戰場紀念碑であり、もう一つが草坪営区と称される当時の駐屯基地跡だ。100年以上経った基地は、草に埋もれた石積が残るだけだ。しかし、100年前に見えた雪山山脈は、今でも同くそこから壮麗な姿を見せている。

北側の上湖登山口から頂上を往復
標高差は400mのみ
もともと、今回の登山の日は、中央高山登山の予定であった。しかし、三月としては強力な寒波が訪れ、多い水分と合わさり雪をもたらした。そのため予定は延期、その代わりに苗栗縣を訪れることにした。訪れた初日とは打って変わって、朝から快晴である。宿泊地三義の民宿からオートバイで訪れた。一般交通機関では、少し大変だ。レンタルバイクは、その点軽快である。特に今回の登山道は、登山道の始まる直前まで舗装の産業道路が続くが、道が良くなく四駆でないと難しい。その点、バイクは問題なく登山口まで行けた。そのため、今回は登りはじめは遅かったが、歩行距離も少なく楽な登山ができた。残った時間で、別の苗栗縣観光スポットを廻った。

苗栗縣南部の山と観光地
三義からは、130号線を行く。苗栗縣の別の小百岳關刀山から続く尾根の峠を越えていく。気温が低く、バイクでは風が冷たい。峠は前方が開け、今日の目的地馬那邦山が谷を挟んですくっと立っている。その背後遠くに雲間から雪をかぶった雪山山脈が望める。今日は、本当に天気が良い。130号から3号線に入り少し北上、大湖から苗55号県道に入る。武榮小学校脇で東興產業道路を進み、山腹を登っていく。駐車場のある錦雲山莊のわきをさらに登っていく。路面は湿り、でこぼこしているが、ゆっくり行けば問題ない。道幅は車一台分しかないので、車ではすれ違いは大変だ。11時、登山口近くにバイクを泊める。ここの標高はすでに1000mである。

130号線峠からの眺め
竹林の中を登る
すぐに登山口の看板がある。その左から土の道が、細道邦山へ分岐する。右に少し進むと車道が終わり、土の登山道が始まる。桂林林の中を、石段道が登っていく。山上から多くの登山客が降りてくる。軽装のメンバーも多い。ここは、気楽に登れる山である。補助ロープのある急坂を過ぎる。11時28分、1㎞のキロポストのある分岐に来る。左へ行けば細道邦山へ尾根を下っていく。山頂は、右方向だ。石や木板の急な階段を上る。11時36分、古戦場紀念碑につく。碑の下の小広場にはベンチが設けてある。一休みする。

古戦場紀念碑






古戦場紀念碑のこの場所は、もともと馬那邦戰役で亡くなった兵士をねぎらう忠魂碑があったそうだ。しかし、もともとの石碑はなくなり、今は1984年に民間有志によって建てられた古戦場紀念碑がある。すぐわきのところからは、東方向に木々の間から遠く雪山山脈が見える。先ほど130号線の峠から見えていた雪山山脈はずっと近づき、雪をかぶった大霸尖山から雪山までの聖稜線が、雲の間からその姿を見せている。こんなにきれいな雪山稜線は初めてだ。左には、馬那邦山の大峭壁が望める。

雪をかぶった大覇尖山(右のとがった山)が望める
蒼い空に若葉がまぶしい
更に急階段を登っていく。10分ほどで道は緩やかになり、11時56分隘勇歩哨基地につく。樹木が茂り、それほど広さは感じないが開けた場所の周りには、緑に苔むした石積がのこり以前ここが基地であったことがうかがえる。東側が開けて雪山山脈が見える。この地点からは、谷間が望める。原住民の集落に対し、大砲をすえにらみを利かすには、絶好の場所だ。100年の歳月を経て、今は初春の光の中、平和な時間が流れているだけだ。上を見上げると、淡い緑の葉が青空にまぶしい。道脇に0.5㎞のキロポストが植えられている。

隘勇線基地跡、左に石積が見える
石門
山道は緩い幅広道になる。この辺りは楓が有名で、秋には色づいた葉で飾られるのだろう。実に気持ちのよい道だ。現れた階段道を登る。12時19分、石門に来る。その名の通り、大岩の間に細い切れ目があり、そこを通り過ぎる。この大岩の切れ目は、造山活動の際に自然できたものだそうだ。岩には石門の文字が刻まれている。緩い登り道を進み、12時30分、好漢坡と呼ばれる急坂階段道の下に来る。これを登りきれば頂上だ。数分で、右から木桟道道を合わせ、階段切れると土の稜線道を進む。12時38分、ヒマラヤスギとベンチがある場所を過ぎる。ここにも石碑がある。苗栗縣生まれの徐慶榮という登山家を記念する石碑である。彼は、土地の登山活動に貢献し、1982年にヒマラヤの標高6600mのWhite needle peakを登頂、翌年またヒマラヤに挑むものの28歳で帰らぬ人となったというこだ。筆者とほぼ同年代の登山家である。

頂上下の急坂階段(好漢坡)


ベンチのある広場を回り込んで少し登ると、そこは広々とした馬那邦山の頂上だ。一等三角点がある。南には大安溪の谷間広がり、尾根を伝った右岸には大克山が立っている。川を挟んだ対岸は、雪山山脈周辺の峰々と谷間が広がる。三角点脇には、真ん中が折れた石碑が置いてある。上と下の部分が欠損し、折れた部分も文字が読めないものがあるが、馬那邦戦役で戦死した兵士の霊を慰めるものだ。判読できる碑文は「三十五年...馬那邦社蕃人ヲ...戦死兵卒...霊ヲ慰メ其ノ...伝エンガタメ...教育後援会...建設ス 昭和六年八月十...日 南湖青年団」というものだ。温かい日差しの広々とした頂上、ツツジの花も満開で、暗い過去があったことすら感じさせない。雪山山脈は、途中見えていた高峰はすでに雲の中で、姿は見えない。

広い馬那邦山山頂(北側から南側を望む)
中の折れた石碑
20数分、ゆっくりと時間を過ごした後、往路を下り始める。良い道の下りは速い。15分で、古戦場紀念碑を通り過ぎる。13時44分、約35分でバイクを泊めた登山口近くにたどり着いた。帰りは、途中2000年に完工した鯉魚潭水庫ダムを回り、魚藤坪斷橋(統治時代に建設された当時最長のレンガ橋、1935年の大地震で壊れた)に立ちより帰った。

登山口から下る途中に見える大湖の谷を挟んで關刀山(中央の最高峰)とその近くの峰々
鯉魚潭と背後の馬那邦山
魚藤坪斷橋
今回の登山は、とても楽なものである。歩行距離は3.8㎞、休憩も含めて3時間足らずである。気持ちのよい青空のもと、とてもよい山行だった。秋のころ、紅葉をもとめてくるのもいいだろう。交通の便を解決できれば、困難度は山道、体力ともクラス2である。だれにでもおすすめのコースだ。

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