新高山は、現代では一般的に玉山とよばれる台湾の最高峰のことである。新高主山は玉山主峰、北山は北峰のことだ。この表題は奇をてらったものでもないし、ましてや政治的な主張でもない。今回の山旅は、日本時代新高山と呼ばれた玉山に、現存する当時の主要登山道を当時の登山者と同じように往復登頂したから、敢えてこの旧称を使用する。
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新高北山(玉山北峰)から望む新高主山(玉山主峰) |
1895年に台湾を接収した日本は、その後富士山よりも高いので明治天皇により当山は新高山と命名され、日本統治時代はこの呼称が一般的だった。原住民による登頂があったかもしれないが、記録に残る初登頂は1896年に陸軍中尉長野義虎による中央山脈横断探検登山による登頂とされる。清朝末期に開鑿された、(清)八通關道路を一部利用し八通関から、登頂したという。清八通關道路は、あまり利用されずに見捨てられた。その後、日本統治時代に原住民の反抗抑制から管理のための警備道として、1919年に
八通關越道路が開かれる。それまでは、打ち捨てられた清八通關道路や原住民の道、或いは陳有蘭溪などを経由していく、大規模な探検や調査の登山しか可能でなかったが、この警備道とその後1924年に八通關から荖濃溪上流に沿って新高山まで続く登山道が開かれ、一般人の登山が飛躍的に身近になった。
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小風口から望む新高北山(玉山北峰) |
1926年に、阿里山から鹿林山やタータカ(塔塔加)鞍部を通り、
新高前山(玉山前峰)と新高西山(玉山西峰)の稜線を行く西口登山道が開かれる。この道は、稜線を行くので非常に急峻な場所や、山小屋の食事提供などがもう一つの様だった。一方北口になる八通關経由のルートは、八通關警備道沿道に多く設置された駐在所が、登山者に食事や宿泊を提供し、距離は長くなるが八通關警備道はとても状態がよく歩きやすいので、多くの登山者がまた学校などの集団登山がこのルートを経て新高山を目指した。西口ルートは、現在多く利用される塔塔加鞍部から排雲山莊へと行く山道とは異なる。この道は戦後に新たに開かれたものだ。つまりは、日本時代と同じルートを玉山に登り、当時の体験をできるのは今回の八通關ルートだけである。筆者は、過去二回玉山主峰に登頂しているが、今回再度訪れたのは登頂もそうだが、当時の登山道を歩き先輩登山者と同じ体験をするためだ。当時の記録文を読んでみると、彼らの苦労や感動がこの再現体験によってとても身近に感じられる。
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一部を除いて同一ルートで往復 |
現代の玉山登山では、
塔塔加鞍部からルートは、多くの場合排雲山莊に一泊する二日の日程だ。一方八通關古道の今の入口である東埔からだと、三,四日が必要だ。山小屋もなく、住食は自分で用意する必要がある。数十年を経た古道や登山道は、台風や地震などの自然による作用で、がけ崩れなどが多く発生し、高巻きをしたりかなり足場の悪い箇所を通過しなければならない。つまりは、日本時代の主要登山ルートは、いまでは逆に困難なルートになっている。我々は、三泊四日で往復した。
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玉山主峰のメンバー |
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第一日 10月6日(水) 台北 - 東埔 - 八通關古道 對高駐在所遺址
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東埔から對高駐在所遺址へ歩く |
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水里の新高登山口石碑と筆者 |
出発数日前の天気予報では、もう一つ良くない天候ということだったが、出発日が近づくにつれて良くなってきた。メンバー都合三人はそのうちの一人が運転する車で、台北を5時に出発する。平日なので、途中通勤による混雑を避ける目的もある。第一高速道路から第三高速道路に入り、7時半前に名間インターチェンジを降りる。16号線を進み8時前に水里の街に来る。当時は水里坑と呼ばれ新高山北登山口であった。台北からだと縦貫鉄道で二水までやってきて、集集線に乗り換えてこの地まできた。16号線と日月潭に向かう21号線の交差点に近いところに残る、当時の新高登山口の石碑に立ち寄る。
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陳有蘭溪の谷からから玉山北峰とそれから手前に伸びる尾根 |
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八通關古道入口 |
日本時代は、当初は水里坑から途中內茅埔まで臺車と呼ばれた人力トロッコがあり、その後昭和十年代の記録を見ると、臺車は東埔まで伸びていたようで、今と同じに東埔から歩き始めていた。濁水溪の上流陳有蘭溪の広い河原からは、天気が良ければ玉山北峰が見える。当時のゆっくり進む徒歩や臺車からこれらの山を望んで、登頂に期待を膨らませたのではないか。我々は21号線を進み、同富から左へ東埔へと登っていく。ブヌン族原住民のトンボにあてた漢字が東埔だが、温泉があるので今やリゾートが道の脇に多くたてられている。9時に古道入口からそう遠くない場所に車を止める。
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古道から陳有蘭溪の河岸段丘に載る東埔の集落を見下ろす |
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愛玉の店、帰路に立ち寄る |
支度をしていよいよ出発だ。筆者のザックは総重量17㎏、ほかのメンバーもほぼ同じか少し重いようだ。
3年前に中央山脈南二段の山旅をした時と同じ出発点だ。天気は快晴、日差しは暑いぐらいだ。9時20分、集落の一端にある古道入口から歩き始める。登っていくと集落全体とその奥には深い陳有蘭溪の谷間とその左岸には玉山北峰から尾根が降りてきている。愛玉(ゼリーのような愛玉という果実からできるデザート)の店を通り過ぎ、いよいよ山に入っていく。
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父子斷崖を上から見る、陳有蘭溪が谷底に流れる |
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岩を削った道、鉄パイプ手すり |
斜面に造られた畑を過ぎると、いよいよ古道は陳有蘭溪右岸の高い山腹を横切り始める。日本時代は北仙峽と呼ばれた父子斷崖を過ぎると、垂直な岩壁を削り造られた道が続く。古道起点から 4.3K地点にある雲龍瀑布までは一般遊楽客も訪れる。断崖絶壁の道には太い鉄パイプの手すりがある。10時に2K地点の木陰で休みを取る。
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樂樂溫泉への道、封鎖されている |
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岩壁を行く道は続く、谷の奥に八通關山 |
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小滝の脇を行く |
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右下に雲龍瀑布下段の滝が見える |
10時半、右に樂樂溫泉へと下る道を分ける。今はこの道は封鎖されている。岩壁の中ほどを行く道はまだ続く。八通關越道路の開鑿で特に苦労したのがこのセクションだという。深い渓谷の奥に二つのピークを見る。八通關山の主峰と西峰だ。八通關はこの山のすぐ西麓にある。10時50分過ぎ前方遠くの山肌にかかる滝を見る。雲龍瀑布だ。途中で一つ小さい滝の脇を通り、11時3分雲龍瀑布に来る。雲龍瀑布は上下三段に分かれており、道はそのちょう最下段のすぐ上を橋で横切っていく。橋の脇で休憩をとる。
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橋から見る雲龍瀑布中段の滝 |
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吊橋を渡ったところで見る雲龍瀑布 |
歩き始めてすぐ、雲龍吊橋を渡る。ここから先は、玉山國家公園の入園許可がないと入れない。警告板が取り付けられている。この地点からは、雲龍瀑布の全容が望める。古道は、森の中を進みはじめ、今までの暑い日差しから逃れるのでほっとする。道の状態は、遊楽客が多く訪れる雲龍瀑布までと比べると、頼りなくなる。11時44分、5.5Kを過ぎてすぐ早速がけ崩れ場所にくる。左に高巻き道が登るが、ここは崩れた場所に踏み跡が続くので、横断する。11時53分、約5.9K地点の樂樂山屋(標高約1670m)に着く。もともと樂樂駐在所があった場所だ。今は10名収納の小さな山小屋がある。先ほどの樂樂溫泉と同じ名前だが、樂樂とは原住民ブヌン族の湯気が立つところという意味である、ラクラクに日本語読みの漢字をあてたものだ。八通關越道路の峠を越えた東側には拉庫拉庫溪があるが、これもあてた漢字が違うが同じラクラクである。
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小さな山崩を越す、この大きさのはたくさんある |
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樂樂山屋 |
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高巻き道の急坂を登る |
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鉄パイプ橋を渡る |
昼食をとり12時半過ぎにまた道を進む。すぐに高巻き道になる。ここは数十メートルの高度を急坂で登り超える。十数分で古道に降り、広葉樹樹下を山襞に沿ってくねくねと曲がる道が続く。12時55分、二段になっている乙女瀑布の下段上部を橋で横切る。いわゆる等高線沿いに進む道は、勾配が緩い。標高約1120mの東埔から2580mの觀高まで距離14.6Km、高度差約1460mなので、平均勾配は 10%である。道幅も広く歩きやすい。途中で小さな沢を橋で超える。9.5Kを過ぎた場所で水を補給する。その先ガレ場を過ぎ、また水量が豊富な沢が二つ続くところを横切る。14時40分過ぎ、標高は2000mを越え紅檜(ベニヒ)の大木が道脇に聳える。その先樹木がないセクションを通り過ぎ、14時51分に對高駐在所遺址(跡地,10.5K位置、標高約2080m)に着く。
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乙女瀑布 |
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山襞に沿って道は進む |
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右の谷は深い |
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勢いよく落ちる小滝 |
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紅檜も道端に現れる |
今日は朝も早く、三時間ほど車を運転してきたメンバーも大変なので、ここで設営宿泊する。駐在所遺址自身には今は水場はないが,先ほどの補給で十分だ。また明日の路上も水場があるので問題ない。広々とした跡地には、焚火のあとも残っている。携帯電話も通じる。食事を済ませ、19時までには就寝する。梢の上は、星が瞬く。本日の歩きは約10.5㎞、登坂989m、下降54m、コース定数は23だ。
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對高駐在所跡地 |
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第二日 10月 7日 對高駐在所遺址 - 觀高坪 - 舊道 - 八通關駐在所遺址 - 新高駐在所遺址 - 荖濃溪營地
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對高駐在所遺址から歩き、旧道をへて八通關-荖濃溪營地 |
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ヘッドランプをつけて進む |
今日は長丁場なので、3時半に起床、まだ暗いうちの5時に出発する。道の状態は悪くないので、ヘッドランプ頼りでも問題ない。崩れたところもあるが、心配はない。11.5Kを過ぎてしばらく、5時40分ごろ少し明るくなってきたころ、体も熱くなりジャケットを脱ぐ。再び歩き始めてすぐ、下巻き道になり、下ってまた登り返す。6時少し前12Kを過ぎて間もなく、樹木のない曲がり角から、前方にまだ陽が当たらない八通關山がだいぶ近くなっている。小さな崩れで道にザレが盛り上がる場所を多く超えていく。6時12分小休憩をとる。
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八通關山がだいぶ近くなってきた |
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ザレで道が盛り上がっている |
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タイワンアカマツの良い道 |
6時半過ぎ13Kを過ぎると、道の状態は良くなる。道幅もあり、崩れた場所もない。本来の八通關越道路は、こうだったのだろうと思わせる。さらにしばらく行くと、対岸に陽光が当たりだした高い山が梢を通して見える。その左は大崩落の山肌だ。右の山は玉山北峰である。気持ちの良い道が続き、7時20分觀高坪に着く。脇の少し高くなったところから、左に八通關山、右には谷を挟んで玉山北峰が高い。反対側は郡大溪を挟んで中央山脈の最高峰秀姑巒山がデンと構えている。
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梢越しに対岸の玉山北峰が高い |
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14K地点を行く、觀高はもうすぐだ |
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觀高坪から右に玉山北峰を望む |
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朝陽の森を行く |
ちょっと長めの休憩後7時37分、朝陽が差し込む森の道を進む。数分で高巻き道分岐に来る。古道は右に山腹を進む。この部分は大きく崩れてしまっているので、高巻き道が造られた。一般的にはこちらを経由することが多いようだ。危険なので立ち入らないように、という敬告板があるし、鎖がかかっている。前回は高巻き道を通った。今回は旧道で八通關へ向かう。崩れているとは言っても、そこそこの人数が歩いているので、道筋ははっきりしている。
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高巻き新道(左)と旧道の分岐 |
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金門峒大斷崖、その上に玉山東/主/北峰の山頂 |
右に陳有蘭溪の源頭にあたる金門峒大斷崖の大崩れが凄惨な姿をさらす。約20分ほど良い道が続く。8時2分、眼前に大きくパックリ谷が切れ込んでいる。急な坂を下り、少ない水が流れる沢を越える。大雨でこの沢の水が大増水し、もともとの道がすべて押し流されたのだ。そこから今度は急坂を登り返して古道に戻る。しばらく狭い崖淵の道が続く。数分で鉄パイプの橋を渡る。山襞に沿って行くので、見える角度が換わり振り向くと先ほどの觀高坪方向の上に
郡大山がその姿を現す。
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旧道の初めは良い道 |
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陳有蘭溪の谷を挟んで左に玉山北峰、右に郡大山 |
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ひっくり返った橋 |
途中小さく崩れたところが二、三か所あるものの、何事もないような良い道を進む。道も半ばに来たので、陳有蘭溪の谷をを挟んで左に大崩壊を下に玉山北峰がその頭を見せ、右の郡大山と対峙する。8時41分、木製桟道を渡るとすぐ下方にひっくり返った鉄パイプ橋が転がっている。橋の土台が壊されひっくり返ったと思われる。露わになった岩壁脇に細い道が下る。ロープが取り付けられているのが幸いだ。下って登り返す。さらに数分行くと、三度目の大崩壊が現れる。岩壁脇の細い踏み跡を登る。道に戻るとミカドキジ(帝雞)が足音に気づいて去っていく。その先、崩壊際の急坂を登り、9時17分に觀高からの高巻き新道と合流し、旧道の歩きが終わる。觀高から1時間半ほどの時間を要した。それでも高巻き道よりはずっと速い。
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最後の大崩壊をトラバース |
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ミカドキジ |
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分岐部 |
左に大水窟へと続く道が分岐する。直進し八通關大草原へ降りていく。東埔から18Km(高巻き道経由の数値)の表示を見る。前方の二子山の東麓に八通關駐在所跡地が見える。近づいていくと、天幕が張ってあり登山者が一人いる。跡地の広場で休憩する。登山者の話によると彼はここで一週間近く過ごし、付近を巡ったそうだ。その間出会った人間はほかに一パーティだけだったという。しきりに一緒に酒でもと遺留を勧めるが、我々もここにとどまるわけにはいかない。休憩後10時4分に、荖濃溪營地へ向かい八通關を後にする。
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八通關草原の入口 |
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八通關駐在所跡地、単独登山者が設営 |
八通關という名前は、清八通關道を開いた吳光亮總兵率が、中央の山を経て八方に通じるようにと命名したという説もあるが、阿里山などが中心の原住民鄒(ツォウ)族の玉山を示すバットンクワから来ている、というのが正しいようだ。ここは風が吹き抜けるので樹木が育ちにくく、草原になっているのだろう。標高2800mになる草原は、広々として別世界だ。
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駐在所の門柱 |
八通關駐在所は、八通關越道路の中でも重要な位置の駐在所であり、周囲には壕と鉄条網をめぐらし、機関銃も備えられていたという。建物も数棟からなり駐在員も多い。登山者向け専用のヒノキ造り宿舎や風呂もあり、食事には山海の珍味まで出たと、記録文にはある。普段は原住民との接触しかない駐在員は、遠くから訪れる登山者を快く受け入れていたようだ。費用は実費ということである。
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主峰6.5Kポストのある草原を行く |
道は、しばらく草原を進む。玉山主峰まで6.5Kの表示を見る。そのうち二子山の山すそから荖濃溪を左下に見下ろす山腹道となっていく。樹木があまりなく、標高はすでに高いが暑いぐらいだ。山腹道を行くと、水鹿の白い骨が転がっている。死んでだいぶ時間がたっているようだ。今回の活動中、何度かキョンという水鹿の鳴き声を聞いた。ただ、この周辺の水鹿は警戒心が強いのか、大水窟などで近づいてくる群れとは違い、姿を見ると逃げていく。
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水鹿の骨 |
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山腹道を行く、右の荖濃溪の奥に南に段の達芬尖山 |
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アカマツ林に入る |
荖濃溪の下流方向を見ると、南二段縦走の稜線が連なり、達芬尖山が丸みを持った山頂を主張してる。10時37分、振り返ると二子山の高さと同じぐらいになり、タイワンアカマツ(二葉松)の森に入っていく。まもなく玉山主峰5K表示を過ぎる。森を抜けると、谷の最奥に頭を白い雲が隠す玉山主峰の北壁と、そのすぐ左に尖った形状の東峰を見る。1938年に訪れた早稲田大学山岳部遠征隊はこう記している。「 ...澄んだ紺碧の空に、紛ふ方なき主山が姿を現はした。...預想してゐたより遥かに美しく立派であった。...」[
山岳第34年第一号]二十名近いこの遠征隊は、数日滞在し玉山北壁や東峰との岩壁登攀、大水窟-秀姑巒山縦走、南玉山縦走などをそれぞれに分かれて行っている。
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谷間の上に雲をかぶった玉山主峰が見える |
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山崩れの斜面を道が横切る |
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トラバース中に下方を見る |
11時7分、主峰4.5Kポストを見て5分ほど行き、右に山襞を回り込むと大崩れの谷間が広がる。道は細々と谷底まで切れ落ちる斜面の中間あたりを登っていく。金網と鉄棒で道を形成しているが、台風の大雨があるとまた崩れてしまうかもしれない。台湾の高山は水成岩が主体で、粘板岩などはもろく風化しやすく、がけ崩れが発生しやすい。谷は次第に狭まり深く、左岸の岩壁を行く部分は岩を削って道を作っている。
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岩を削った道を行く |
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破損した橋と巻き道 |
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二つ目の大崩 |
11時21分、壊れた橋が現れる。まだ新しく見える鉄製の橋は、大岩が当たったのだろう、ものの見事に傾いて通行できない。そのため、岩壁際に頼りない道で巻いていく。そのすぐ先、また大崩れが現れる。登ってすぐ、ザレがずるずると流れていく3,4メートルのところで、少し苦労する。左は切れ落ちているので、滑落するとただでは済まない。
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半壊の橋を渡る |
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この辺りは獣臭が強い |
迫る岩壁がすこし開けたところで、また橋がある。こちらは倒壊はしておらず渡れるが、支えの鉄柱が折れているので、一人づつゆっくりと渡る。橋を渡り,振り返ると八通關山西峰がだいぶ低く見える。標高はすでに3000mを越えている。獣臭の強い低灌木と草のセクションを過ぎ、12時21分石積土留壁を見る。新高駐在所の跡地だ。石積の上に上がり、今は草木が茂る平らな場所で、休憩と食事をとる。黄色いアキノキリンソウ(台灣黃菀)が一面に咲いている。
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新高駐在所跡地 |
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アキノキリンソウの向こうに東峰 |
新高駐在所は、1931年8月鹿野忠雄がしばらく滞在し、ここから新高南山や南玉山への初登頂、新高東山への登攀を行った。少し長いが、[
山と雲と蕃人と]から引用する。「八通関から二十数町にして、間もなく新高駐在所が見えてきた。溪の左岸、新高北山から落ちた山裾にそれはあった。八通關に比べては、これはまた実にささやかな駐在所、... 粗野な小さな建物は、かえって山小屋の感じとして嬉しいものであった。... まわりは男性的なタイワンツガが枝差し交す森林で、十数間の足元に荖濃溪が声高く鳴っている。そして新高主山と東山の最後の岩壁を居ながらにして仰ぎ見ることができるのであった。」
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タイワンツガの森を進む |
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高巻き道の開始点 |
食事を終え、13時に出発する。すぐに主峰4Kポストを見る。鹿野の文章のように、道脇の樹木は逞しいタイワンツガ(鐵杉)である。しばらくすると高巻き道が始まる。標高差は100mほどありちょっと大変だ。特に高巻きを降りてさらにまた上りが始まると思うとうんざりだ。大崩れの脇の急斜面を下り、13時45分本来の登山道に降りる。勾配が強くなってくる。13時54分、主峰3Kを過ぎる。左下の沢音が聞こえなくなり、14時大岩が転がる涸沢に降りる。橋を渡り休憩をとる。
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高巻きから下る |
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大岩のころがる涸れ沢を進む |
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コンクリで石を固めた道 |
道はしばらく岩の重なる涸沢を行き、右岸の急坂を登っていく。上方は霧がかかり最上部は見えない。そのうち森はニイタカトドマツ(冷杉)が多く混じってくる。黒っぽく逞しいがうねうねと枝を伸ばすタイワンツガに比べると、白くスキッと伸びる幹のトドマツは清楚な感じだ。14時35分、鉄分を含んで赤い岩が多い場所を過ぎる。ここはコンクリを使って道を固めている。いつの時代に造作されたのか。14時45分、橋が現れ左岸にわたり返す。橋のたもとに小さな水流れがある。急坂をさらに登り、また橋で右岸に渡る。その先の急坂を登りつめ、15時荖濃溪營地に着く。
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苔が覆うトドマツの森を登る |
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この橋を渡るとテント場はすぐだ |
最後の登り途中少し小雨がぱらついたが、すでに止んでいる。早速設営をする。水場は、手元にある説明では、少し上がったところだという。テント場のすぐわきは涸れ沢である。本当かと思いながら少しいくと、果たして伏流が一部きれ水が流れている。水を汲み、テント場へ戻る。ゆっくり食事の準備をする。標高はすでに3340mほどなので、寒く感じる。テント場説明にある海抜3170mは間違いだろう。食事をして19時ごろには就寝する。
歩行距離は約10.7㎞、休憩込みで10時間、登坂1326m、下降54m、コース定数35である。
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荖濃溪營地 |
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第三日 10月 8日 荖濃溪營地 - 玉山北峰- 玉山主峰 - 荖濃溪營地 - 新高駐在所遺址 - 八通關駐在所遺址
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玉山北峰/主峰を登頂し八通關へ下る |
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まだ暗い中急坂を登る |
朝4時半起床、5時半に軽装で出発する。まだ夜が明けきっていないので、しばらくはヘッドランプを点灯し進む。昨日の水場を過ぎ、しばらく岩の転がる道を進む。そのうちにジグザグの道が始まる。5時58分、だいぶ白んできた森の中で主峰1.5Kを過ぎる。坂は途切れることなく登っていく。大部分はつづら折りで高度を上げる。6時1分、長命水〔標高3490m)と呼ばれる涸れることのない水場を過ぎる。日本時代から、ここが最後の水場である。
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長命水水場 |
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主峰北壁に朝陽が当たる |
森の中には、盆栽のように曲がりくねるビャクシン(圓柏)の大木が混じり始める。その上には、主峰の北壁が覆いかぶさっている。その北壁は朝陽で黄色く反射し始める。6時22分、標高3600mを越えるあたりになると、森はほとんどビャクシンだ。ビャクシンは成長がとても遅い。周囲の木々はすべて軽く樹齢100年を超えている。これらビャクシンは、その昔多くの日本人登山者を見守ってきたに違いない。
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多くの日本人登山者を見守っただろうビャクシン |
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最後の電光型道を登る |
6時40分、ついに森林限界だ。この先は低いニイタカシャクナゲ(玉山杜鵑)と背が伸びないビャクシンの世界だ。覆いかぶさるように迫る主峰北壁を仰ぎ見ながら、最後の電光型道を登り詰める。視界が開け、荖濃溪のV字谷の向こうには、秀姑巒山とマボラス(馬博拉斯)山が並んでいる。その左奥には、東大巒山の連峰が連なる。6時57分、風口と呼ばれる主峰から北峰へと続く尾根上の分岐点に着く。標高は3720m。
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風口からのパノラマ、左に北峰、右に東峰、遠くに秀姑巒山など |
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主峰を背後に北峰へ向かう |
先に右へ道をとり、 1.9Km先の北峰へ向かう。玉山連峰は、主峰を中心に東西南北へ尾根を伸ばす。それぞれの尾根にピークがあり、北へ伸びる尾根上の最高峰が北峰だ。風口は鞍部ではないので、下りが始まる。尾根の越えていく風は強い。空は雲が少し厚く、日差しが弱い。10月に入った高山だ、さすがに手がかじかむのを感じる。厚い手袋を重ねてはめる。
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稜線から西側を望む、すぐ近くに玉山西峰、その向こうは阿里山山脈 |
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ニイタカトドマツの松ぼっくり |
尾根を行くと左(西)側も望める。こちらは深い沙里仙溪の谷を挟んで、阿里山山脈が長く伸びている。主峰から西下方に伸びた尾根上で盛り上がるピークは西峰だ。左側斜面は切り立って谷に落ち込んでいる。北峰を訪れる登山者は多く、道はとても良い。ステンレスの鎖なども取り付けられ、整備もしっかり施されている。尾根の影になる場所は、ニイタカトドマツが生えている。ちょうど紫色の松ぼっくりをつけている。7時38分、北峰まで0.9K地点で小休憩をとる。
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稜線の西側はざっくり切れている |
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北峰へ登る |
道は下り、最低鞍部を通過。北峰への最後の標高差約250mの登りを行く。この斜面は、白枯れて目立つビャクシンの古木や低いシャクナゲだけだ。7時56分、北峰まで0.4Kを過ぎ、8時13分、北峰山頂の南面にある気象観測所のテラスに着く。北峰の気象台は、日本統治時代末期に設置されたもので、それが現在に至るまで続いている。観測員は常駐し、東へ降りる小尾根上にはヘリポートも設けられている。途中帰路上の登山者にも出会ったが、ここでも三名の登山者に出会う。
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北峰気象観測所テラスにて |
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計測機材と主峰 |
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北峰山頂 |
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山頂の筆者 |
気象観測所の裏の山頂へ登る。標高3858mの山頂からは、広い展望が開ける。雲間からは陽光も差し込みはじめ、嬉しい。北側には遠く雪山山脈も認められる。北西にはおととい往路で通り過ぎた陳有蘭溪の谷間が広がり、河岸段丘も判別できる。沙里仙溪の谷を挟んだ東埔山などの山から下る尾根上の山腹には台21線の道路が細い糸のようにへばりついている。その向こうには、荒々しい岩壁を露出した大塔山や
松山などの阿里山山脈だ。振り返れば、気象観測所の右(西)に西峰から前峰へと延びる尾根がある。東側は左からマボラス山、秀姑巒山、そして大水庫山が並んでいる。その手前の低い草原の山は八通關山だ。そこから左に降りたところが昨日通り過ぎた觀高坪だ。この尾根を追っていくと郡大山、そしてその先に清水山、金子山そして
西巒大山が続く。南東方向には
新康山も確認できる。
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東側のパノラマ、左遠くに雪山山脈、右遠くには新康山 |
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陳有蘭溪の谷間を俯瞰 |
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西側のパノラマ |
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西峰から前峰、そして鹿林山へと続く稜線 |
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主峰へ向かう |
気象観測所へ降り、9時4分北峰を後に主峰を目指す。かれこれ一時間近くいたわけだが、あっという間の感覚だ。台湾の紙幣にも印刷されている玉山の雄姿を前面に見ながら下っていく。10時4分、風口に戻りザレの急坂を登る。この標高では空気は地上の3分の2、軽装とはいえやはり苦しい。斜面は登るほど急になる。約20分ほどで小風口(標高3860m)といわれる排雲山莊からの道との分岐を過ぎる。日本時代には、東埔からずっと日本の主要な山頂と同じ標高点に表示があったそうだ。最後の富士山と同じ標高点〔3776m)を示す表示は、小風口までの間にあったに違いない。ここから山頂へは今まで歩いたことがある道だ。残りは標高差数十メートル、ほかの登山者も登っている。10時48分、三度目の主峰山頂に登りつく。日本時代の登山者は、おそらく万歳を唱えたことだろう。
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小風口まで急坂が続く |
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小風口から山頂を見上げる |
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主峰山頂の筆者 |
奇しくもちょうど
9年前の10月8日に初めて玉山主峰に登った。その時は塔塔加から日帰登頂であった。山頂で見る景色は同じだが、この9年間に自ら登り判別できる山が随分と増えた。年齢も増えたが、それはそうした活動の見返りだ。登頂したことのあるいわゆる
百岳は、80座を数える。残りの20座もできれば登りたいが、それは自分の体力との折り合いである。自分の登山人生は、今後加齢の要素も考える必要がある。三度目の登頂も素晴らしい景色を満喫できたことに感謝し、11時12分山頂を後にする。
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左の尾根中腹に八通關への道が見える |
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山頂から下る |
注意深く小風口に降りる。そのまま風口へ下り、11時38分引き続き荖濃溪營地へ向けて下っていく。下りは速い。時々振り返って主峰の北壁を見上げる。次回来ることがあるだろうか。11時51分、森林に入る。登りと違い、森は明るい。12時過ぎ小休憩をとりジャケットを脱ぐ、その後長命水を通過、12時半にテント場に帰り着く。ゆっくりと休憩と食事をし、テントを撤収し13時半にまた重装で下りはじめる。
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主峰北壁を背後に下る |
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荖濃溪營地へ帰り着く |
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ニイタカトドマツ森の急坂を下る |
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高巻き最高点を過ぎる |
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玉山主峰や東峰はすでに遠く高い |
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八通關山が見える、もう遠くない |
14時過ぎ主峰3K地点で休憩を取り、高巻きにとりつく。下り途中の登り返しは厄介だが、仕方がない。登りの時にに比べて落差が小さいのが唯一の慰めだ。14時50分、新高駐在所遺址に戻り、小休憩する。残りは約3㎞ほどの緩い下りだ。既に900mほど下ってきた。谷を挟んだ玉山主峰や東峰はすでに遠く高い。まだ大崩れの部分があるのでそこは注意して進む。15時半過ぎ、主峰4K、八通關2.7Kキロポストを過ぎると、もう道の状態は問題ない。16時過ぎ、八通關へ戻りつく。昨日の単独登山者はすでに発って誰もいない。改めてここは風が強いのを感じる。
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最後の草原セクションを歩く |
設営を済ませ、水場へ向かう。道筋を示すマーカーリボンなどが見当たらないので、見当をつけて下っていく。南へ草原を下っていくと、果たして細い流れの水場に出る。水を汲んでテント場に戻る。数十年前には警察官が常駐し、風呂まであったのだから水場があったのは当然だが、その後の地震などで変わることはある。当時は、山海の珍味もあったそうだが、我々は風が吹きつけるテントと自前の食事で過ごす。1929年の[
山岳第23年第三号]にある大平晃の記録では、「山羊(羚羊の一種即ちタイワンカモシカ)の剥燒、鶏肉のフライ、鳥賊の酷味嗜和へ、薬浸し、甘藍漬、豆腐汁といふ、所謂山海の珍味をこの天界に於て饗されるとは、賞に意外であつた。」と記している。自分たちの素朴な(?)な食事と比べてなんという差異か!
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八通關駐在所跡地で設営 |
空には星が瞬き天候は心配ないが、時々強い風がテントを歪ませるなか就寝する。距離11.3㎞、休憩込み活動時間10時間半、登坂840m、下降1398m、コース定数32だ。
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第四日 10月 9日 八通關駐在所遺址 - 高巻道 - 觀高坪 - 東埔 - 台北
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八通關から高巻き新道を経て觀高-東埔へ下る |
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高巻き新道を登り始める |
いよいよ下山だ。4時に起床、テントの外で空を見上げると満天の星だ。5時半に出発する。まだ薄暗いが、草原であることも手伝って、間もなく明るくなる。10分ほどで旧道と高巻き道分岐に来る。往路では旧道を通ったが、帰路は新道となる高巻き道を行く。確かに200mほどの上りがあるが、時間的な余裕もあるし、登るにつれ八通關草原全体が見渡せるからだ。三年前に訪れたときはすべて霧の中だったので、なおさらだ。
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まだ陽が当たらない八通關草原 |
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タイワンツガの森を登る |
はじめは緩い坂を進む。登るにつれ、遠くまで見えるようになる。一方一晩過ごしたテント場は小さくなっていく。5時58分、階段があらわると坂が急になり森に入る。6時ジャケットを脱いで小休憩する。子連れ雌ミカドキジが現れるが、すぐに草むらに入ってしまった。引き続きタイワンツガの森を登ると、また草原に出る。道はジグザグに高度を上げていく。折り返しの度に望む景色は、だんだんと広く高くなっていく。下方になった八通關の上には、昨日訪れた玉山主峰と北峰が高い。草原を行く登山道もはっきりわかる。6時35分、草原は終わり森に入る。さらば八通關!
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昨晩過ごした駐在所跡地 |
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さらば八通關!
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山腹をトラバース |
森の中をさらに10分ほど登ると、道は山腹に沿ってトラバースを始める。トラバースといっても、小さな上り下りや鎖場があったりで、進むのは必ずしも楽ではない。7時5分、右に八通關山西峰への道の分岐に来る。小休憩をとる。道は下り始める。7時32分、道しるべを見る。ここから右に八通關山への道が分かれる。一方、下り道はここから尾根に沿って急坂で下り始める。
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ここから尾根上の急坂を下る |
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ニイタカヤタケの間を下る |
今日は雙十国慶節三連休の第一日、下っていくと入山してくる登山パーティとすれ違う。我々と同じに玉山を目指すパーティもいる。水場などの情報を回答する。下っていくと、ところどころで遠望ができる。郡大山はだんだん前の山に隠れて見えなくなる。少し開けた場所から、郡大溪の谷間が望める。この谷にはブヌン族の部落があり、それをつないだ中ノ道警備道が觀高から分かれて沢沿いに下っていった。今は廃棄されて久しく、八通關古道のように普通に歩くことはできない。8時14分、旧道との分岐を通過、間もなく觀高坪に着き休憩する。大きなザックが二つデポしてある。おそらく觀高テント場へ下っていったのだろう。
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郡大溪を遠望 |
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郡大山は前の山でだんだん見えなくなる |
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館高坪に戻る |
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道がよくペースが上がる |
8時半、14.6㎞の古道下りを始める。初めの2㎞ほどはとても状態が良く、また下りなのでペースが上がる。往路では緩やかな登りなので、あまり気づかないが、実際に下ってみると確かに勾配がある。9時4分、12.5Kを過ぎると崩れた場所がしばしば出てくる。左に見える玉山北峰はとても高い。さらに10分ほどで12Kを過ぎ、下巻き道を行く。9時50分、初日に宿泊した對高駐在所遺址に到着し、休憩する。
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道脇のベニヒ大木 |
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對高を過ぎて本日行程の半分を歩いた |
20分ほどの休みのあと、また下り始める。残り10㎞だ。標高も2000mを切り、古道脇の林相も広葉樹林に換わっていく。11時5分、7Kポストを見て間もなく乙女瀑布が現れる。休憩をとる。滝脇に降りてみる。休憩後、6.5Kを過ぎてまもなく高巻き道を登る。登りはつらいが、一歩一歩登り最上部を過ぎて、急坂を下りきると樂樂山屋が現れる。休まずそのまま進む。高度が下がるにつれ、温度も上がってくる。林相もさらに変化していく。台湾の高山には、亜熱帯から、温帯、そして寒帯が水平分布しているというが、昨日からの道を追っていけば、まさにそれが実感できる。
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脇で見る乙女瀑布 |
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多くの遊楽客が遊ぶ雲龍瀑布 |
12時34分、4.5Kを通過、間もなく雲龍吊橋のたもとに着く。多くの遊楽客が休んでいる。今まで数組の入山するパーティとすれ違ったが、ここから先は、数が全く違う。20分ほどの休憩で、最後の4.3Kを歩き始める。雲龍瀑布の前には多くの親子連れや家族が水遊びをしている。13時38分、父子斷崖を通過、13時45分愛玉の店に立ち寄る。ここで冷たい愛玉をいただく。人里に戻ったことを実感する。20数分の休みのち、最後の数百メートルを下り、14時18分八通關古道入口に着く。車を駐車したところへ帰り着き、着替えをする。今日の距離は16.8㎞、所要時間約9時間、登坂330m、下降2010mである。コース定数は、26となる。帰途上東埔溫泉街に立ちよる。台21線から16線に入り水里で食事をとる。名間から高速道路に入り、渋滞もなく20時過ぎに台北に帰り着いた。
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古道入口 |
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コダマギク(玉山籟蕭)@新高駐在所遺址付近 |
筆者は同じ山を何回も登るのはあまり好まない。今回は、三回目の登頂になるが玉山主峰を訪れた。北峰は初登だ。それは、単に山頂を目指すのではなく、日本時代の新高山登山を自分でトレースし、先輩登山者の体験を再現することが目的だったからだ。当時の登山者にどのような苦労があり、また感動があったのか、過去の記録を見てももう一つ薄皮で遮られる感覚があった。今回はそれが消失し、この場所ではこのような体験だったのだろうと、うなずけることが多かった。それは、本来の目的が達成できたことを示しているのだろう。
四日間の山旅累計としては、距離 49.3㎞、登坂3485m、下降3516m、コース定数114である。
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