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2018-04-09

2018年4月7日-8日 百岳屏風山 一世紀前の太魯閣戦争を目撃した山岳

小奇萊山付近から望む夏の屏風山(2016年6月撮影)、左はしのピークが主峰、その右に中峰と南峰
台湾国内で戦われた日本時代政府と原住民との最大規模の争い、太魯閣戦争は一世紀前の1914年に起きた。政府側の呼び方は太魯閣蕃討伐戰であるが、日本側だけでも300数十名の死傷者を出した高い山と深い谷間で戦われた争いである。記録のない原住民も相当数が犠牲になっているはずだ。太魯閣族は、台湾北部の主要な原住民泰雅族(タイヤル族)の一派賽德克族が中央山脈を越えて東側に移住し、定着した一派である。中央山脈から流れ出し、世界でも有数な渓谷の太魯閣を流れるタッキリ渓(立霧溪,塔次基里溪.両者はそれぞれ原住民の言葉タッキリを日本語或いは中国語で表したものだが、今は前者は主流、後者はその支流の一部として使われている)と南の木瓜溪の流域に部落を作り、生活していた。
屏風山山頂のメンバー(MYさん撮影)
日本現地政府第五代総督佐久間左馬太は、険しい山地に住み帰順しないばかりか、いうことを聞かない手ごわい相手の太魯閣族に対し、5年の理蕃政策の最後の締めくくりとして、タッキリ渓中上流にある内太魯閣族に対し、最大の攻撃を仕掛ける。それが太魯閣戦争だ。戦いをするにしても山奥の地形がいかなるものか、なかなか詳細がわからなかったが、その前年3月に行われた野呂寧調査隊により明らかになる。その調査をもとに5月から8月にかけて闘いが行われた。現在の14号甲道路の前身合歡越嶺道のそのまた前身になる軍事道が霧社から造られ、石門山から東稜線を伝って屏風山の足元にある台地に戦争用の物資が送られ、倉庫が作られた。もともと日本戦国時代末期の東西分け目の戦いである関ケ原の戦いにちなんで、自ら現地に訪れ指揮した佐久間が関ケ原と名付けた場所である。

太魯閣の谷の奥にに位置する屏風山
二日間で歩いた軌跡、登山下山とも同じ道を往復
二日間の歩行高度
今回の宿泊地は、まさにその関ケ原と呼ばれた台地にある松針營地だ。アカマツが茂る緩やかな台地は、森林が切り開かれそこが戦いのための倉庫となっていたことなど微塵もなく、もとの自然に戻っている。名前のように松葉が敷き詰められた松林のキャンプ地は快適な場所だ。太魯閣戦争は、そこからさらにタッキリ渓を下っていったところに存在する集落に向けて戦われた。討伐軍は、タッキリ渓にそって屏風山の裾を川下に向け進展していく。松針營地はすぐ近くにタッキリ渓(塔次基里溪)支流が流れる。透き通った水は穏やかに流れ、過去にあった戦いなど想像するに難しい。

松林の中の松針營地
キャンプ地近くの沢
屏風山(主峰標高3250m)は、その名の通り合歡山側からみると屏風のように長々と切り立った山腹が横に広がる。主峰以外に中峰と南峰がある。南は以前登った奇萊山北峰に切り立った岩壁をへてつながる。その他三面は、すべて谷に囲まれている。そのため、ほとんどの登山は中橫公路の大禹嶺からいったん谷に下り、登り返している。奇萊山北峰から縦走することは可能だが、岩壁の道を進まなければならず、上級者向けだ。今回の登山は、初日一度谷に下り設営宿泊、翌日午前三時に出発し、屏風山から西に下る尾根上の新道を経て登頂し、同じく新道を下ってキャンプ地へ、撤収をしたあと約600mの高度差を大禹嶺登山口へ登り返した。途中長い休憩もあるが、活動時間約16時間の長丁場であった。


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第一日 4月7日(土)

大禹嶺登山口から松針キャンプ場へ下る
谷底へ下り関ケ原台地へ少し登り返す
雨具に身を固め、出発する
台湾のゴールデンウィークとでもいうべき4月4日から8日の5日連休の四日目4月7日に、台北から山岳シャトルサービスの車で出発する。連休中の前半は、高速道路は混雑を極めたようだが、今日は下り線は空いている。連休前半良かった天候が、寒冷前線の到来で崩れて雨が降っているが、すぐに回復するという天気予報が心強い。清境農場前で少し車が多くて待たされたが、その他は問題なく12時前に大禹嶺に到着する。雨と霧で、途中屏風山が全く見えなかったことが残念だが。


急坂を下る
以前泊まったことのある民宿の軒下で昼食をとる。ほかにも大勢の登山者がいる。中には雨で撤退してキャンプ地からちょうど戻ってきたパーティもいる。天気予報では、午後から回復基調だそうだが、そとはまだ小雨が降り続いている。寒暖計は8度を指している。12時40分、雨具に身を固め登山口を後にする。今回は一泊なので食料品が少ないがテントがある。ザックは13㎏だ。登山といっても、谷を下るので楽である。




塔次基里溪へ降り立ち、対岸に渡る
沢から登り返す、壊れた梯子は登り難い
かなり急な坂をドンドン下っていく。途中はロープも張られ、また登山口から山頂まで1から100までふられた札が、ある距離を置いてつけらている。太魯閣国家公園の監視員が道の状態や整備をしているようだ。最後に崖が崩れた場所を横切り塔次基里溪に降り立つ。沢を渡り、衣服を調整する。雨が降って気温が低いとはいえ、やはり汗が流れる。沢から道はいきなり濡れた岩壁を伝っていく。登りにかかる梯子が壊れて登りにくい。少し登ったあと、道はゆっくり下がり気味に山腹をぬって進む。屏風山を登頂し、帰途にあるパーティとすれ違う。中には一日で登山口から往復する猛者もいる。雨の中の登山で残念だったようだ。

山腹の岩場を通り過ぎる
桧木の巨木を見る
霧がかかっていて左側の谷底が見えないが、かなり深いようだ。ところどころロープがかかる岩場がある。慎重に進む。途中には、桧木の巨木が現れる。雨でほとんど休憩もなく歩いてくる。14時40分、大きく崩れた場所を過ぎる。今も山崩れは進んでいるようで、ロープも張られている。土質は雨でぬれていることもあるが、かなりしっかりしてザレとは違う。ナイフリッジになった場所を通り過ぎる。

がけ崩れ部分を通過する
谷底へ最後の下り道
道は急な坂道となり、谷間に降りる。手すりが少し壊れた鉄線橋を過ぎる。型鋼で作られた橋は、歩くと少し揺れる。この橋がなければ、対岸に渡るのは大変だ。歩いてきた大禹嶺からの道は、1970年代に屏風山のふもとに埋蔵してるとされる金鉱を開削するために開かれた道だ。日本時代に開かれた旧合歡越嶺道は、石門山から関ケ原に下っている。下流で砂金が発見されていたが、金採掘熱の大もとは、実は屏風山周辺の金脈である。当時の米国専門家金脈調査では約270億米ドルの埋蔵量と言われた。今は国家公園管理下、採掘は禁じられている。

鉄線橋を渡る
設営されたテント
鉄線橋を渡り、少し登り返すと鉄線橋營地がある。けっこう広い。水場はすぐ近くだ。ただ今はあまり多く使われていないようだ。さらに登り返すと、関ケ原の台地の端にでる。松林の中の緩い道を進んでいく。16時に松針營地に到着する。テントを取り出し設営する。筆者は四人用テントで、ほかの二名と三人で泊まる。我々以外にもう一つのパーティーが設営している。今日屏風山を登り、明日登山口に帰るようだ。このキャンプ地は多くの登山者が使用している。残された天幕も二か所ほどある。

早めの夕食をとる(MYさん撮影)
新道の入り口がキャンプ地のすぐわきにある。これを少しのぼり、下ったところに沢がある。塔次基里溪の支流である。水を汲んでキャンプ地に戻る。今回は、時間があるのでみんなで一緒に18時前に食事を作りとる。食事後各自のテントに戻り、翌朝早いこともあり19時過ぎには就寝する。まだ、テントに落ちる雨音が聞こえる。枝の雫が落ちてくるのか、それとも雨なのかははっきりしない。


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第二日 4月8日(日)


松針營地から屏風山を往復したあと、大禹嶺登山口へ登り返す
屏風山登頂後、登山口へ登る
午前三時、夜明け前にキャンプから出発する
二時に起床する。テントの外にでると、小梢の間から星が見える。天気は回復している。食事を済ませ、三時過ぎに軽装で出発する。まだあたりは暗い。ヘッドランプだけが頼りだ。沢を渡り、枝尾根の山裾を巻いて登っていく。道は、ぬかっているところもあるが、おおむねはっきりしている。ヘッドランプだけの光で十分に進める。尾根の裾を回り込んだ後、尾根にとりつき登り始める。坂はけっこう急だ。途中三回休憩をとり、5時45分そろそろ明るくなってきたころ休憩をとる。標高は2700m、松針キャンプ地が2050mぐらいなので半分以上登ってきた。

草原にでて展望が開ける、谷間は雲海で埋め尽くされている
更に少し進むと、6時ごろ松林が切れ草原に出る。朝陽が登り始め、対岸の合歡山連峰の頂を黄色に染め始める。谷間は雲海に埋め尽くされている。一度森に戻り、また草原にでる。高度が上がった分、遠くまで見える。合歡山北峰の鞍部遠くには、雪山山脈主峰から南に伸びる志佳陽山や南西に伸びる大小劍の峰々が見える。そのさらに西側には、白姑大山が少し見える。東側は鋸山連峰が対岸に連なる。振り返り右を見ると、屏風山の中峰が上方に見える。足元は霜が降りている。昨晩はかなり気温が下がったようだ。

屏風山中峰(中央)と南峰を見上げる
合歡山東峰、主峰、石門さんに朝陽が当たる、屏風山が影を落とす
ニイタカトドマツの林を登る
岩場を登る
また森に入り、視野は遮られる。更に登り標高3000mぐらいから林相が変わりニイタカトドマツになる。森の底はニイタカヤタケが生えている。7時少し過ぎ、岩場が現れる。補助ロープが掛かっており、登るのは問題ない。登り切ったところで遠くを見ると、高度がさらに上がったこともあり、小梢を通して鋸山連峰の右遠くには、尖った中央尖山と大きな山崩れを抱えた無明山がある。全員登り切ったところで、またさらに進む。窪んで大石がある場所を過ぎ、7時半にまた岩場を登る。矢竹の間を行き、7時48分、三等三角点のある屏風山主峰に着く。4時間40分の登りだ。

鋸山の右(東)側に無明山と中央尖山が遠望できる
山頂の筆者
標高は3250mで、日本第二の高峰北岳(3193m)よりも高いが、南洋台湾の高山は、まだ森林限界の下だ。周囲は樹林で展望はない。頂上は狭いが、メンバー全員で写真を写す。小休憩後、往路を引き返す。屏風山登山は、冒頭に記したように奇萊山北峰からの縦走路があるが、それ以外に旧道と称される合歡金礦營地を経て稜線に上がる道もある。もともとは、金鉱事務所があったこの場所をへて登るのが普通だったが、その後新道が開かれ、旧道は途中がけ崩れがあること、また距離が長ことであまり歩かれていないようだ。

ニイタカトドマツ林の急坂を下る
岩場を下る
8時15分、下り始める。登りが急だっただけに、下りは早い。8時42分岩場を通過、9時15分、草原にでる。朝は日陰ではっきりしなかった、対岸山腹の道路や登山口のある大禹嶺も見える。標高は今いる場所(標高約2900m)の少し下で、下った後また登り返すと思うと、うんざりする。9時24分、下方の草原を通り過ぎる。ここから先は、上りの時は暗がりの中で、周囲の様子がわからなかったところだ。9時40分、登りの際に足元に見つけた花弁は、実は森氏杜鵑(シャクナゲ)の花であることが分かった。本来5月が最盛期なので、ちょっと早咲きだ。

対岸に合歡山北峰とその山腹を走る道、大禹嶺が見える
早咲きのシャクナゲ(森氏杜鵑)
アカマツ落ち葉絨毯の道、右の幹には番号のある道標札
清水の沢を渡る
アカマツ林の中をドンドン下っていく。10時35分、下り二回目の休憩をとり、腰を下ろす。標高は約2300mで、残りも少ない。休憩後少し急坂を下ると、右に稜線の裾を回り込み始める。坂も緩やかになる。こちらは、陽が当たらないので薄暗く湿っている。11時15分、沢が見えた。下りは終わりだ。沢際で少し時間をつぶし、11時31分キャンプ地に戻る。下りは、3時間15分であった。朝まだあった、ほかのパーティのテントはすでにない。今日は山は我々だけだ。

撤収を済ませ、登山口へ出発
みんな昼食を取り、テントを撤収する。昨日の雨でテントは濡れているので、先に陽なたで干す。1時間半ほどゆっくりと休憩し、13時に登山口に向け歩き始める。ザックが重い。晴天下のアカマツ林は、とても美しい。森の中を約15分ほど歩き、大きく鉄線橋へ下る。橋は標高約1950mなので、2565mの大禹嶺登山口までは約600mの標高差だ。奇萊山北峰登山も滑雪山莊の登山口からまず黑水潭へ下るので、帰りは登り返しになるがそれでも400m足らずだ。こちらはさらに距離的も長い。焦っても早く着くわけではない。着実に一歩一歩進む。約30分で、がけ崩れの上の部分に登り返す。少し休憩をとる。

鉄線橋を渡り、登り始める
がけ崩れ部分を下る
晴れのもとで見るがけ崩れは、距離感が明らかなので余計に怖い。ナイフリッジは慎重に進む。ロープのある急坂を過ぎると、対岸に屏風山の全容が見える。朝に立った頂上は、今はとても高いところにある。ここから長い沢沿いの山腹トラバースが始まる。坂は緩やかだが、切り立ったところもあり注意が必要だ。途中1回休みをとり、15時40分塔次基里溪に戻る。最後を歩く二人が、遅れ気味なのでここで休憩して待つ。50分ほど待つと、二人がやってきた。

右に屏風山が高い
山腹トラバース中の危険個所を通過
最後の約200mの登り返しを始める。ひたすら登っていくだけだ。1つづ増えていく登山口までの札の数字が、唯一の慰めだ。17時20分過ぎ、大禹嶺の民宿が上方に見える。残念なことにこの辺りはごみがたくさん散らかっている。17時25分、とうとう登山口に戻った。シャトルサービスの運転士Jさんの出迎えを受ける。車はすぐわきに停めてある。朝三時に行動を開始してから、途中の休みも入れて約14時間半の行動時間だ。長い休憩を除けば約12時間となる。屏風山登頂と登山口への登り返しで約1850mほどの累計登坂であった。全員が戻り、18時過ぎに帰路に就く。

番号札92番で終点はすぐだ
登山口にもどってきた
往路では雨と霧でまったく見えなかった屏風山が、長い山容で奇萊山北峰へ連なっている。外はけっこう気温が下がってきている。武陵の峠を越えると、反対側の谷間は雲海で埋め尽くされている。遠くに守城大山が島のように雲海に浮かんでいる。時間がすでに遅いので、途中コンビニで簡単に食事をとり、まったく混雑にも遭遇せず22時40分には台北に戻った。



14号甲道路から望む夕暮れの雲海
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奇萊山北峰から望む朝の屏風山
今年初めての高山行は、第一日目は雨の中だったが、本当の登りの時には晴天になり、実によい山登りができた。メンバーの中には足の遅い人もいたが、体力的にはみんな問題なく、活動を終えることができた。この山は、周囲の山に比べると単独での登りであるが、二日或いは三日かけて登るので、ピークハンティングとしてはあまりコストパフォーマンスは良くない。しかし、ここは日本統治時代の歴史の現場でもある。その意味では、また別の意義がある。

今回の山岳シャトルサービスの運転手Jさんは、もともと山岳ガイドもやっている人で、20年前奇萊山北峰から屏風山への岩場道を切り開いたメンバーだそうだ。その他台湾の山岳に精通している。簡単な縦走ではないが、歩けるうちに屏風山-奇萊山の縦走ができたら、と思う。

海鼠山から望む屏風山(右のピーク、左は奇萊北峰 2017年3月撮影)
一世紀前の太魯閣戦争、それが終わり軍事用道が台湾東西を結ぶ合歡越警備道として整備された。昨年訪れた海鼠山は、警備の目的で軍隊の駐屯基地ができた。その後1933年石門山から関ケ原を経て塔次基里溪南岸の屏風山山麓を行く部分は、対岸畢祿山側に改められ、もともとの関ケ原の名前も対岸の場所に移された。今は美しい松林や透き通った水の沢が流れる、まさに山間の楽園である。いつまでもこの美しい自然が続くことを願う。

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