このブログを検索:山名などキーワードを入れてください

2019-06-30

2019年6月29日 烏來大桶山 - 龜山 日本統治時代初期の企業家土倉龍次郎ゆかりの場所を訪ねる

南勢溪に残る龜山発電所用ダムの遺構と背後に大桶山
大桶山は、烏來の入口に門番のように立つ山である。日本時代の台湾山岳会重鎮沼田鐵太郎が鯨の背と比喩したように緩やかなカーブの頂上を持つ大きな山容で、台北からもすぐにわかる。特に北宜公路から烏來へいく新烏公路の入り口近くからは、右の拔刀爾山と対になり烏來を守っているかのようだ。

大桶山山腹の杉人工林
大桶山は2012年春に訪れて以来、ご無沙汰している。今回は、台湾統治初期に台湾に赴き、樟脳業、造林業そして電力開発の事業を興した、明治時代の財閥土倉家次男である土倉龍次郎の足跡を探るために訪れた日本の友人を案内する目的で大桶山に登った。下山後は1900年に土倉龍次郎が事務所を構え、近くに台湾初めての発電所が建立された龜山へ、途中関連の遺跡を見ながら歩いた。大桶山の山腹に広く植えられている杉人工林を見るのも目的の一つであり、山歩き自体は比較的楽なものである。

東側桂林路側から登り忠治側に下山、その後龜山へ歩く
下りが多い歩き
七張駅前バス停から新巴士龜山線バスに乗車
朝7時40分、MRT七張駅前バス停から新巴士龜山線バスに乗る。去年のほぼ同じ時期、大桶山から東に延びる稜線上の落鳳山へ向かうときに乗ったことがある。我々以外に、バスルート沿線に住んでいる住民も数名乗車する。台湾の地方自治体は、山間部など交通が不便で、民間バス会社などが運行するには経済的に引き合わない路線に無料のバスを運行している。新北市は、新巴士という名称でかなり多くの路線を運行している。実際のバスは、民間バス会社である。新北市が委託して民間が運営している。

登山口のメンバー
今日の参加者は、筆者も含めて10名だ。そのうちの二人は日本からの来客だ。実は、土倉龍次郎が120年前に、烏來龜山で興した事業についてその場を見る目的で来台された。今回の山行は、これが主目的である。龍次郎は、1900年に龜山に造林事業会社の事務所を設置した。当時は、まだ多くの原生クスノキが多く生え、それを切って樟脳を作り、跡地に杉を植林した。前年に300年の期間で借り受けた土地は、南勢溪とその主要な支流桶后溪の流域を含む膨大な山野だ。この土地は、当時はまだ原住民泰雅族(タイヤル族)の領域で、日本統治政府は有効な管理はまだできていない蕃地である。事務所設立当時は、原住民による襲撃もされている。そうした中、造林事業を展開するには、当然龜山近くから手を付けているはずで、その意味では大桶山の斜面などが初期の造林対象区域ではないかと思われる。

対岸の直潭山を望む,右は大粗坑山
小沢を過ぎる
バスは新店までの途中でさらに乗客を載せ、20名定員満員になる。龜山から桂山路の山道を登っていく。途中で住人の乗客はすべて下車し、我々だけになる。大桶山の登山口へ向かう道へ入る。バスは普通はここで引き返すが、親切なことに小型バスがいけるところまで載せてくれる。8時半、住宅がある場所で下車する。支度をして歩き始める。道標にしたがい、舗装路を少し行く。民家の下、登山の案内看板のところで、左に土の道に入り登る。民家越しに対岸の直潭山がはっきり見える。右には、大桶山から北東に延びていく大粗坑山がある。

また小沢を過ぎる
杉林を登る
山道を10分ほど登っていくと、杉林が現れる。小沢を越え、その先右に細い道を進む。杉林の間の急坂が続く。この杉林は、龍次郎の時代のものではなく、伐採され再度植林されたもののようだ。太いものでも、樹齢3,40年とのことだ。台湾でも林業がすたれたが、その前の植林だろう。9時6分、文字がかすれて見えない古い道しるべを過ぎる。そのすぐ先で、また小沢を越える。そこで休憩をとる。

尾根上の道に合流
最後の急坂を登る
今回のルートは、桂山路の登山口は標高520mぐらいで、標高 916mの大桶山山頂まで高度差は400mと少ない。休憩後さらに杉林の急坂を登る。9時24分、稜線に上がり忠治からの道と合流する。左に緩やかな道を少し行き、最後の落差150mほどの急坂を登る。ここも杉林のなかを行く。途中一度休憩し、9時57分、左に大桶山東峰,落鳳山への分岐に来る。ここから頂上へは、ほとんど平らな道だ。沼田鉄太郎が言う鯨の背の部分である。10時3分、天候観測設備のある山頂に到着する。樹木に囲まれた山頂は、展望はない。

大桶山山頂
山頂のメンバー
下山途中でTさんより杉の説明
30分ほど休憩し、往路を戻る。分岐から少し入り、東峰へ立ち寄る。その先落鳳山への道は草深い。分岐へもどり、下り始める。登ってくるパーティとすれ違う。大桶山は登山者が比較的多い山だ。下山途中、日本からの来客Tさんの杉についての話を聞く。学名Cryptomeria japonicaと称される杉は、日本固有種だそうだ。吉野杉というのは、よい木材を作るために育てられた、ブランド名とのこと。台湾で柳杉と称される杉は、日本から持ち込まれたものだ。11時21分、先ほど登ってきた桂山路からの登山道との分岐を通り過ぎる。

翡翠水庫の湖面が遠くに見える
豆腐石の道
豆腐石という説明板がある近くには、その名のように方形の石が山道に現れている。その近くから右遠くに翡翠水庫の湖面と、そのさらに奥の山々が見える。三週間前に訪れた獵貍尖の山並だ。その時は、今立っている場所を眺めていたわけだ。少し行くと、今度は左側が望める。拔刀爾山やその奥に插天山脈の山々が続く。右には加九寮溪、左には南勢溪本流の谷が深い。土倉龍次郎が借りた土地は、これらを全部カバーしていた。枕木階段の坂をしばらく下り、尾根が少し緩やかになる。その先右に四崁水山の分岐がある。少し休憩する。わきに珍しい白鶴藍の白い花が咲いている。

下り途中忠治側を望む
幅が広くなった道を下る
急坂を下り、道幅が広くなる。林業が盛んな頃は、木材の運搬に供されていたのだろう。いわゆる木馬道だったと思う。12時37分、産業道路上の忠治登山口に着く。原住民男女の像が両脇にある、特徴ある登山口だ。舗装路の地べたに座り、昼食休憩をとる。登山者のものと思われる車が二台止めてある。ほとんど車が通らず、日陰で食事をとる。持ってきたビールは、解凍していてちょうど飲み頃だ。

忠治登山口
下り道から大桶山を望む
治山工事がされた沢筋
約30分ほど休憩し、舗装路を下っていく。振り返れば大桶山がすでに高い。10数分下ってくると、台風で水が氾濫し橋が壊れた沢は、大規模な治山工事が行われていた。13時40分、忠治部落に着く。登山口から約30分だ。メンバーの中には雑貨屋で飲み物を買い、のどを潤している。さらに少し下り、新烏公路と交わる。道路を烏來方向に少し先に行ったところの忠治公園は、日本時代には桶壁駐在所があったそうだ。ここまで、休憩込みで四時間の歩き、ほぼ予定通りだ。

新烏公路の忠治派出所付近から望む大桶山
車道からダム遺構方向を望む
メンバーのうちの四名は、バスでそのまま帰る。残りのメンバーは、新烏公路を龜山へ歩いていく。普段はバスで通り過ぎていたが、今回は南勢溪にのこる龜山発電所に関係する遺構を見るためだ。休日の新烏公路は、多くの車が通り過ぎる。忠治派出所の上方に大桶山が高い。隧道口というバス停を通り過ぎ、彩虹橋を渡る。ここも台風で大きくがけ崩れを起こした場所で、新たにこの橋が造られた。その少し先で、新店區と烏來區との境を通り過ぎる。南勢溪に壊れてほぼ水面と同じぐらいにか残っていない、コンクリ構造物がある。龜山発電所へ水を取り込むために造られたダムの遺構である。度重なる水害で、ここまで壊れてしまった。

ダム遺構
曲管遺構?
車道をさらに進む。道は川から少し離れ、栗子園の脇を行く。14時40分、上龜山橋を渡り、南勢溪の左岸にわたる。左岸の岸辺にコンクリ構造物がある。おそらく先ほどのダムから引いた水を、川の下を通って対岸にひくために造られたサイホン曲管のようだ。龜山の街中のコンビニで休憩する。日陰のない車道歩きは暑い。

翡翠水庫の橋わきの道を川岸へ下り、発電所跡に行く




新烏公路をさらに進み、台湾電力訓練センターの脇を右に曲がり、桂山路の橋に来る。ここからは南勢溪が大きく曲がり、龜山の丘の向こうには大桶山の頭がのぞく。橋の反対側は、北勢溪が合流する二股だ。翡翠水庫へ続く橋のたもとの少し先には、龜山發電所があった。新烏公路へ戻り、川岸に降りる。今は土台しか残っていない発電所跡を見た後、15時41分翡翠水庫バス停から程なくやってきた849番バスで台北に戻る。バスに乗って間もなく大雨が降り出した。

土台だけが残る発電所跡
白鶴蘭
ほとんど風もなく、登りは大汗をかいた。それでも900メートルの大桶山は、気温もそれほどでなく、涼しく感じた。下山し、車道をあるくのはやはり暑い。夏の台北近郊登山は、晴れるととても暑く、覚悟しないと歩くのが大変だ。車道歩きを含めて約10.4㎞、下りがメインだがそれでも累計530mほど登っている。下りは約1000mだ。大桶山自身は、忠治からだと登りが多いが、桂山路からだとバスに乗ってくれば、少なくて済む。困難度はレベル2だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿