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2018-12-18

2018年12月8日~16日 中央山脈南二段縱走 雲上の3000m山旅9日間

雲上の縦走路、雲峰から雲を戴いた秀姑巒山(最奥)、大水窟山、達芬尖山、轆轆山の峰々を望む
台湾島の背骨とでもいうべき中央山脈は、北は宜蘭の蘭陽平野南端から立ち上がり、340km南の鵝鑾鼻で終わる。数々の3000m峰を抱える。ほかの主要な高山山脈である雪山山脈や玉山山脈に比べると、はるかに長い。主に登山されるのは、3000m峰が連なる北は南湖大山の峰々から、南は卑南主山までで、更に一度高度を下げた後盛り上がる北大武山が単独に多く登られている。この長い山脈は、登山の便宜上六つのセクションに分けられ、北から北一段、北二段、北三段となり今度は南に向けて南三段、南二段そして南一段となっていく。
達芬尖山山頂のメンバー、背後は玉山連峰
今回の登山対象は、具体的には中央山脈の最高峰秀姑巒山(標高3805ⅿ)から南の向陽山(3602m)までの峰々である。いわゆる南二段のセクションで、百岳にカウントされる峰は、上記以外に北から大水窟山(3642m),達芬尖山(3208m),搭芬山(3090m),轆轆山(3279m),雲峰(3546m),南雙頭山(3356m),三叉山(3496m)がある。西には台湾最高峰の玉山主峰を頂く玉山山脈が平行して走り、東には三叉山の近くから分岐する新康山の稜線が東に伸びる。台湾海峡へそそぐ荖濃(ラオノン)溪が主稜線の西側に、また太平洋にそそぐ拉庫拉庫(ラクラク)溪が東側に深い谷を形作っている。

虹の縦走路
縦走ルートは、南投縣の温泉地東埔と台東縣海端鄉の向陽森林遊樂區との間の80数キロメートルである。一般的には、標高の高い向陽森林遊樂區から北に向けて歩く登山者のほうが多い。我々はあえてその逆方向を歩いた。これだと出発地点の標高が低いので、約1400mほど多く登りがあり、全区間で累計8200mほど登坂している。出発日と下山日は、実際の歩行は半日以下だが、台北から出発し帰ってくるまで都合9日間を費やした。今年7月に順方向で縦走を試みたが、台風のため二日で引き返した。今回は問題なく終了した。

北の東埔から南の向陽遊樂區へ縦走
九日間の歩行高度表
台湾南部の中央山脈南二段
日本人にとって南二段の区間で関係が深いのは、大水窟で峠を越える八通關古道や、鹿野忠雄がまだ帰順していなかったブヌン族のラホアレを恐れながら、原住民案内人なしで単独登攀した達芬尖山などだ。当時は単に尖山と呼ばれていた。80数年前に日本人登山者は、この山々を眺めそして歩いた。戦後は、どれだけの日本人が訪れているかはわからないが、山中では当時に思いをはせた。

拉庫拉庫溪の谷を雲海が埋める、右奥の山は新康山
日本だとこの時期の3000m高山は雪が降り、すでに冬装備が必要だ。台湾南部の高山は、もともとあまり降雪がないが、12月はまだまだ最低でも一桁の温度で、凍結することも少ない。万一を考えて簡易アイゼンを持って行ったが、まったく必要なかった。また南部の冬は、北部の季節風による悪天が多いのとは異なり、天気が良いことが多い。我々の縦走期間中、台北は天気が悪かったようが一日も雨にあうことはなく、稜線から見える東海岸側は、おそらく雨を降らしている雲海に埋め尽くされ、まさに雲上の山旅であった。

気持ちのよいアカマツ林と間に現れる草原

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第一日 12月8日(土) 台北 - 台中 - 水里 - 東埔 - 樂樂山屋

東埔から八通關古道を樂樂山屋へ
歩行高度表
台中の干城路で總達客運のバスに乗車
今回の山旅は四人のパーティだ。そこでアクセスは、一般の交通機関で行く。台北から台中へ、台中から水里へ、そしてさらに東埔へ路線バスを利用した。土曜日で台湾国鉄の自強号急行列車は満席なので、少し時間がかかるが8時発國光客運1826番路線バスで台北を出発する。10時50分に台中駅前のバスセンターに到着、そこから少し歩いて總達客運6333番路線バスの干城バス停に向かう。ちょうどバスが発車するところで、うまく接続できた。

水里で員林客運のバスに乗り換える
東埔バス停に到着
總達客運のバスは台中の街を抜けた後、高速道路を走って行く。途中今年7月に登った集集大山のある集集を通り過ぎ、12時30分水里に着く。待つこと20数分で、今度は員林客運の6732バスがやってくる。14時少しまえ、東埔に到着する。台北を出発して約6時間だ。本来は、東埔で一泊し翌日から歩き始める計画であった。しかし、早く到着しまだ陽が高いので、宿をキャンセルし樂樂山屋へ向かうことに急遽変更する。山小屋は本来事前に予約が必要だが、スマホで確認すると誰も泊まる予約もなく、大丈夫のようだ。

東埔の温泉街を望む
集落中の登山口(Aさんカメラ)
食事をすませ、15時前に歩き始める。短い商店街を抜け、舗装路を進む。道は橋を渡って回り込み対岸に温泉街の建物を見る。もともとの山道入り口は、道が壊れたようでふさがれている。そのまま舗装路を進んで、15時15分部落の中の登山口を左に折れ登り始める。雲龍瀑布へのハイキングを終えたハイカーたちとすれ違う。雲龍瀑布まで入山許可はいらないので、多く歩かれている。道が登り始め15時35分、阿玉亭に着く。ここで阿玉を食べ小休憩する。

阿玉を食べて小休憩
崖沿いの古道を行く
ハイキングを終えたグループが降りてきて、対面の店に入る。我々も腰をあげ、歩き始める。八通關古道の始まりだ。がけ崩れ部分をすぎ、16:00父子断崖に来る。岩を削った道が現れ、道は谷に入っていく。岩は約100年前人手によって削られたのだ。背後の集落が谷の向こうに消えると、人里を離れ山登りの始まりだ。16時24分、樂樂野溪溫泉への分岐を過ぎる。今はこの温泉への道は通行できない。右が切れた断崖の道を行く。3.9Kキロポストまでくると、前方に雲龍瀑布が見える。

雲龍瀑布が奥に見える、古道は崖を横切って進む
危ない場所には橋や桟道が造られている
山襞にそって進み、ギャップにかけられた橋を越していく。17時に滝の近くで水を補給し、吊り橋を越える。ここから先は、玉山公園入園證が必要のセクションになる。あたりは暗くなってくる。ヘッドランプを点灯し、古道を歩いていく。途中外国人たち三人が水くみのためにやってくるのと行違う。先に偶然出会った知り合いの登山者が、樂樂山屋には人がいるということだが、そのメンバーのようだ。17時40分過ぎ、すっかり暗くなった山道の先に樂樂山屋が現れる。ほかにテントもあり、数名の外国人中心のグループが小屋の前でくつろいでいる。

吊り橋、これを越えると入園許可が必要




樂樂山屋は少し小さい小屋だが、つめれば八人は問題ないだろう。各自東埔で買ってきた食べ物や、持参の食料を料理して食べる。外国人グループは山を目指すのではなく、自然の中を歩くためということで、まだ外で話をしているが、われわれは20時過ぎには就寝する。

樂樂山屋の内部
もともとは明日からの行動予定だが、足慣らしもでき、また宿泊代も結果として節約できた。歩行距離約8.6㎞、標高は約600mほど上がってきた。約2時間40分の行動時間だ。

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第二日 12月9日(日)樂樂山屋 - 觀高坪 - 高繞路 - 八通關草原 - 中央金礦山屋

樂樂山屋から八通關古道を経て中央金礦山屋へ歩く
高巻きして八通關草原に出た後は、ほぼ平らな道を行く
7時半に小屋を出発
6時に起床、食事を済ませ7時半に出発する。昨晩同宿の外国人はすでに起床している。7時半、彼らを後に出発する。古道は山小屋からすぐに高巻き道となる。100年を経た古道は山腹を行くために、小沢や急な斜面の場所は土砂が水に押し流されたりして、道が途切れてしまう。そのため、そうしたがけ崩れ場所は高巻きをして通り過ぎる。小屋からすぐの高巻きは幸いにして、それほど高く巻かずに本来の道に降りる。

高巻き部分から谷を望む
乙女瀑布
樂樂山屋は標高1670m、これから約8.5km歩いていく觀高坪は標高約2600m、勾配はそれほどきつく無い。高巻きさえなければ、歩きやすい道だ。7時50分、6.5Kの鉄橋を越す。ここで上方からやってくるパーティとすれ違う。南二段縦走を終えての下りだそうだ。その先少しで、乙女瀑布を過ぎる。谷間から見上げる空は晴れている。昨年7月に、八通關古道を歩いたときは、登るにつれて霧が濃くなっていったが、今日は冬の優しい日差しが差し込んでいる。

古道を行く
がけ崩れ部分を越す
0.5Kごとに現れるキロポストの数字が増えていく。9時14分、8Kの橋を過ぎてすぐ、崖崩れを過ぎる。簡易ロープが張ってある。9時26分、道は小高いところに上がる。對高駐在所の跡地だ。今は建物などすでになく、説明板が据え付けられている。緑の芝生に落ちた黄葉が駐在所跡地にコントラスを造っている。ここは10.5K近く、出発から約4.5Kを二時間弱で歩いてきた。休憩を取る。

對高駐在所あとで休憩
ベニヒの巨木わきを行く
引き続き古道を進む。11Kを過ぎてまもなく、道脇にベニヒ(紅檜)の大木が現れる。100年前に古道が通じたころはどうだったのだろうか。少なくとも樹齢数百年だろうから、それほど違いはないのかもしれない。10時10分、小沢を橋で越える。沢わきで数名パーティのメンバーが水を補給している。八大秀(八通關山,大水窟山,秀姑巒山)を歩いた帰りだそうだ。その先数分で、道はまた大きながけ崩れ箇所に来る。道は大きく下り登り返す。道標が新しく、最近の手直し対応したようだ。10時35分、すこし平らになった場所で休憩を取る。

休憩場所
古道わきに水が染み出している
11時、13Kを通り過ぎ数分進むと、左の山壁から水が染み出ている。ここで水を補給する。昨日の樂樂山屋は水場がない。そこで下から持っていた水を使用した。歩くにつれ左の山腹の高さが次第に低くなってくる。郡大山から降りてくる稜線が、觀高坪で鞍部となる。11時51分、觀高坪に着く。ここで昼食休憩とする。

明るい道を進む、觀高はもうすぐだ
觀高坪、道標わきの道を下がると以前林業宿舎の小屋がある
觀高坪を出発する
今までのペースからすると、このまま更に進み中央金礦山屋まで行けそうだ。出発の時は觀高までを考えていたが、更に距離を稼いでおくのも悪くない。日暮れまでまだ5時間ほど、大きな高巻きがあるが、そのあとは登りの少ない古道なので可能性は十分だ。スマホで調べると中央金礦山屋は空きスペースが3だけだが、何とかなるだろう。

高巻き道の入口
急坂を登る
12時25分、八通關草原に向け歩き始める。ほんの数分で、高巻き道が左に始まる。本来の八通關古道は、危険を冒せば全く通行不能ではないようだが、基本は通行禁止になっている。尾根上を急登していく。左に木々を通して秀姑巒山が望める。この高巻きは、標高差が400m以上あり、けっこう辛い。ひたすら登っていく。霧が出てきて遠くが見えない。途中一度休憩し、14時11分左に八通關山西峰への道を分ける。この辺りが最高点で山腹のトラバースがしばし続く。

霧のでてきた草原を下る
八通關草原への分岐
14時34分、道は八通關草原に向けて下り始める。まもなく草原に出る。しかし霧のため展望がない。15時右から本来の(通行禁止の)八通關古道を合わせる。その少し先で右に行けば八通關駐在所跡地に行く、そこからさらに進めば玉山主峰と北峰の鞍部へと続く。日本時代の玉山登山は、まさに東埔から八通關古道を経て登頂していた。左にとり下っていく。そのうち道は山腹を巻き始める。15時15分、高巻き道の入り口で休憩する。

高巻き道から古道におりたところ
達芬尖山が見える
幸い高巻き道はすぐに終わり、平らな古道歩きが始まる。中央金礦山屋までまだ6Kほどある。昨日は觀高まで行けばよいと思っていたので、今日は7時半出発にしたが、もう一時間早く出発していればよかったと、後悔する。山歩きは、基本は早朝出発だ。幸い道はほとんど平らで、状態もよい。霧も晴れてきて、木々の向こうに達芬尖山が見える。16時13分、八通關山への分岐を通過する。16時49分、巴奈伊克小屋を過ぎる。小屋といってもドアもすでにない、半分廃棄状態の小屋だ。緊急の場合は使えるだろうが。

陽が傾きだした古道を急ぐ
巴奈伊克山屋、扉はない
更に古道を急ぐ。前上方に見える山が黄金色に輝きだした。最後の夕陽が照らし出しているのだ。日暮れを考え、ヘッドランプを用意する。17時15分、がけ崩れ部分を通過する。右下方の沢が近づいてくる。更に数分進み、17時20分に中央金礦山屋に到着する。幸い暗くなる前に到着できた。小屋はもともと予約していたパーティーはいない。我々の貸し切りだ。歩行距離約17㎞、高度差1700mを歩いてきた。行動時間は10時間、距離と高度の割には短い。ところどころがけ崩れや高巻きがあるとはいえ、やはり全体的には道の状態が良いことが幸いしている。
中央金礦山屋前のがけ崩れ
中央金礦山屋
沢がすぐ下に流れ、水場の心配がない。小屋の中で食事を支度をする。小屋の中は太陽発電の電灯が明るい。筆者は支度をしているとき、誤って沸騰したお湯を左足にかけてしまった。すぐに靴下を脱ぎ、冷たい水で冷やす。しかし、その時の勢いのためか表皮がはがれてしまった。直径2,3センチほどの火傷になってしまった。幸い用意していた救急薬品で手当てする。火傷の場所はくるぶしのすぐ下で、歩く時に触れない。明日行動してみて、様子をみることにする。20時前には就寝する。

山小屋内部
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第三日 12月10日(月)中央金礦山屋 - 白洋金礦山屋 - 秀姑巒山 - 白洋金礦山屋

中央金礦山屋から白洋金礦山屋へ登り、秀姑巒山を往復
歩行高度、最高点は秀姑巒山
6時半出発する
5時起床、6時半出発だ。この時期は日照時間が短い。6時過ぎて明るくなるので、それに合わせての行動開始だ。昨日までで距離を稼いでいるので、今日は白洋金礦山屋まで登り、そこに荷物をデポした後秀姑巒山を往復することにする。白洋金礦山屋泊は、当初の予定だ。

坂道が始まる
鎖場が現れる
昨日急いで歩いた八通關古道は、ここから沢を渡り対岸の山腹を巻いて大水窟へと続く。対岸には秀姑巒駐在所の跡地がある。戦後この地に金をもとめてやってきて、この中央金礦ができた。我々は、主稜線に向けて古道を離れ山道を登る。道はすぐに急になる。標高約2800ⅿの中央金礦山屋から3200ⅿの白洋金礦山屋まで、約3Kほどの道のりで400mの高度を上げる。

アカマツ林の向こうに稜線が見え始める




アカマツ(二葉松)林の中の道は、ところどころ湿っていたり、鎖場があったりするが、おおむね道の状態はよい。7時50分、高度が3000mを越え、遠くの景色も見えるようなる。谷間の向こうには、玉山主峰と東峰が重なり見え隠れする。歩みを進めるに従い、道脇の樹木も背が低くなり、陽光がさしこみ明るくなる。8時40分、八通關から8.5Kを過ぎる。白洋金礦山屋まで残り1キロ足らずだ。上方から下ってくる、二人の登山者とすれ違う。

高度が上がり、谷の向こうに玉山連峰が見える
積み上げられた石壁の中に神棚
9時36分、石を積み上げた壁に造られた、もともと金が採取されていたころは祠であったと思われる場所を過ぎる。更に3,4分登ると山小屋が現れた。小屋は、金鉱坑道入口のすぐわきの狭い場所に建てられている。小屋のわきには、沢水がホースで引かれており、常に流れてとても便利だ。このような3000mの高山で金が採掘されていたのかと思うと、鉱夫も大変だったろうと思う。鄭成功のころからここに宝があるという伝説もある。実は、今年四月に登った屏風山の近くでも金鉱があった。台湾の中央山脈は金が採れるのである。

白洋金礦山屋
小屋内部
白洋金礦山屋に入り、休憩を取る。一時間の休憩後、10時40分軽装で秀姑巒山へ向かう。中央山脈の最高峰であり、また台湾第六の高峰でもある。秀姑巒山は6年前に初めて玉山主峰を登頂した時、深い荖濃溪をはさんで対岸に対峙してた山である。その頃は、台湾の高山はほとんど知らず、下山した後写真と地図を見比べて、わかった山である。その時は、いずれは訪れることを思った。

小屋裏の金鉱坑道跡と沢
秀姑坪鞍部へ向けてザレを登る
軽装で気楽に、山脈鞍部の秀姑坪へ登っていく。ほぼ森林限界に建てられている白洋金礦山屋から数分で、樹木が少なくなりザレの斜面に出る。登り切り、小屋から15分ほどで鞍部の分岐に来る。右は大水窟山、左は秀姑巒山へ続く。分岐近くには、数個のザックがデポされている。おそらく縦走の登山隊がここに荷物を置き、秀姑巒山へ向かっているのだろう。

秀姑坪の分岐、ザックがたくさん置いてある








秀姑坪は、もともとニイタカビャクシン(玉山圓柏)の原生林があったという。300年ほど前に山火事があり、森林は喪失した。なだらかな斜面に、白いビャクシンの枯れた幹が転がっている。火事で焼けた跡の見受けられるものもある。今では、10月に登り通り過ぎた雪山翠池付近のビャクシンが、台湾で一番大きな原生林である。秀姑坪のビャクシンが、また立派な森林となるには、少なくともあと数百年かかるのだろう。自然の営みは、人間のスパンよりはるかに長い。

倒れたビャクシンの幹と、まだ小さいビャクシン
岩場を行く
緩やかな斜面を登ること10数分、道標が現れる。ここから山脈の東斜面に回り込む。山道は、少し下り気味にトラバースしていく。岩場もある。コダマギクの花が枯れて残っている。岩場を過ぎると、秀姑巒山から降りてくる支稜に向けて登っていく。途中、二パーティとすれ違う。12時2分、頂上へ向かう道と、そのまま山腹をトラバースして馬博拉斯山へ向かう道への分岐に着く。左にとり、頂上へ登っていく。

岩場のコダマギク
頂上に向けて登る
秀姑巒山山頂の筆者、背後は馬博拉斯山
霧がかかってきた中下山する
ところどころジグザグの道を登り、12時50分稜線に上がる。稜線上を数分進み、標高3805mの山頂に着く。左奥に馬博拉斯山が望める。その左肩から稜線が盆駒山へと降りていく。その昔1931年夏に、鹿野忠雄が群大溪の無双部落から盆駒(ウマボンゴ)山をへて、馬博拉斯山を登り、更に秀姑巒山と大水窟山登頂後、八通關警備道(古道)の南駐在所へ縦走している。秀姑巒山は、本来原住民ブヌン族のマホラス(老人の意味、雪を抱いた山頂が白髪のように見える)山であり、現在の馬博拉斯山は本来ウラモン(烏拉孟)山であるが、日本時代に地図にこのように記載され現在に至っているという。一方、秀姑巒山の名前は、東海岸側に住居を構える阿美族の言葉が、港、川そして山を指す名前となり、清時代の文献記載から現在に至るまで使用されているとのことだ。

秀姑坪へ下る
鹿野忠雄が80数年前に山頂を踏んだことに思いをはせていると、ガスがあがってきた。登頂時に玉山方向はすでに霧のなかで、望むことができなかったが、メンバー全員がそろい記念写真をとるころには、すべて白色一色になってしまった。13時35分、頂上をあとにする。往路をくだり、分岐を取りすぎる。山腹をトラバースして、秀姑坪へ戻る。鞍部の分岐から下り、15時に白洋金礦山屋に戻る。今日は歩行距離7.4k、都合1040mの登攀である。

白洋金礦山屋に戻った
夕空に玉山連峰のシルエット
17時過ぎ、玉山連峰の向こうの青空に太陽が沈む。ネットの天気予報でも、明日の天気は問題ない。食事を用意する。昨日の火傷を見てみる。回復には時間がかかりそうだが、縦走するには差し支えない。昨晩、少し痛みを感じた時もあるが、今日一日歩いてみても、特に支障がなかった。19時を少し回ったころ、われわれ四人だけの小屋に、単独登山者がやってきた。かなり重い荷物を担いで、觀高からやってきたという。小屋の明かりが21時に消える前、就寝する。

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第四日 12月11日(火) 白洋金礦山屋 - 秀姑坪 - 大水窟山 - 大水窟山屋

白洋金礦山屋から大水窟山を越えて大水窟山屋へ
歩行高度表
山小屋から見る玉山連峰は朝陽に染まる
5時に起床、スープとビスケットの食事をとる。小屋の外に出ると、果たして良い天気だ。谷の向こうの玉山連峰が朝陽に映えて赤く輝きだす。6時40分、ザックを担ぎ登り始める。昨晩到着したBさんは、まだ寝ている。7時に秀姑坪につく。ここから右(南)へと進む。大水窟山は、昨日の秀姑巒山とは対照的に、緩やかで大きな山容だ。緩い坂を登っていく。7時10分、小休憩をとりまた登りを続ける。ビャクシンの枯れ木があちらこちらに、その存在を誇示するかのように、突っ立っている。

ビャクシンの枯れ木
秀姑巒山を背景に立つ枯木
秀姑坪起算のキロポスト
キロポストはまた新しくなり、7時36分秀姑坪1K,今日の目的地大水窟5.3Kのキロポストを見る。7時48分、小ピークに上がる。秀姑坪1.5Kの道標のところから、背後には昨日の秀姑巒山から馬博拉斯山への稜線が、西には玉山連峰がはっきり見える。前方には、その前に小ピークを控えた大水窟山が、こちら側に大きな崩壊の斜面を見せて座っている。進むにつれ、前方左側に特徴ある台形の新康山が見えるようになる。これから、あの山の近くまで歩いていくのだ。

新康山を望む、手前の大水窟草原には山小屋が見える
西には玉山連峰
遠く玉里と背後に海岸山脈が見える
一度下り、小ピークを乗り越えていく。この角度からだと、ちょうど拉庫拉庫溪の谷間の向こうに平地が見える。玉里だ。そしてその背後の海岸山脈も望める。今日は本当に天気が良い。出発前の天気予報では、あまりよくない見込みだったが、天は味方してくれた。鞍部の少し前で小休憩し、大水窟山へ向けて登っていく。8時35分、秀姑坪2Kを過ぎる。

平たい頂上の一角に登りついた、背後は秀姑巒山
@大水窟山山頂
9時主要な登りを終え、広い頂上(標高3612m)の一部につく。灌木を過ぎると、山頂の標識がある。そこで長めの休憩を取る。玉山連峰が手に取るように近い。これから歩いていく南二段の山々が前方に長く重なって連なっている。雲峰の奥には、南一段の盟主關山が三角の山頂をのぞかせている。手前には、達芬尖山が三角おにぎりのように、稜線上にちょこっとのかっている。

これから歩く南二段の山々が連なる、奥の高い山は雲峰、その後に關山、手前のとんがりピークは達芬尖山
強い風で片側に枝がなびいて成長したビャクシン
急になった坂を下る
10時山頂をあとにし、下り始める。緩やかな下り道が続く。尾根の幅はとても広く、たおやかだ。一面を覆うニイタカヤタケ(玉山箭竹)は、冬なので葉が枯れて黄色に広がる。条件の厳しいこの地のヤタケは、くるぶしぐらいの高さしかなく、草原をなしている。10時36分、秀姑坪4Kで道は右に曲がり、最後にすこし急になった坂を下る。11時、右から八通關古道を合わせ、平らな道を10分ほど歩くと大水窟につく。右に日本時代には涼亭があった石造り台がある。当時は台中州と花蓮港廳との境界であもあった。今日は約5.3K、登攀420m、休憩込み行動時間は4時間40分である。

広い草原を行く
大水窟池と山小屋
大水窟池の水は少ないが、十分使用できる分量だ。少し進んで大水窟山屋につく。誰もいない小屋の窓や扉を開けて空気を通す。シュラフなども取り出し、日干しする。天気がよても良いので、寒さも感じない。小屋の雨水貯水たタンクは空だ。自分たちは、白洋金礦山屋から担いできた水を使うので問題ない。冬の縦走は、雨が少ないため、池なども含め水場が少ないので水の対応は考慮が必要だ。ラーメンを煮て昼食を取る。

下弦の月が空にかかる

17時過ぎに日が沈んだ後外に出てみる。下弦の月が西の空に浮かんでいる。中に入りしばらくすると、昨日と同じようにヘッドライトをつけてBさんがやってきた。彼は、われわれと同じように南二段を縦走していく。20時ごろに就寝する。外では、水鹿がやってきたようだが、今回はわざわざ外に出て見ることはしなかった。今日までは、12月8日に早めに歩き始めたことによる貯金があったが、明日からは当初の予定通りのスケジュールになる。


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第五日 12月12日(水) 大水窟山屋 - 南大水窟山 - 達芬尖山 - 搭芬谷山屋

大水窟山屋から妲芬尖山を越えて搭芬谷山屋へ歩く
全体的に下りの歩き
朝陽が大水窟の草原と山をピンクに染める
今日は縦走全期間のなか日だ。5時に起床する。Bさんは足が遅いということで、5時半に先に出発していく。夜明け前の東の空には、明けの明星が浮かんでいる。支度をして小屋の外に出る。朝陽が大水窟の山と草原と雲とをピンクに染める。東の雲海から太陽が昇り始める。6時半、我々も小屋をあとにして、南大水窟山へ向けて登り始める。

登るにつれ、山小屋が小さくなる
朝陽で雲海に黄金色の波がたつ
玉山北峰の上に笠雲
登るにつれ、大水窟山屋が小さくなっていく。稜線上から見ると、東に広がる雲海に朝陽が黄金色の波を照らし出している。たおやかな草原を登ること約30分、南大水窟山の頂上が近くなる。頂上前は急坂だ。右(西)側に見える玉山北峰には、笠雲がかかっている。7時5分、南大水窟山頂上(標高3381m)につく。はげ山の山頂に立つと風が強いことに気づく。草原の向こうには、達芬尖山がチョコンとその存在を示している。

広大な草原の向こうに雲海が広がる
南大水窟山山頂
切り立った小ピークの向こうに達芬尖山
ピークの右側山腹をトラバースしていく、遠くは玉山連峰
松葉絨毯の道を行く
7時26分、山頂から下り始める。真正面に玉山連峰を見ながら進む。数分進むと、急坂が始まる。7時50分、新たに大水窟が起点で2K、三叉山まで31.1Kのキロポストを過ぎる。前方に左側が切れたったピークが迫ってくる。このピークはなだらかな右側の山腹をまいていく。稜線の幅が広がる。アカマツ林が現れ、足元は落ち葉の絨毯だ。8時55分、大水窟山屋3.6K,達芬尖山3.6Kと記された道標がある。表示はされていないが、ここから荖濃溪に下り、八通關古道の南駐在所跡とツツジ駐在所跡の中間に登り返す道がある。ただ、今はほとんど歩かれないので廃棄に近いのかもしれない。そのさき少し行くと、4Kキロポスト脇の池があるテント場にくる。休憩を取る。

もともとは荖濃溪へ下る道が分岐する場所と思われる
4Kテント場、中心に池、キロポスト脇には動物の骨が置いてある
達芬尖山が近づいてくる
尾根は広い場所と狭い場所が交互に出てくる。狭い場所では、切れ落ちた谷側の上を行く場所もある。気を付けて通過すれば問題はない。稜線の東(左)側を行くときは、雲海上に頭を出す新康山が、常にその存在を示している。10時35分、達芬尖山が目の前に迫ってきた。浅い窪み状の草原には、鉄の柱や鉄板が転がっている。尖山下山屋の跡だ。数分登り返すと、達芬尖山への分岐にくる。分岐のわきには、ここで命を落とした登山者の碑がある。

達芬尖山登山口近くに来た
空身で急坂を達芬尖山へ登る
荷物をデポし空身で登り始める。急坂を約10分登ると、達芬尖山山頂(標高3200m)に着く。障害物がない頂上は、360度の展望台だ。5月の玉山登山の時に見ていた達芬尖山山頂に今立っている。1931年8月、ここに単独登攀した鹿野忠雄は、その著書『山と雲と蛮人と』の中で「雄渾無比の危峰シンカン山は、ここから見てもまた東の空の王者であり、そこから未知な著しい平頂峰(筆者註、三叉山と思われる)を経て南に視野を転ずれば、南雙頭山は間近に...横から眺めた新高山彙は、さすが日本一の名声に愧じない大観を西の空に展開していた。...」と述べている。どこまでも続く青空のもと、季節は違うが鹿野忠雄と同じ風景を見ている。

山頂から望む玉山連峰(左)、大水窟山と手前の縦走稜線

山頂から南方向を望む、左が新康山,その右に三叉山,南雙頭山,右手前は轆轆山とその奥の雲峰
筆者@尖山、背後は玉山連峰
鹿野忠雄は、今のような縦走路を経て登ったのではない。1928年に反旗を翻したブヌン族のラホアレは、荖濃溪の流域にその勢力をもち、警備道の派出所や通行人を襲った。そのため、今でいう南二段の山々は關山警備道が開通し、ラホアレ一味が1933年に帰順するまでは危険地域であった。鹿野忠雄に同行した道案内兼ポーターのブヌン族の四人は、ラホアレを恐れて同行せず (原住民は集落と狩場が異なればお互いに首狩りをしていた)、鹿野忠雄は単独で南駐在所から荖濃溪へ下り、登り返して尖山に登頂している。

がけ崩れ部分を通過する
アカマツ林を下る
11時30分過ぎ、山頂から下り始める。数分で分岐に戻り、リュックを担いで搭芬谷山屋へ向かう。補助ロープの張ってあるがけ崩れを通り過ぎ、草原から森の中に入る。12時25分、大水窟8Kを過ぎてまもなく休憩する。12時40分、また森の中の開けた場所を通り過ぎ、まもなく坂が急になってくる。アカマツの落ち葉で滑りやすい坂を注意して下る。13時10分、搭芬谷山屋が谷あいに現れる。今日は9.1Kmの道のりで、累計の登攀は640mだ。基本は下り気味なので、登りは少ない。

搭芬谷山屋





標高2600mの鞍部で松林に囲まれた山小屋は、風に揺れる松の音が途切れない。ここは小屋のある対面の壁から水が染み出し、よい水場をつくっている。ただし、小屋からちょっと離れたところにある、トイレはいただけない。汚物でいっぱいだ。玉山國家公園管理下にある山小屋は、この問題を解決しなければならないだろう。小屋の前には捨てられたガス缶やその他ゴミがある。台湾の登山者マナーもまだ問題だ。

残念なことに、小屋の前には多くのゴミ
今日も小屋は我々四人に、途中で追い越し、その後少し遅れてやってきたBさんを入れ5人だけである。昼間は20度を超えていたが、太陽が沈むと急に気温が下がる。今日も20時過ぎには就寝する。

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第六日 12月13日(木) 搭芬谷山屋 - 搭芬山 - 搭芬池  - 轆轆山 - 轆轆谷山屋

搭芬谷山屋から百岳二座をを越えて轆轆谷山屋へ
登りが基調の歩き
小屋を後に出発
今日も5時起床だ。山小屋の外にでると、空は満天の星だ。寒暖計は6度を示している。やはり冬の高山である。Bさんは5時過ぎに出発していく。我々は食事をすませ、6時半過ぎに出発する。谷間はまだ薄暗いが、背後の山腹が黄金色に輝きだした。

森の底はヤタケが密生している
急坂を登る、背後には尖山
森の底はヤタケが密生している。樹木の下にあるためか、幸い夜露で濡れていないので助かる。暫く急坂が続く。30分ほどで緩やかになると、稜線の東側にでる。朝陽が差し込んできて、森は黄金色に満たされる。7時20分、11Kを通り過ぎ、前方に搭芬山が見えるようになる。森に囲まれた草原を突っ切る。急坂が始まる。立ち枯れが目立つセクションを通過する。高度が上がってくると周囲の山々が視野に入ってくる。8時32分、雲一つない青空の搭芬山山頂(標高3090m)に立つ。

搭芬山頂上、向こうに轆轆山が見える
山頂のメンバー
南側は樹木が高いので少し遮られるが、山頂は絶好の展望台だ。昨日の達芬尖山は、こちらから見ても稜線上にチョコンと座っている。その左奥は玉山連峰だ。一昨日大水窟山からは重なって見えていた主峰と東峰は、しっかり離れてその存在を示している。東峰は、本当に大きな岩の塊だ。秀姑巒山や大水窟山はすでに遠い。振り返れば、これから歩いていく轆轆山が、三つのピークを樹木のわきからのぞかせている。

北方向のパノラマ
搭芬池
この付近は、昨日の達芬尖山、搭芬谷山屋そしてこの搭芬山と、ターフンという名前が多い。実は八通關古道の大分もターフンである。もともとはブヌン族の言葉で、湯気が立つ場所という意味だそうだ。大分近くに温泉が湧き出ている。これら名前はすべてここに関係している。達芬尖山は、鹿野忠雄のころは単に尖山と称されていたが、尖山は各地にあるので達芬が冠せられた。

やせ尾根のカラマツ林を行く
対向パーティとすれ違う
9時6分、搭芬山を下り始める。数分下ると、前方の草原に水がだいぶ干上がった池を見る。搭芬池だ。轆轆山まで4.3Kの道標がわきに立っている。道はアカマツの森の中を行く。起伏の少ない森の中の道を行くのは、実に爽快だ。9時51分、14Kを通り過ぎる。その先で、対向方向からの縦走パーティとすれ違う。このパーティーは、ポーターを雇っているようで、一人が大きな荷物を担いでいる。

岩場セクションを下る
稜線の西側はタイワンツガの森だ
その先進んでいくと、道は痩せ尾根上を行くようになる。岩の露出した部分や補助ロープの急坂も現れる。あまり危険個所がない南二段縦走路中、ここは最もそれが多い場所だ。小ピークを越えていく。こうしたセクションを通過するには、結構時間を要する。稜線の東側は陽光を好むアカマツが、日陰が多い西側はタイワンツガ(鐵杉 )が森を造り、対照的だ。道は、尾根の右側を行くようになる。立ち枯れが目立つ。12時半、食事休憩をとる。轆轆山への分岐に向けて登るにつれ、霧が湧いてくる。

立ち枯れの森から玉山方向を望む
轆轆山頂上のメンバー
13時7分、轆轆山の分岐に来る。メンバーの一人Yさんは、過去二回登頂しているので行かず、三名でザックをデポして空身で山頂へ向かう。急な坂を上った後、下って登り返す。20分足らずで轆轆山(標高3279m)山頂に着く。山頂の周囲は樹木がないが、霧が立ち込めて展望はない。朝搭芬山から見えていたこの山頂から、搭芬山を望むことはできない。早々に往路を引き返す。途中、右下方に今日の宿泊地轆轆谷山屋の赤い屋根が、霧の合間に見え隠れする。14時4分、分岐に戻る。

轆轆谷山屋へ向けて下る
ザックを担いで下り始める。下るにつれて、霧が晴れて前方が見える。明日登る雲峰がだいぶ近く大きくなっている。東の拉庫拉庫溪の谷間は雲海がビッシリ覆っている。草原の道を下り切り、14時40分轆轆谷山屋に到着する。今日は約7.6K、累計で1000mほど登っている。登り基調の歩きであった。3000mを越える鞍部にある山小屋は、今日のような良い天気の時には、実に気持ちがよい場所だ。寒暖計は13度を示している。

霧が晴れてきて、谷間に小屋が見える
轆轆谷山屋、小屋の向こうに明朝歩く道が見える
雨水タンクは、水が少ない。筆者は、昨日の搭芬谷山屋から水を担いできた。水場は、小屋前の涸沢を20分ほど下っていたところに、水が流れ出している。メンバーの一人、まだ若いJ君が下っていき、約1時間ほどで水を担いで戻ってきた。今日は、我々以外に8名ほどの登山者が同宿する。







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第七日12月14日(金) 轆轆谷山屋 - 雲峰 - 南雙頭山 - 拉庫音溪底山屋

轆轆谷山屋から拉庫音溪底山屋へ歩く、雲峰を往復し南雙頭山を越える
長丁場の歩き
轆轆谷山屋は電灯がつかない、ヘッドランプで朝食
縦走も後半に入ってきた。今日は、雲峰への往復、そして南雙頭山を越えて拉庫音溪の谷間に下る長丁場だ。3時半に起床し、5時には出発する。今までと違い、夜明け前の出発だ。ヘッドランプを頼りに、登山道を進む。道ははっきりしているので、問題ない。はじめの2、3Kはあまり起伏もなく、距離が稼げる。6時12分、明るくなってきたころ大水窟20Kキロポストを過ぎる。すぐわきには池があり、ここで設営も可能だ。

20K近くの池
朝陽の差し込む松林を行く
道は登り始める。稜線の東側を行く。朝陽が森の中に差し込んでくる。7時25分、我々より1時間ほど前に出発したBさんに追いつく。少し休憩し、雲峰分岐へ山腹道を行く。ガスが上がってくる。それに朝陽があたり、思いがけない虹がでている。最後にタイワンツガの森を抜け、8時半分岐に着く。この分岐には目立つ道標がない。ちょっとした平らな場所にテントが張ってある。分岐はテント場でもある。

虹が出ている
刀片岩を行く
Yさんを除く三名で雲峰へ軽装で向かう。雲峰は、南二段の主稜線から西に分かれて伸びた尾根上にある。その先には、鹿野忠雄を悩ませたラホアレの部落が麓にある玉穗山が続いている。ここから山頂へはちょっと距離がある。歩き始めてしばらく行くと、刀片岩と呼ばれる岩場を通過する。道は山腹をトラバースしていく。南雙頭山の方向は、拉庫拉庫溪の谷間を埋める雲海が尾根を越え拉庫音溪側へ雲瀑となって溢れだしている。

雲瀑が目の前で展開する
主峰が眼前に現れる
道は、山腹にそって進み、降りてくる枝尾根をまいていく。9時44分、歩き始めて1時間で初めて前方に雲峰主峰が見える。山頂前の急坂を終えると道はなだらかになる。偽ピークを二つ越え、10時16分やっと雲峰山頂(標高3564m)に着く。360度の展望が可能だ。北には歩いてきた大水窟山が頭に雲を頂き、また達芬尖山と轆轆山が雲間に頭を出している。南側は近くなった三叉山から向陽山が拉庫音溪をはさんで連なり、そのさらに西には關山が高く控えている。

山頂のメンバー、背後は三叉山-向陽山
帰路上で、これから歩いていく尾根と南雙頭山を望む
雲海上の登山者
10時53分、往路を下り始める。少し行くと、登ってきたBさんとすれ違う。彼は今日はテント場で設営し、拉庫音溪底山屋へまではいかない。ここで別れを告げる。さらに下っていくと、以前一緒に歩いたことのあるDさんグループとすれ違う。11時57分、分岐へ戻る。雲峰への往復は、休憩も含め約3時間20分であった。

分岐へ戻ってきた
縦走路の岩場を過ぎる
12時20分、南雙頭山に向けて下り始める。十数分下ると、窪地になった雲峰下三叉キャンプ地を過ぎる。風は防げるが、水場がないので水を持ってくる必要がある。12時41分、23Kキロポストを通過。三叉山までは残り10.1Kとなった。その先、ちょっとした岩場を通過し、森を抜けると前方に南雙頭山への稜線が続いている。真っ赤な馬酔木の実が彩を添える。鞍部を通り過ぎ、緩やかな登りが始まる。13時54分、25Kを過ぎると山腹を急坂で登り始める。日陰になった場所では、湿ったヤタケの葉でズボンが濡れる。14時28分、稜線上にのる。頂上はもう目と鼻の先だ。数分で南雙頭山山頂(標高3356m)に着く。

南雙頭山が近づいてくる
稜線へ急坂を登る
霧で展望がない南雙頭山上のメンバー
霧の草原を下る
登りの時から湧いていたガスが広がり、南雙頭山山頂からの展望を遮る。14時52分、拉庫音溪底山屋に向け、高度差約700mの下りを始める。霧が立ち始めた草原に細い道が続いている。15時03分、拉庫音溪底まで3.6Kの道標を見る。更に30分ほど緩やかな草原を下ると、坂は急になる。

高度がだいぶ下がり、対岸には明日登る三叉山への稜線が望める
下方に沢が見える、小屋はもうすぐだ
霧が晴れ、前方に三叉山が高い。15時54分、28Kを通過し、道は方向を換え山腹にそって下り始める。沢音が次第に大きくなる。16時21、坂道を下りきりかなり水量のある拉庫音溪を渡る。渡ってすぐに拉庫音溪底山屋が現れる。日暮れ前に到着した。今日は14.8Kの道のりで、累計1140m登り1450m下っている。休憩込みで11時間半の行動時間だ。

拉庫音溪を渡る
拉庫音溪底山屋
標高2690mにある拉庫音溪底山屋は、水も豊富で山間の楽園だ。ほかの登山者はおらず我々四名だけの貸し切りだ。寒暖計は12度、まだそれほど寒くない。歳を重ねると、回復力が落ちるのかちょっと疲れた。明日もまた長丁場だ、早めに食事を済ませ就寝する。

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第八日 12月15日(土) 拉庫音溪底山屋 - 三叉山 (嘉明湖) - 嘉明湖山屋 - 向陽山 - 向陽山屋

拉庫音溪から三叉山へ登り、向陽山を経て向陽山屋へ
歩行高度表
暗い中沢を渡渉する
今日は標高2690mの谷底から約3500mの三叉山への高度差約800mの登り返しが待っている。3時過ぎに起床する。外に出ると霧がかかっているが、星も見える。寒暖計は5度を示している。昨晩取り出したが食欲があまりなく、結局食べなかった即席めんを調理し食べる。

ヘッドランプを頼りに登る
明けの明星が掛かる夜の底が赤くなる
4時36分、ヘッドライトを点灯し出発する。すぐに沢を越え、登り始める。歩き始めて10分ほどで30Kキロポストを過ぎる。暗い中の登りは、足元しか見えずひたすら歩みを進めるだけだ。そのため、集中して登れる。5時50分、明けの明星が掛かる夜の底が赤くなり始める。6時ごろから、山の様子が判別できる。谷は雲海に埋まっている。小屋のあたりが霧であったのはこのためだ。3,4日前の天気予報では、今日はあまりよい天気ではなかったが、今日も天気は持ちそうだ。

朝陽に草原が現れる、左は昨日登頂の雲峰、雲海の向こうは秀姑巒山から馬博橫斷の山々
日の出
登るにつれ明るくなり、草原の様子がはっきりする。遠くの山々と雲海も形があらわになる。6時30分、雲海に浮かぶ新康山の右側から太陽が昇る。太陽が出ると、草原はたちまち茜色に染まる。標高はすでに3300mを越えた。思っていたより苦労を感じず高度を稼いできた。まだしばらく登りはあるものの、気持ちが楽になる。朝陽の中、広大な草原の中に緩やかな道が続いている。

茜色に染まる広大な草原
雲海に浮かぶ新康山
雲海と草原と峰々と
長い登りももうすぐ終わる
@新康山への分岐
7時42分、新康山への分岐に着く。早朝のヤタケの露でぬれるのを防ぐためはいていた雨ズボンを脱ぐ。少し登り気味に山腹をトラバースしていく。8時14分、嘉明湖への分岐に来る。若いメンバー二人は、三叉山山頂へ向かう。筆者はすでに二回登っているので、分岐で待つ。その後、嘉明湖へ向かい記念写真を撮る。9時嘉明湖山屋に向け、三叉山山腹のまき道を進む。9時20分、前方に向陽山と向陽山北峰が見える。ここからは過去二度歩いているので、十分わかっている。
@嘉明湖
向陽山(左)と向陽山北峰、縦走路が続く
鞍部に下り、向陽山北峰へ登り返す。嘉明湖へ向かう軽装のパーティが多く、すれ違う。登り返しは約150mほどの高度差だ。10時23分、登り返しが終わり北峰の下部に到着、休憩する。雲峰と南雙頭山が連なり、その向こうに玉山連峰がのぞく。

三叉山を背景に向陽山北峰に向けて登る
嘉明湖山屋が見える
道は広く、南二段と比べると登山者が多いことがわかる。山腹の道を進み、11時10分、嘉明湖山屋に着く。山小屋は夏に拡張工事中だった部分が完成し、裏側のテラスができている。その他にもまだ工事が進行中だ。ちょうど昼時なので、協作の料理した麺をいただく。久しぶりの野菜たっぷりの食事だ。腹が膨れたあと、小屋の中で少し横になり休憩する。小屋の壁には10月に熊が小屋近くに現れたという張り紙がある。食料をもとめて熊がやってきている。

@向陽山登山口
向陽山山頂の筆者
12時27分、小屋を出発する。山腹道は向陽山登山口に向け登っていく。30分ほどで登山口に着く。天気はとてもよく、以前は雨の中の登頂で何も見えなかったので、空身で山頂へ向かう。最後に岩場を乗り越し13時20分、向陽山山頂(標高3602m)に着く。少し雲があり、雲峰や背後の玉山が見え隠れしているが、その東側に大水窟山から秀姑巒山の山並みが見えている。あそこから30数キロ歩いてきたのだ。感慨深い。目を南に向ければ、關山が山頂を雲の上に突き出している。

向陽山山頂から歩いてきた峰々の方向を望む、雲上の旅のフィナーレだ
南方向を望む、關山が雲の上に頭を出している
三叉山(左)と縦走中常に見えていた雲海に浮かぶ新康山
@向陽名樹
13時40分、登山口分岐に戻り向陽山屋に向け下っていく。14時20分過ぎ、向陽名樹のビャクシンで休憩し、写真をとる。多くの登山者が近くで写真を写している。こんな場所でどうしてとるのかと思うが、彼らには新鮮なのだろう。更に数分下ると、道は稜線を離れ山腹を下っていく。これで一週間見てきた、山々の景色とはお別れだ。そう思うと何か寂しい。階段道の遠くには、關山が霧のかなたに大きくデンと座っている。次の登山目標だ。

稜線を離れ向陽山屋へ下る
整備された階段道を下っていく。霧の中に入っていく。道が濡れている。いままで雲海の上にいたので、素晴らしい青空を満喫してきたが、これからは雲の下だ。先ほど向陽名樹周辺で写真を多く写していた登山者は、雨に濡れてきたので、雲の上にでて解放感を感じていたのだろう。15時20分、向陽山屋に着く。道のり約14㎞、登り累計1270m、下り累計1080m、休憩込みで11時間の歩きだった。今日は土曜日、雨の中多くの登山者が登ってきて、小屋は満員となる。今までほとんど我々だけだったが、今日は隣の登山者の鼾に悩まされる。







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第九日 12月16日(日) 向陽山屋 - 向陽森林遊樂區 - 池上 - 台北

4Kあまりの下り道
ほとんど下りの歩き
気温三度とちょっと寒い
嘉明湖へ軽装で往復するのだろう、3時ごろから小屋の中は騒がしくなる。昨晩は雨音を聞いたが、天気は回復し上天気だ。今日は、いよいよ下山である。4キロほどの道を下るだけなので、気楽だ。10時に約束しているシャトルサービスに間に合わえせればよい。6時過ぎに食事をとり、7時前に出発する。

向陽登山口へ下る





7時半に山道の終点に着き、林道を下っていく。8時半、向陽遊樂區入口に着く。ここで入山許可書類を係員に渡す。最近は熊が出没するので、これから入山する登山者に対し熊に関する説明をしている。熊鈴も置いてある。筆者は常に使っているが。9時50分にシャトルサービスのタクシーがやってきた。

向陽遊樂區登山口で乾杯!(Aさんカメラ)
入口建物にはクマの目撃情報など
南横公路から見る山並み
下っていく南橫公路からは、南一段の山並みが見える。来年の秋から冬の時期に登ることにしよう。今回の南二段縦走で、冬の南部の山の様子が分かった。このセクションの山は、12月ごろが一番登るのに良いのかもしれない。南横公路は、工事のために車両通行時間を制限しているが、今回は全く影響を受けずに下っていく。

池上駅で莒光號列車に乗車帰京する
11時37分、約1時間半の乗車で池上駅に到着する。メンバーの二名は12時過ぎの列車、筆者ともう一人のメンバーは14時54分発の急行莒光號である。時間が十分にあるので、駅近くの民宿でシャワーを浴び、名物池上弁当を食べる。時間通りに、台湾を一周する列車番号1番の莒光号がやってくる。20時17分、定刻より少し遅れて台北駅に到着した。

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九日間の山行は、去年夏の八通關古道横断以来である。その時は、調査隊に参加し食事などもすべてあつらえてもらった。それに比べると、今回はすべて自前である。筆者は、こうした高山縦走は、すべて自分で行ってはじめて意味があると考えている。自分で企画、荷物も自分で担いで進行する。別に山岳旅行社のツアーや協作ポーターを使用することを否定するわけではない。筆者の登山に対するこだわりの問題だ。このため、9日間の山旅だが食糧費などを除いた直接の費用は、山岳保険、交通費、向陽山屋の宿泊費(林務局管理下の山小屋は管理人が常駐し有料である)を含め約2700元、日本円で1万円足らずだ。コスパは実によい。もちろん、これは結果であって安くあげることが目的ではない。

大水窟の夜明け
南二段は、山小屋がずっと続いており、テント泊をしなくて済む。冬であってもそれほど気温が低くなく小屋に泊まれるので、期間は長いがとてもよい縦走コースである。玉山公園の入園許可や向陽山屋や嘉明湖山屋などの申請が必要だが、それをクリアーすればとても素晴らしい山々が待っている。日本の登山者にもぜひ歩いてもらいたいと思う。

1 件のコメント:

  1. こんにちは。ルル山小屋で出会った8人組の陳です。またいつかどこのやまで会いましょう。

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